| 後にイタリアを代表する監督となり、カンナヴァーロと共にW杯を掲げることになる恩師、マルチェロ・リッピと出会ったのもナポリであった。 |
| デビュー当初から、激しく熱いDFで多くのサポータをすぐに虜にし若くしてチームの象徴となった。 |
| しかし、ナポリは極度の財政難に陥り、主力選手の流出が避けられない状況に陥った。 |
| 本人は「たとえセリエBだろうがCだろうがナポリの為ならプレーする」と涙ながらに何度もクラブオーナーや幹部に訴えたが、財政難の中にあって、セリエの強豪チームから高額オファーが舞い込んできたためナポリからの放出が決まる。 |
| パルマへの移籍が決まったと知らされた時には、ナポリの大通りでクラブのサポーターと共に泣き叫んだ。 |
| その後オーナーと幹部の再三に渡る説得によりようやく移籍を決意するが、サポーター達に「必ずもどって来るよ。 |
| たとえ何年、何十年かかろうが俺は愛するナポリに戻ってくる。 |
| ナポリ以外を心からは愛せない。 |
| 」と約束した。 |
| 既にナポリでもかなりの完成度にあったが、ACパルマへの移籍後、さらに数段DFとして成長することになる。 |
| 1対1の強さに加え、インターセプトの技術、先読みの能力を伸ばし完璧なDFの1人と成ったのである。 |
| 特にマンマーク技術においては当時のセリエAはおろか世界でも最高だろうとの声に異論はなかった。 |
| またこのパルマで盟友ジャンルイジ・ブッフォン、リリアン・テュラムとリーグ最高といわれる守備陣を形成し、自身の評価を世界的なものとする。 |
| テュラムとのチェック&カバーのタイミング、そしてブッフォンの的確な指示。 |
| まさに鉄壁との言葉そのままであった。 |
| ナポリでのプロデビューから6年後の1997年、A代表に招集され北アイルランド戦でデビューを飾る。 |
| 最初こそ、「あんな小さなやつがDFなんて出来るわけがない。 |
| 俺ならフェイントなしで吹っ飛ばして抜けるよ」と同じイタリア代表のクリスティアン・ヴィエリに言われるものの、紅白戦において強引な突破をはかってくるヴィエリを逆に何度も吹っ飛ばし、完全に押さえ込んだ。 |
| この紅白戦の後にヴィエリに、「奴ほど大きいディフェンダーはいまだかつて見たことがない」と言わしめた。 |
| カンナヴァーロのこの驚異的なフィジカルとボディバランスの良さは、ナポリユース時代からのコーチの指導が的確であったからだと後に本人は語っている。 |
| そして満を持して念願のスクデットを獲得する為にカンナヴァーロはインテルへと移籍する。 |
| しかし周囲や自身の期待とは程遠くインテル時代は監督との確執により、本職でないサイドバックやボランチなどをやらされ、本来の能力を発揮することは難しかった。 |
| 一時評価をおとしたカンナヴァーロであったがユヴェントスに移籍してその輝きを取り戻す。 |
| 2004-05シーズンには再びパルマ時代の同僚である、ブッフォン、テュラムなどと鉄壁の守備陣を形成し、セリエA最少失点およびスクデット獲得に大きく貢献した。 |
| ユーヴェの守備は世界一だ、と現アーセナル監督のアーセン・ヴェンゲル、現レアル・マドリード監督のジョゼ・モウリーニョも絶賛した程。 |
| しかし、2006年のカルチョ・スキャンダルといわれた一連の八百長事件により、ユヴェントスはセリエB降格処分となった。 |
| カンナヴァーロ自身もブラジル代表MFエメルソンと共にレアル・マドリードへ移籍することが決まった。 |
| 移籍金は発表されていないが、エメルソンと合わせて2300万ユーロと言われている。 |
| 自身の移籍について本人は、「僕の選手生活はもう決して長い物ではないだろう。 |
| そんな中でセリエBでプレーするのは考えられなかった。 |
| ユーヴェは大好きだし、ティフォージも好きだったがナポリ以外を愛することは出来ないしね。 |
| またセリエ以外のところで自分がどれ程通用するのかも確かめたかったんだ。 |
| 」と語っている。 |
| 地元では引退したジネディーヌ・ジダンの着けていた背番号5を与えられたということでニュースになったが、それだけ期待の大きさが伺われる。 |
| キャプテンとして出場した2006FIFAワールドカップでは、全試合にフル出場。 |
| GKのブッフォンと共に完璧に相手を抑え込む素晴らしいパフォーマンスを披露し、チームの優勝の功労者となった。 |
| 同大会のシルバーボール賞(優秀選手投票第2位)も受賞している。 |
| また、同大会決勝戦をもってイタリア代表通算100試合出場を達成した(イタリア代表では史上4人目)。 |
| ワールドカップなどでの功績が認められ、2006年のバロンドールを受賞。 |
| これは基本的にDFを務める選手としてはフランツ・ベッケンバウアー(2回)、マティアス・ザマーに続く3人目、4回目の受賞である。 |
| しかし彼らはリベロといわれるポジションであり、両者とも90分のほとんどをMFとしてプレーしていたことを考えると純粋なストッパーとしては史上初の受賞である。 |
| また、イタリア人選手では1993年のロベルト・バッジョに続き5人目、更にイタリア人DFとしても、ドイツ人以外のDFとしても初の受賞でもある。 |
| EURO2008ではキャプテンとして、守備陣の柱としての活躍が期待されていたが練習中にジョルジョ・キエッリーニのタックルを受けた際に左足を負傷し出場することは絶望的となった。 |
| しかし手術後はチームに帯同し、練習中に味方選手を叱咤激励したり、ボールや飲み物を運ぶなど献身的に働いた。 |
| しかし、その後は精彩を欠き、2009年夏に3年間過ごしたマドリーを離れ、古巣ユヴェントスと1年契約で復帰した。 |
| この古巣復帰に際して、以前のようなパフォーマンスは期待されないだろうとの評価からユーヴェサポーターとの関係も修復されずシーズン開幕を迎えた。 |
| 2009-10シーズン終了後、UAEのアル・アハリ・ドバイと1年契約した。 |
| 2010FIFAワールドカップを最後に代表引退をした。 |
| 2011年6月にアル・アハリを退団した後、7月に膝の怪我のため現役引退。 |