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プロフィール
- フェルディナント・ポルシェとは
- 生い立ちと自動車業界入り
- アウストロ・ダイムラー、ダイムラー(ダイムラー・ベンツ)での業績
- 独立、「Pヴァーゲン」と「フォルクスワーゲン」の開発
- 戦乱と晩年
- 子孫
- その他
- 参考文献
フェルディナント・ポルシェ(FerdinandPorsche、1875年9月3日-1951年1月30日)は、オーストリアの自動車エンジニア。ダイムラーのメルセデス(ベンツとの合併後はダイムラー・ベンツ、現メルセデス・ベンツ)の古典的高性能車群、ミッドシップエンジン方式を採用した画期的レーシングカーのアウトウニオンPヴァーゲン、史上最も成功した大衆車と言われるフォルクスワーゲン・タイプ1( ビートル)など、1900年代から1930年代にかけて自動車史に残る傑作車を多数生み出した設計者として知られる。さらに ティーガーI、 ティーガーII、
生い立ちと自動車業界入り
| 画像:LohnerPorsche.jpg|thumb|200px|right|Lohner-Porsche(1900年)。 |
| オーストリア=ハンガリー帝国配下であった北ボヘミア(現在のチェコ西部)リベレツ近郊の町、マッフェルスドルフに生まれる。 |
| 職業訓練校で学んだ後、配管工として父親の会社に就職したが、自力で電源設備を製作し、街で初めて自宅に電灯をともすなど、単なる職人に留まらない才能と好奇心を見せていた。 |
| やがて1894年、首都ウィーンに出たポルシェは、電気機器会社で働く傍ら、ウィーン大学の聴講生として熱心に学んだ。 |
| 既にこの頃から自動車への関心を持ち始めていた。 |
| その才能を買われて、当時、電気自動車を手がけ始めていたウィーンの元・馬車メーカーのヤーコプ・ローナーに引き抜かれ、自動車開発を手がけることになる。 |
| 1900年、車輪のハブにモーターを搭載した電気自動車を考案。 |
| この発想は、現代の電気自動車や一部のハイブリッドカーに用いられるインホイールモーターの先駆である。 |
| この自動車はパリ万博にも出展された。 |
| 更には電気自動車の弱点である蓄電池の非力さ・航続性能の弱さを補うため、ガソリンエンジンを搭載し、発電した電力で走行するモデル「ミクステ」も開発した。 |
アウストロ・ダイムラー、ダイムラー(ダイムラー・ベンツ)での業績
| 1905年にはアウストロ・ダイムラーに移籍。 |
| 主任技術者として、1909年には初めて国際レースに参加。 |
| この年の成績はふるわなかったが、翌1910年には勝利を収める。 |
| これは設計者のポルシェ自身が運転した、5バルブエンジン仕様のSOHCモデルによる勝利であった。 |
| アウストロ・ダイムラーでは、他にも1,100ccの小型スポーツカー「ザッシャ」がレースで数多く勝利するなど、傑作車を生み出している。 |
| 1923年、本家とも言うべきダイムラーに移籍、技術部長兼取締役に就任。 |
| 家族とともにヴァイマル共和政下のドイツ・シュトゥットガルトに移る。 |
| ここでも1926年のベンツ合併後、ダイムラー・ベンツとなった時期にまたがって、「メルセデス」・「メルセデス・ベンツ」の高性能乗用車やレーシングカーを多数手がけた。 |
| 中でも1927年から生産されたスポーツ・モデルのSシリーズは、1928年には「SS」「SSK」という古典的高性能スポーツカーに発展、これらはレースフィールドでも大成功を収めた。 |
| その傍ら、ポルシェは小型大衆車の開発にも意欲を見せていたが、第一次世界大戦後の不況下で着手は困難であり、更に不況対策のため合併したベンツ系の重役陣からは大反対を受けた。 |
| 元々頑固な性格のポルシェは経営陣との軋轢も多く、彼らの意向で開発現場から外される見込みになったことから「SS」が世に出た1928年にダイムラー・ベンツを退職した。 |
| この間、1917年にウィーン工科大学から、1924年にはシュトゥットガルト工科大学から、それぞれ名誉博士号授与。 |
| 叩き上げの技術者で大学を卒業していないポルシェが「博士」の敬称で呼ばれるのは、純粋な業績によって受けたこれらの名誉博士号による。 |
独立、「Pヴァーゲン」と「フォルクスワーゲン」の開発
| 1931年4月25日、シュトゥットガルトに設計とコンサルティングを行うポルシェ事務所(''Dr.Ing.h.c.F.PorscheGmbH,KonstruktionenundBeratungenfürMotorenundFahrzeugbau'')を設立した。 |
| 社員にはかつての同僚や息子フェリー・ポルシェらがいた。 |
| ドイツ国内外の主要メーカーからの委嘱によって自動車設計を手がける一方、当時の技術における理想的なレイアウトのリアエンジン式・流線型小型大衆車の開発を繰り返し試みるが、提携先メーカー各社の十分な協力が得られず、資金不足により頓挫する。 |
| これがのちのフォルクスワーゲンの原型であった。 |
| ポルシェは設計者としての能力は傑出していたものの、新技術の開発自体はあまり多くなかったが、この時代には横置きトーションバーを上下2段に配置し、2本のトレーリングアームで車輪を支持する、前輪向けのコンパクトな「ポルシェ式独立懸架」を考案している。 |
| フォルクスワーゲンなど自らの開発するモデルに利用したほか、各国のメーカーでも特許料を払ってこの方式を用いる事例が生じた。 |
| この頃、ソ連からの招聘を受けてヨシフ・スターリンと面会し、スターリンはソ連で自動車開発のために働くことを提案した。 |
| 当時のソ連はフォードから旧式モデルのツールをプラントごと購入するなどして国産自動車の開発に邁進しており、ドイツとも密かに関係を結んで戦車開発を進めていたのである。 |
| このためスターリンはポルシェにも好条件のオファーを示し、ポルシェ本人も相当苦しんだと述懐しているが、「ロシア語の壁は、56歳の自分にはとても乗り越えられない」として辞退した。 |
| 1933年に、ドイツの覇権を握った独裁者アドルフ・ヒトラーから国民車(ドイツ語でフォルクスワーゲン)の設計を依頼された。 |
| ようやく理想の小型大衆車開発を実現したポルシェは、3年後の1936年には流線型ボディ・空冷リアエンジン方式の1,000cc試作車を完成、1938年には計画通りの量産化に着手している。 |
| この際、車名はヒトラーにより「Kdf」(歓喜力行車)とされた。 |
| 後のフォルクスワーゲン・タイプ1(ビートル)である。 |
| またこれと並行し、やはりヒトラーの後援を受けたアウトウニオンの依頼で、ミッドシップ方式のレーシングカー「Pヴァーゲン」を1934年に開発。 |
| 同時期に開発されたライバル「メルセデス・ベンツW25」シリーズと並ぶ高性能レーサーであり、両車はヨーロッパの多くのレースを席巻した。 |
| 1938年にはノーベル賞に対抗してナチス・ドイツが制定した「ドイツ芸術科学国家賞」を受賞する。 |
| フォルクスワーゲンとアウトウニオン・レーサーは、いずれもポルシェの開発能力だけでは成立し得ず、ヒトラーの意向による国家的後援があっての存在であった。 |
| 廉価で高性能なフォルクスワーゲンはヒトラーが大衆政策として開発を指示したものであり、銀色のアウトウニオンは、国威発揚のための宣伝の具であった。 |
| これらのモデルのそれ以上の発展や活躍は、他ならぬヒトラー自身によって引き起こされた第二次世界大戦で頓挫を余儀なくされ、ポルシェもまた戦時体制に巻き込まれて行くことになる。 |
戦乱と晩年
| 第二次大戦中にはヒトラーの意向により、フォルクスワーゲンをベースとした軍用車両(キューベルワーゲン、シュビムワーゲン)やティーガー戦車等の戦闘車両の設計に携わった。 |
| 頑固な技術者で、政治にさっぱり関心のないポルシェは、ヒトラーに対しても「総統閣下」などの敬称を用いずに「ヒトラーさん」と一般人同様の呼び方をしていた。 |
| しかしポルシェの才を買っていたヒトラーは気にせず受け入れ、開発資材も潤沢に与えた。 |
| その挙げ句、戦争末期はローナー以来の発電駆動式を採用したVK4501(P)戦車や、超重量級戦車マウスなど、相当に誇大妄想的な兵器の設計を行っている。 |
| これらの兵器はカタログスペックこそかなりの性能を有していたものの、現実の軍用車両としては運用性・機械的信頼性・耐久性・生産性に多くの難点を抱えており、兵器としての根本的実効性は著しく疑問の持たれるものであった。 |
| しかし当時、絶望的な戦局を逆転させる超兵器への願望が強かったヒトラーにはいたく好評で、お気に入りの「作品」だったと言われている。 |
| だが、生産性の低い横置きトーションバーと比較して、能力は低いが生産性の高い縦置きトーションバーサスを開発したり、進む戦車の重量の増大に対して、サスペンションの対応を考慮して変速機を廃止するためのモーターの採用など、機械的な改革を軍部にも積極的に進言・採用させるよう努力している部分を無視することは出来ないであろう。 |
| ドイツ敗戦後の1945年、戦争犯罪人としてフランスにより逮捕され、同国中部の都市ディジョンの刑務所に収監された。 |
| 収監中、同国の自動車会社ルノーから、試作中のリアエンジン小型車「ルノー・4CV」(1941年設計開始、1946年発表)の設計への助言を求められ、アドバイスを与えている(4CVはフォルクスワーゲンの影響下で設計されたが、ポルシェが設計したとの説は俗説である)。 |
| 長い収監中に健康を害したが、設計業務を再開してイタリアのチシタリアから多額の資金を得た息子フェリーが保釈金100万フランを支払ったことで、収監から約20ヶ月後の1947年8月1日に釈放された。 |
| その後は健康状態が優れず、自動車の設計やポルシェAGの運営の大部分は息子フェリーが取り仕切ったが、戦後、1945年から本格生産を開始したフォルクスワーゲンと1948年から生産開始されたポルシェ・356の成功を見届けた。 |
| 1950年11月に脳卒中を発症、翌年1月、75歳で死亡した。 |
| 死後、自動車殿堂(1987年)、及び国際モータースポーツ殿堂(1996年)入りしている。 |
子孫
| 息子らにより復興したポルシェ家と、その女系にあたるピエヒ家の両家併せて、現在までフォルクスワーゲン・グループを支配している。 |
| 総資産は4000億米ドル以上 |
| フェルディナント・アントン・エルンスト・ポルシェ(フェリー・ポルシェ)-長男。 |
| 元・ポルシェAG社長。 |
| フォルクスワーゲンとポルシェ、両方のビジネスに係わった。 |
| フェルディナンド・アレクサンダー・ポルシェ(ブッツィー・ポルシェ)-孫。 |
| 「ポルシェデザイン」を設立。 |
| 2007年からポルシェAG監査役会会長。 |
| 元・フォルクスワーゲンAG会長。 |
その他
| ポルシェという苗字は、スラヴ系のボリソフ(ボリスの子孫)に由来するという説がある。 |
参考文献
| 齋藤憐『ポルシェ自動車を愛しすぎた男』(ブロンズ新社、1987年)ISBN4-89309-013-5。 |
| 三石善吉『ポルシェの生涯その時代とクルマ』(グランプリ出版、2007年)ISBN978-4-87687-297-8。 |
| 斎木伸生「天才設計者ポルシェ博士の華麗な戦車研究」。 |
| 潮書房『丸』1999年5月号No.637 p127~p141。 |
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1894年
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首都ウィーンに出たポルシェは、電気機器会社... |
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1900年
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車輪のハブにモーターを搭載した電気自動車を... |
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