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パルティア
カスピ海南東部、イラン高原東北部に興った王国である。ダーハ氏族の支流であるパルニ氏族を中心とした遊牧民の長、アルシャク(古典ギリシア語形:アルサケ... |
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セレウコス
セレウコス(1世)(せれうこす) [ 日本大百科全書 ( 小学館 ) ] Seleukos (前358ころ―前280) マケドニア 貴族出身の軍人。 征服 王(ニカトールNikator... |
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ミトラダテス1世
アルサケス朝パルティアの王。大国としてのパルティアの地位を決定付けたという意味でパルティア初期の王達の中でも最も重要な人物の1人であり、「大王(バシ... |
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ミトラダテス2世
アルサケス朝パルティアの王。フラーテス2世の治世以来混乱していた国内政治を安定させてパルティアの国力を増大させた。大王(バシレウス・メガス)、及び諸... |
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フラーテス1世
アルサケス朝パルティアの王。彼は前王フリアパティウスの息子として生まれ、父の跡を継いでパルティア王となった。父王の治世にセレウコス朝のアンティオコ... |
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アルタバヌス1世
アルサケス朝パルティアの王。即位直後から遊牧民の侵入に曝され、それとの戦いの中で陣没した。 |
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アルサケス2世
アルサケス2世(ArsacesII、在位:紀元前211年-紀元前191年)はアルサケス朝パルティアの第2代王。実際にはアルサケス1世の子孫としてはただ1人のパルティア... |
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フラーテス4世
アルサケス朝パルティアの王(諸王の王、バシレウス・バシレオン)。領内各地での反乱に苦しみ、またローマから送られた女奴隷ムサを妻としたが、彼女によっ... |
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フリアパティウス
フリアパティウス(Phriapatius、在位:紀元前191年-紀元前176年)はアルサケス朝パルティアの王。彼はティリダテス1世の孫にあたる。このことはニサ出土のオ... |
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アルサケス1世
パルティアの初代王。パルティアは彼の名をとってアルサケス朝とも呼ばれる。現地語ではアルシャークと呼ばれたと考えられている。 |
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ミトラダテス3世
アルサケス朝パルティアの王。しばしばミトリダテス(MithridatesIII)とも表記され、現地語ではミフルダートと呼ばれた。 |
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ヴォノネス1世
アルサケス朝パルティアの王(諸王の王、バシレウス・バシレオン)。ローマに人質として送られ、後に帰国して王位についたが「ローマの傀儡」と見なされて国... |
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ティリダテス2世
アルサケス朝パルティアの王。フラーテス4世に対抗して反旗を翻し、一時王国の西半の支配権を握ったものの、最終的に敗れさった。 |
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アルタバヌス2世
アルタバヌス2世(ArtabanusII、?-38年、在位:西暦10年頃-西暦38年)はアルサケス朝パルティアの王(諸王の王、バシレウス・バシレオン)。アトロパテネ王... |
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フラーテス3世
アルサケス朝パルティアの王。ミトリダテス戦争の際アルメニア王国で起きた反乱に乗じて、ティグラネス2世に奪われていた領土の一部を奪回した。 |
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ゴタルゼス2世
アルサケス朝パルティアの王。彼の父親とされるギューの出自は明らかではないが、王族であると考えられている。 |
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アルタバヌス4世
アルサケス朝パルティアの王。ヴォロガセス6世に対抗してパルティア領の大半の支配権を握ったが、アルダシール1世に敗れて殺害された。 |
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ヴォロガセス6世
ヴォロガセス6世(VologasesVI、?-228年、在位:209年-228年)はアルサケス朝パルティアの王。兄弟であるアルタバヌス4世に押され、その支配領域はバビロニ... |
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ヴォロガセス1世
アルサケス朝パルティアの王。アルメニア王国の継承問題でローマと争った。 |
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バビロニア
メソポタミア(現在のイラク)南部を占める地域、またはそこに興った王国(帝国)。首都はバビロン。南半分のシュメールと北半分のアッカドを含み、北西側に... |
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プロフィール
フラーテス2世(PhraatesII、在位:紀元前138年-紀元前128年)は、アルサケス朝 パルティアの王。幼くして即位し、前王が拡張した領土を維持するために セレウコス朝と戦ったが、サカ人との戦いで戦死した。
来歴
| 前王ミトラダテス1世(大王)と王妃リインヌの息子として生まれた。 |
| 即位した時はまだ幼く、母リインヌが摂政(共同統治者)となった。 |
| 即位直後からパルティアは大きな脅威に曝されていた。 |
| それは大月氏の移動であった。 |
| 月氏は元来タリム盆地に拠点を置いた遊牧民であり強勢を誇ったが、匈奴が冒頓単于の下で強大化するとそれに押されて移動を開始し、フラーテス2世の治世にはパルティアに隣接するバクトリア地方にまで侵入しており、これにともなって周辺の遊牧民諸部族も大きく動揺していた。 |
| 匈奴の膨張に端を発する遊牧民の移動圧力はパルティアにもかかっており、フラーテス2世とリインヌは遊牧民侵入への対応に忙殺された。 |
| 更に西方ではセレウコス朝のアンティオコス7世が、ミトラダテス1世によって奪われた領土を奪回すべく紀元前131年に大規模な遠征を開始した。 |
| パルティア領内のギリシア人の多くはセレウコス朝の「ギリシア人王」の到来を歓迎してパルティアに反旗を翻し、アンティオコス7世の遠征軍に参加した。 |
| 3度に渡る戦いでパルティア軍は相次いで敗退し、バビロニアとメディアがセレウコス朝の支配下に置かれた後、講和会議がもたれたが決裂し、アンティオコス7世は更にパルティア本土を目指して進軍した。 |
| しかしパルティア地方に侵入したアンティオコス7世は軍の宿営のために現地住民の住居を接収するなどしたため、パルティア地方の住民達の激しい反乱を招いた。 |
| この反乱はセレウコス朝の軍団が宿営していた都市の大半で発生し、極めて組織的であったといわれる。 |
| フラーテス2世は反乱鎮圧に奔走するアンティオコス7世を攻撃してこれを戦死させ、セレウコス朝の脅威を乗り切った。 |
| 反撃に転じたフラーテス2世はメディア、ついでバビロニアを奪回し、更にセレウコス朝の中心地シリアを目指したが、東方でフラーテス2世が自軍に組み込んでいたサカ人達が反乱を起こした。 |
| フラーテス2世は新たにセレウコス朝との戦いで捕虜にしたギリシア人を軍団に組み込んでサカ人討伐へ向かったが、このギリシア人達もサカ人側につき、紀元前128年にフラーテス2世は戦死した。 |
| 死後、叔父のアルタバヌス1世が王位を継承した。 |
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