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プロフィール
- フランツ・シューベルトとは
- 誕生
- コンヴィクト
- 1813年-1815年
- 1816年
- 1818年
- 1820年・1821年
- 1822年-1825年
- ウィーンでの晩年
- 死後
- 他の作曲家との関係
- 交響曲の番号付け
- 幻の交響曲
- 関連サイト
フランツ・ペーター・シューベルト(,1797年1月31日-1828年11月19日)は、オーストリアの作曲家。各分野に名曲を残したが、とりわけドイツ歌曲において功績が大きく、「歌曲の王」と呼ばれることもある。後述の理由により、このページでは「D.○○」とせず、「D○○」という表記を用いる。
誕生
| ウィーン近郊で生まれた。 |
| メーレン(モラヴィア)にいたドイツ系の農夫の息子である父のフランツ・テオドールは教区の教師をしており、母エリーザベト・フィッツは結婚前ウィーン人家族のコックをしていた。 |
| 2人の間の14人の子供のうち9人が早世した。 |
| 成人したのは長男イグナーツ(1785年生まれ)、次男フェルディナント(1794年生まれ)、三男カール(1796年生まれ)、次いでフランツ、娘のテレジア(1801年生まれ)であった。 |
| 父はアマチュア音楽家で長男と次男に音楽を教えた。 |
| フランツは第12子としてリヒテンタールで生まれた。 |
| シューベルトは5歳の時、父から普通教育を受け始め、6歳の時リヒテンタールの学校に入学した。 |
| この学校では彼の人生で一番幸せな数年を過ごした。 |
| この頃、父は息子のフランツにヴァイオリンの初歩を、また長男イグナーツにピアノを教え始めた。 |
| 7歳の頃2人の手に負えない神童振りを発揮し始め、リヒテンタール教会の聖歌隊指揮者ミヒャエル・ホルツァーに指導を託された。 |
| ホルツァーの指導は主として感動表現に主眼が置かれていた。 |
| 少年フランツは仲間の徒弟たちから得るものが多く、彼らはフランツを隣接するピアノ倉庫にしばしば案内した。 |
| そのため余裕の無い貧しい家庭では触れないような良い楽器で練習する事ができた。 |
| 当時演奏者として聴衆に注目されなければ作曲家としての成功の機会は無いという時代に、彼の初期の教育は充分なものではなかった。 |
コンヴィクト
| 1808年10月、シューベルトはコンヴィクト(寄宿制神学校)の奨学金を得た。 |
| その学校はアントニオ・サリエリの指導の下にあり、ウィーン楽友協会音楽院の前身校で、宮廷礼拝堂コーラス隊養成のための特別教室をもっていた。 |
| ここにシューベルトはおよそ17歳まで所属、ハイドンが聖ステファン大聖堂で得た教育と殆ど同様に直接指導での得るところは少なく、むしろ学生オーケストラの練習や同僚の寄宿生との交際から得るものが多かった。 |
| 献身的にシューベルトに尽くした友人達の多くはこの当時の同級生で、シュパウン(Spaun,1788-1865)、シュタットラー(Stadler)、ホルツアプフェル(Holzapfel)、その他多数の友人達が自分達の小銭で貧しいシューベルトを助け、彼には買えない五線紙を買って与え、誠実な支持と励ましを与えてきた。 |
| また、このコンヴィクトでモーツァルトの序曲や交響曲、それらに類した作品や小品に初めて出会った。 |
| 一方、天才ぶりは作曲の分野で既に示しつつあった。 |
| 1810年4月8日-5月1日の日付のある32ページびっしりと書かれた『4手ピアノのためのファンタジア(D1)』。 |
| 続いて1811年にはツムシュテーク(1760-1802)が普及を図った計画にそって書かれた3つの長い歌曲、『五重奏序曲(D8)』、『弦楽四重奏曲(D18)』、『4手ピアノのためのファンタジア第2番(D9)』がある。 |
| 室内楽曲への想いが目立っているが、それは日曜日と祝日ごとに、2人の兄がヴァイオリン、父がチェロ、自分がヴィオラを受け持って、自宅でのカルテット演奏の例会が行われていたからである。 |
| 後年、多くの作品を書くことになったアマチュア・オーケストラの萌芽をなすものであった。 |
| コンヴィクト在籍中には多くの室内楽、歌曲、ピアノのための雑品集を残し、また野心的な力を注いだのは、1812年(15歳)の母の葬儀用と言われる『キリエ(D31)』と『サルヴェ・レジーナ(D106)』(それぞれ合唱聖歌)、『木管楽器のための八重奏曲(D72)』である。 |
| 1813年には父の聖名祝日のために、歌詞と音楽からなる『カンタータ(D80)』を残した。 |
| 学校生活の最後には最初の交響曲(D82)が生まれた。 |
1813年-1815年
| 1813年の終りにシューベルトは(変声期を経て合唱児童の役割を果たせなくなったため)コンヴィクトを去り、兵役を避けるために、父の学校に初級生のための教師として入職した。 |
| その頃、父はグンペンドルフの絹商人の娘アンナ・クライアンベックと再婚した。 |
| およそ2年以上、シューベルトは自分の意にそわない仕事に耐えたが、伝え聞くには、非常に無関心に仕事をこなしていたようで、その代償を別の興味で補っていた。 |
| サリエリから個人な指導を受けたが、彼はハイドンやモーツァルトの真似だと非難をしてシューベルトを悩ませていた。 |
| しかし、サリエリは他の教師の誰よりも多くを彼に教えた。 |
| シューベルトはグローブ一家と親密に交際しており、そこの娘テレーゼは歌が上手く良い友人だった。 |
| 彼は時間があれば素早く大量の作曲をしていた。 |
| 完成された最初のオペラ『悪魔の悦楽城(D84)』と、最初の『ミサ曲ヘ長調(D105)』は共に1814年に書かれ、同じ年に『弦楽四重奏曲』3曲(D46.D74.D87)、数多くの短い器楽曲、『交響曲ニ長調(D82)』の第1楽章、『潜水者(D77)』『糸を紡ぐグレートヒェン(D118)』といった最高傑作を含む7つの歌曲が書かれた。 |
| 1815年には更に豊穣な作品群が登場する。 |
| 学業、サリエリの授業、ウィーン生活の娯楽にもかかわらず、多くの作品を生み出した。 |
| 『交響曲第2番変ロ長調(D125)』が完成され、『「交響曲第3番ニ長調(D200)』もそれに続いた。 |
| また、『ト長調(D167)』と『変ロ長調(D.324)』の2つのミサ曲、前者は6日間で書き上げられ、その他『ヘ長調のミサ曲』のための新しい『ドナ・ノビス(D185)』『悲しみの聖母(D383)』『サルヴ・レジナ(D379)』、オペラは『4年間の歩哨兵勤務(DerVierjahrigePosten,D190)』、フェルナンド(D220)』、『クラウディーネ・フォン・ヴィラ・ベッラ(D239)』シューベルトの友人であるヒュッテンブレンナーのもとで自筆譜を保管中、ヒュッテンブレンナーが留守中に同居人が全3幕中、2・3幕の楽譜を、焚き付けにしようとしたため失われた。 |
| 、『アドラスト(D137)』(研究により1819年の作曲と推定)、『バイデ・フロインデ・フォン・サラマンカ(サラマンカの友人たち)(D326)』(会話の部分が失われている)の5曲作曲された。 |
| これらの他『弦楽四重奏ト短調(D173)』、『ピアノのための4つのソナタ(D157.D279.D459』、数曲のピアノ小品、これらの最盛期をなすのは、146の歌曲、中にはかなり長い曲があり、また8曲は10月15日と7曲が10月19日の日付がある。 |
| 1814年から1815年にかけての冬、シューベルトは詩人ヨハン・マイアホーファー(1787-1836)と知り合った。 |
| この出会いは彼の常であったが、間もなく温かで親密な友人関係に熟していった。 |
| 2人の性質はかなり違っていた。 |
| シューベルトは明るく開放的で少々鬱の時もあったが突然の燃えるような精神的高揚もあった。 |
| 一方マイアホーファーは厳格で気難しく、人生を忍耐すべき試練の場とみなしている口数少ない男だった。 |
| この友好関係は、後年見られるようにシューベルトに対してのみ一方的に奉仕するものであった。 |
1816年
| シューベルトの運命に最初の真の変化が見えた。 |
| コンヴィクト時代からの友人シュパウンの家でシューベルトの歌曲を聞きなじんでいた、法律学生フランツ・ショーバー(1796-1882)がシューベルトを訪問して、学校での教師生活を辞め、平穏に芸術を追求しないかと提案した。 |
| シューベルトはライバッハ(現在のリュブリャナ)の音楽監督に志願したが不採用になったばかりで、教室に縛り付けられている思いが強まっていた。 |
| 父親の了解はすぐに得られ、春が去る頃にはシューベルトはショーバーの客人となった。 |
| しばらくの間、彼は音楽を教える事で家具類を買い増そうとしたが、じきにやめて作曲に専念した。 |
| 「私は一日中作曲していて、1つ作品を完成するとまた次を始めるのです」と、訪問者の質問に答えていた。 |
| 1816年の作品の1つはサリエリの6月16日記念祭のための『3つの儀式用カンタータ(D407)』、もう1つは『プロメテウス・カンタータ(D451)』、これはハインリヒ・ヨーゼフ・ワターロート教授の生徒達のためで、教授はシューベルトに報酬を支払った。 |
| シューベルトは雑誌記者に「作曲で報酬を得たのは初めてだ」と語っている。 |
| もう1曲は、《教員未亡人基金》の創立者で学長ヨーゼフ・シュペンドゥのための『カンタータ(D472)』で、愚かな博愛の詩が歌われている。 |
| 最も重要な作品は『交響曲第4番ハ短調(D417)』で《悲劇的交響曲》と呼ばれ、感動的なアンダンテがある。 |
| 次いでモーツァルトの交響曲のように明るく新鮮な『「第5番変ロ長調(D485)』、その他多少の教会音楽。 |
| それらは先輩達の作品よりも充実し円熟していたし、更にゲーテやシラーからシューベルト自身が選んだ詩であった。 |
| この時期友人達の輪は次第に広がっていった。 |
| マイアーホーファーが彼に、有名なバリトン歌手フォーグル(1768-1840)を紹介し、フォーグルはウィーンのサロンでシューベルトの歌曲を歌った。 |
| アンゼルムとヨーゼフのヒュッテンブレンナー兄弟はシューベルトに最も奉仕し崇めていた。 |
| ガヒーは卓越したピアニストでシューベルトのソナタやファンタジーを演奏した。 |
| ゾンライトナー家は金持ちの商人で、長男がコンヴィクトに所属していた事があったことからシューベルトに自由に自宅を使わせていたが、それは間も無く“シューベルティアーデ”と呼ばれ、シューベルトを称えた音楽会へと組織されていった。 |
| シューベルトは完全に素寒貧だった。 |
| それと言うのも彼は教えるのは辞めたし、公演で稼ぐ事も出来なかった。 |
| しかも、音楽作品を只でも貰うという出版社は無かった。 |
| しかし、友人達は真のボヘミアンの寛大さで、ある者は宿を、ある者は食料を、他の者は必要な手伝いにやってきた。 |
| 彼らは自分達の食事を分け合って食べ、金を持っている者は楽譜の代金を支払った。 |
| シューベルトは常にこのパーティーの指導者であり、新しい知人が推薦された時に、シューベルトは、「彼が出来る事は何か?」といういつもの質問がこの会の特徴を最もよく表すものであった。 |
1818年
| 1818年は、前年と同様に、創作上は比較的実りは無かったものの、2つの点で特筆すべき年であった。 |
| 1つ目はシューベルトの作品の最初の公演が行われたことである。 |
| 演目はイタリア風に書かれた『序曲(D590)』で、これはロッシーニをパロディー化したと書かれており、5月1日に刑務所コンサートで演奏された。 |
| それは、ツェレスに滞在するヨハン・エステルハージ伯爵一家の音楽教師の地位で、シューベルトは夏中、楽しく快適な環境で過ごした。 |
| この年の作品には『ミサ曲(D452)』と『交響曲(D589)』(共にハ長調)、ツェレスでの彼の生徒達のための一連の『四手のためのピアノ曲』、『孤独に(D620)』や『聖母マリア像(D623)』『繰り言(Litaney)』等を含む歌曲がある。 |
| 秋にウィーンへの帰りに、ショーバーの所にはもはや滞在する部屋がない事が分かり、マイアーホーファー宅に同居する事になった。 |
| 毎朝、起床するなり作曲を始め、午後2時まで書き、昼食を摂った後、田舎道を散歩し、再び作曲に戻るか、或いはそうした気分にならない場合は友人宅を訪問した。 |
| 歌曲の作曲家としての最初の公演は1819年2月28日で、『羊飼いの嘆きの歌(D121)』が刑務所コンサートのイェーガーによって歌われた。 |
| シュタイアーで「鱒(ます)」として有名な『ピアノ五重奏曲イ長調(D667)』をスコア無しでパート譜を書き、友人を驚かした。 |
| 秋に、自作の3曲をゲーテに送ったが、返事は無かった。 |
1820年・1821年
| 1820年の作品には目覚しいものがあり、著しい進歩と形式の成熟が見られる。 |
| 2月には未完成のオラトリオ『ラザルス(D689)』井形ちづる『シューベルトのオペラ』によると、自筆譜の最後のページには曲の途中で途切れているが、ページいっぱい記譜されていて、しかも最後の小節にはundという歌詞で終わっている。 |
| 引き続いて※主観的記述であるうえ、文章が成り立っていない-->小作品の数々に混じって『詩篇23番(D706)』『聖霊の歌(D705)』『弦楽四重奏断章ハ短調(D703)』、ピアノ曲『さすらい人幻想曲(D760)』等が誕生している。 |
ウィーンでの晩年
| 1827年にグラーツへの短い訪問をしていることを除けば、1826年から1828年にかけてずっとウィーンに留まった。 |
| 1827年に、シューベルトは『冬の旅(D911)』、『ピアノとヴァイオリンのための幻想曲(D934)』、2つのピアノ三重奏曲(Op.99/D898、Op.100/D929)、『ハ長調の交響曲(D944)』、『ミサ曲変ホ長調(D950)』、同じ変ホ長調の『タントゥム・エルゴ(D962)』、『弦楽五重奏曲(D956)』、『ミサ曲ハ長調(D452)』のための2度目の『ベネディクトス(D961)』、最後の『3つのピアノ・ソナタ(D958,959,960)』、《白鳥の歌》として有名な歌曲集(D957)を書いた。 |
| 最晩年の1828年、シューベルトは対位法の理論家として高名だった作曲家ジーモン・ゼヒター(後にブルックナーの教師となる)のレッスンを所望し、知人と一緒に彼の門を叩いた。 |
死後
| フェルディナントはシューベルトの書斎を亡くなった時のままの状態で保存していて、シューマンはその机上で『(大)ハ長調の交響曲』が埃に埋もれているのを発見し、ライプツィヒに持って帰った。 |
交響曲の番号付け
| 他の未完の交響曲のうち、ホ長調D729は4楽章のピアノスケッチで完成に近く(楽譜に「Fine」と書き添えてあることから、一応は完成したとみなす音楽学者もいる金子建志『交響曲の名曲1こどわり派のための名曲徹底分析』音楽之友社、1997年、25ページ)、シューベルトの死後フェリックス・ヴァインガルトナーやブライアン・ニューボールドらの手によって補筆され、全曲の演奏が可能となっている。 |
幻の交響曲
| テーマとその展開が晩年の「グレート」交響曲にそっくりで、あたかもブルックナーが交響曲第3番を書く前に第0番を下書き的に作ったのと似ていて、シューベルトも「ロザムンデ」序曲の前によく似たD590の序曲を書いていることから、スケッチのような意味で作ったという学説がある。 |
| (演奏時間約50分、編成:フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペット各2、トロンボーン3、ティンパニ一対、弦五部、録音南ドイツ放送、校訂Goldni)。 |
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フランツ・シューベルトさんについてのひとこと紹介
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