| 自伝(『高円寺のレスリングマスター』)によると、13歳のときに友人の投げたブリキの看板が目をかすめ半年間入院し眼球のレンズの部分が損傷しボクサーへの道が閉ざされた、とある。 |
| この関係か片方の目が義眼との説がある。 |
| 1960年代は世界中のリングを廻り、1967年1月大英帝国ヘビー級王座を獲得。 |
| 1968年4月に国際プロレスのリングで初来日を果たした。 |
| 同年11月に行われた第1回IWAワールド・シリーズで優勝、初代IWA世界ヘビー級王者に認定された。 |
| またレスリングの腕を買われ国際プロレスのコーチ役となり、半年間日本で生活したこともある。 |
| その後国際プロレスでは外国人ながらエース格の扱いを受けたが、日本プロレス史上外国人がエース、ベビーフェイスになったのはロビンソンが最初であった。 |
| 1970年にサンダー杉山に敗れてIWA王座から陥落、1974年に返り咲いている。 |
| また1971年のIWAワールドシリーズでは「蛇の穴」の先輩・カール・ゴッチと何度も対戦し、そのクリーンファイトは人気を博した。 |
| この時にはモンスター・ロシモフ(後のアンドレ・ザ・ジャイアント)とも対戦している。 |
| バーン・ガニアが国際プロレスを訪れて、ロビンソンをはじめヨーロッパレスラーにアメリカでの道(特にガニアの団体であるAWA)を開いたことで、ロビンソンもアメリカで本格的に活動するようになった。 |
| AWAにおいてもロビンソンはコーチ役となり、リック・フレアー、アイアン・シークなどが教えを受けている。 |
| しかしシングルのタイトル戦線に絡むことはあまりなかった。 |
| 1975年には新日本プロレスに登場。 |
| 12月11日に蔵前国技館で行われたアントニオ猪木とのNWF世界ヘビー級選手権試合(1-1、60分時間切れ引き分け)は伝説的な名勝負となっている。 |
| しかし、ギャラを巡るトラブルから新日本参戦はこの一度だけに終わった。 |
| ロビンソンによると、新日本が約束したギャラを値切ってきたので不信感を覚えて新日本と手を切ることにしたという。 |
| 1976年7月には全日本プロレスに移り、引退まで参戦した(彼が日本で最も長く参戦していたのは全日本である)。 |
| しかし、技術を披露する機会はあまり無く、それに加えロビンソン自身のコンディションは落ちていて(体を隠すためかコスチュームもトランクスからレスリングスタイルの吊りパンツに変わっていた)、全盛期の動きからは遠ざかっていた。 |
| 1976年7月24日のジャイアント馬場とのPWFヘビー級選手権はスコア2-1で敗退したが、これが日本におけるロビンソンの初2フォール負けであった。 |
| 映像が残っているが、お互いにダブルアーム・スープレックスや十六文キックを受けようとせず相手を引き立たせようとしない様子がはっきり現れている。 |
| その後はジャンボ鶴田からUNヘビー級、キラー・トーア・カマタからPWFヘビー級タイトルを獲得しているものの、馬場は後年ロビンソンのことを問われ、「そんな奴もいたなあ」程度のコメントをした。 |
| また、誇り高きロビンソンは馬場に2フォールを取られたことを不本意に思っているらしく、「フォールを取る気ならいつでも取れた」と語っている。 |
| 世界最強タッグ決定リーグ戦やチャンピオン・カーニバルにも出場しているが、目立った戦績は乏しかった(もっともチャンピオン・カーニバルは引退3年前の1982年が唯一の参加である)。 |
| ただ、鶴田やドリー・ファンク・ジュニアとの対戦は名勝負として語り伝えられている。 |
| また、アブドーラ・ザ・ブッチャーとの抗争ではラフファイトにも強い一面を見せた。 |
| 1984年にAWA世界ヘビー級王者としてアメリカ遠征したジャンボ鶴田に挑戦したが、敗退している。 |
| 1985年10月、持病の膝の怪我がもとで現役を引退(得意技のワンハンド・バックブリーカーで痛めたと言われている)。 |
| ガードマンなどの職に就いていたが、1992年、UWFインターナショナルのコーチに就任。 |
| 再び養った技術を伝道するようになる(ニック・ボックウィンクルとのエキシビション・マッチを披露したこともある)。 |
| 現在は、宮戸優光が主宰する(宮戸は猪木戦を見たことがプロレスを志すきっかけとなった)U.W.F.スネークピットジャパンのヘッドコーチ。 |
| 現在は高円寺に定住し、骨を埋める覚悟で後進の指導に当たっている。 |
| 1999年8月放送の『タモリ倶楽部』では、ジョーダンズ・久住昌之・こずえ鈴らと共に高円寺界隈に引越しの挨拶回りをする様子が放送された。 |