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マリア・テレジア
婚約 結婚
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シュテファン
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フランツ・ヨーゼフ1世
フランツ・ヨーゼフ1世 (リヒテンシュタイン公) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
BIGLOBE百科事典に関するご利用上の注意 フランツ・... |
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フランソワ1世
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マクシミリアン
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レオポルド1世
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カール6世
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ヨーゼフ
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フェルディナント1世
フェルディナント1世 Ferdinand I
1503年生
1564年没
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カール5世 の弟
オーストリア・ハプスブルク家の始祖
1521年 オーストリアの... |
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プロフィール
- フランツ1世とは
- 生い立ち
- マリア・テレジアとの結婚とロレーヌの放棄
- オーストリア継承戦争
- 皇帝即位
- 死
- 弟妹
- 関連項目
マリア・テレジアとの結婚とロレーヌの放棄
| 1736年2月12日にフランツとマリア・テレジアは結婚した。 |
| 当時の王室としては異例の恋愛結婚で、フランツは名門ハプスブルク家と結びつくことになった(2人の子供の代からはハプスブルク=ロートリンゲン家となる)。 |
| しかし、そのために周辺諸国からは反発され、フランスへ故国のロレーヌ公国を譲った。 |
| ロレーヌはフランス王ルイ15世の王妃の父である前ポーランド王スタニスワフ・レシチニスキが1代限りの君主として余生を過ごした後、フランス王国に併合される。 |
| 一方、フランツはメディチ家が断絶して空位となったトスカーナ大公を継承した。 |
| フランツはロレーヌの譲渡に関する合意書に署名する際、怒りと絶望のあまり3度もペンを投げ捨て、震える手でようやく署名したという。 |
| また、母エリーザベト・シャルロッテからは譲渡を激しく非難された。 |
| その後もフランツは、生涯に何度も屈辱を味わわされることとなった。 |
| 宮廷のしきたりに従って、夜に劇場を訪れる時には、フランツは2列目という格下の席に甘んじなければならなかった。 |
| また、オーストリアの宮廷人たちはフランツをマリア・テレジアの添え物に過ぎないと見ており、「殿下」の敬称を付けないなど、ちょっとした嫌がらせは日常茶飯事だったという。 |
| このような態度は宮廷にとどまらず、ウィーン市民からもフランツは厄介者の外国人呼ばわりされていた。 |
| 1738年10月6日、第1子に続いて第2子も女子のマリア・アンナが生まれたと知ると、宮廷人も民衆もこぞってフランツのせいにした。 |
オーストリア継承戦争
| 1740年にカール6世が没すると、マリア・テレジアがオーストリア大公に即位し、彼女の決定によりフランツは共同統治者になった。 |
| しかし列国はカール6世の生前に交わした取り決めを無視してハプスブルク家領を侵略し、オーストリア継承戦争が勃発した。 |
| プロイセン王フリードリヒ2世はシュレージエンを占領し、マリア・テレジアの従姉マリア・アマーリエ皇女を妃とするバイエルン選帝侯はボヘミアを占領した上にフランツを差し置いて皇帝カール7世として戴冠した。 |
| オーストリアの軍隊は弱体であり、フランツはプロイセンとの交渉では条件次第で和平を結ぶことも考えていた。 |
| しかし、オーストリア宮廷で主導権を握るのはマリア・テレジアであり、彼女はプロイセンに対して一歩も譲歩する気はなく、断固戦う意志を固めていた。 |
| 1741年1月1日の最後の会談の際、フランツとプロイセン側の使者ゴッター伯グスタフ・アドルフは極秘に交渉を続けたが、マリア・テレジアはドアの裏やカーテンの陰で耳をそばだて、少しでもフランツが譲歩しそうな気配を見せると、子犬でも呼びつけるように夫へ合図を送った。 |
| この交渉は結局、マリア・テレジアによって強引に打ち切られ、戦争は再開されたが、同年4月10日にオーストリア軍はプロイセン軍に敗北した。 |
| これを機に、フランツは国政には関与しないようになり、一切の実権をマリア・テレジアが握ることとなった。 |
| 1741年6月25日、マリア・テレジアはハンガリー女王として戴冠式を挙行した。 |
| フランツはここでも屈辱を味わわされた。 |
| ハンガリー貴族たちは、共同国王でも「王妃」でもないフランツに、私人としての席しか用意できないと告げたである。 |
| フランツは不快な思いを避けるため、戴冠式が行われる聖マーチャーシュ教会には入らず、教会の外壁にスタンドのようなものをこしらえると、3歳になる娘のマリア・アンナと上までよじ登り、教会の窓から様子を覗いたという。 |
| 戴冠式の後の祝宴でも、フランツはいつものように末席につかされた。 |
| その後、フランツがハンガリー貴族との会議に出席したことは1度もなく、ほとんど存在さえ忘れ去られていたという。 |
| 1744年9月、フランツはフランスとの戦争に参加して軍功を立てようと試みたが、直ちにマリア・テレジアに呼び戻されている。 |
皇帝即位
| マリア・テレジアは夫に権力を与えようとはしなかったが、代わりに皇帝の座を約束した。 |
| カール7世は短い在位の間にオーストリアの反撃を受けて失意のうちに没し、フランツは1745年に神聖ローマ皇帝に即位した。 |
| 皇帝に即位した後も実権はマリア・テレジアが持っていた(すでに神聖ローマ帝国は実質的にドイツ国家連合と化していたため、国家として機能している部分を統べるオーストリア大公位を兼ねない皇帝位にはさほどの権限は無かった)が、財政や科学の振興などの面で功績を残している。 |
| フランツには財政家もしくは経営者としての手腕があり、七年戦争で苦しくなったオーストリアが国債の発行に踏み切る際には、その保証人になれるほどの莫大な財産を残している。 |
| また、自然科学に興味を示し、シェーンブルン宮殿の一角に植物園や動物園をつくり、昆虫や鉱石を分類したコレクションを遺した。 |
| これらのコレクションは現在ウィーン自然史博物館に所蔵されている。 |
| フランツは常に子供たちの幸せを考える良き父親でもあった。 |
| 中でも、身体が不自由で容姿が醜く、嫁にやれないため、マリア・テレジアや弟妹たちから嫌われていた次女のマリア・アンナのことを特に気にかけていたという。 |
| しかし、フランツとマリア・テレジアの死後、彼女を深く憎んでいた弟ヨーゼフ2世によりクラーゲンフルト修道院に入れられてしまうことになった。 |
弟妹
| フランツ1世の兄弟姉妹のうち、成人に達したのは次の3人である。 |
| エリーザベト・テレーゼ(エリザベート・テレーズ)(1711年-1741年)-サルデーニャ王カルロ・エマヌエーレ3世の妃。 |
| カール・アレクサンダー(シャルル・アレクサンドル)(1712年-1780年)-オーストリアで軍司令官、ネーデルラント総督を務めた。 |
| また、マリア・テレジアの妹マリア・アンナと結婚した。 |
| アンナ・シャルロッテ(アンヌ・シャルロット)(1714年-1773年)-エッセンの修道院長。 |
関連項目
| simple:FrancisI,HolyRomanEmperor。 |
| vls:FransIvanetHRR。 |
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1723年
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フランツは陽気で親しみやすい性格で、マリア... |
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1729年
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父の死によりロレーヌ公位を継いだ |
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