| 200px|thumb|1861年のニーチェ。 |
| ファイル:Nietzsche187b.jpg|200px|thumb|1868年のニーチェ。 |
| 従軍後、強度の近視と怪我のため除隊する際に撮影。 |
| 1844年10月15日、プロイセン王国領プロヴィンツ・ザクセン(ProvinzSachsen-現在はザクセン=アンハルト州など)、ライプツィヒ近郊の小村レッツェン・バイ・リュッケンにルター派の裕福な牧師で元教師の父カール・ルートヴィヒと母フランツィスカの子として生まれる。 |
| 同じ日に49回目の誕生日を迎えた当時のプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世にちなんでフリードリヒ・ヴィルヘルムと名付けられた(ニーチェは後にミドルネーム「ヴィルヘルム」を捨てている)。 |
| 家系の出自について、ニーチェは自らの先祖がポーランド貴族(シュラフタ)であることをいつも意識し公にしていた。 |
| あるときには「私の先祖はポーランド貴族で姓はニツキという。 |
| 母方の家系がドイツ系であるにもかかわらず、このポーランド的な性質はよく受け継がれてきた。 |
| 」Hollingdale,R.J:Nietzsche:TheManandHisPhilosophy.CambridgeUniversityPress,1999.p.6と述べ、またあるときには「ドイツが偉大な国家であるのは、ドイツ人の中にポーランドの血がたくさん入っているからであり…私は自分がポーランド人の子孫であることを誇りに思っている。 |
| 」HenryLouisMencken,"ThePhilosophyofFriedrichNietzsche",T.FisherUnwin,1908,reprintedbyUniversityofMichigan2006,pg.6と述べた。 |
| ニーチェの家系がポーランド貴族である事実については特にニーチェの死からしばらく後のヴァイマル共和国時代やナチス・ドイツ時代からドイツ国粋主義の国民感情のもと激しくこれを否定しようとする試みがドイツ国内で続いていたH.L.Mencken:ThePhilosophyofFriedrichNietzche.IntroductionandcommentsbyCharlesQ.Bufe.SeeSharpPress,USA,2003.p.2。 |
| とくに注目されるのは、自叙伝『この人を見よ』の第1章『Warumichsoweisebin』の第3節にである。 |
| 1908年初版の単行本では「(前略)私の先祖はポーランド貴族だった。 |
| 私はそのことからたくさんの種族的本能をこの身に受け継いでいるが、それどころか私が彼『自由拒否権(liberumveto)』(訳注:黄金の自由の記事を参照)までをも受け継いでいる事実など誰も知らないだろう。 |
| 私はよく街中で他人にポーランド人と思われて話しかけられるが、それは他でもないポーランド人たちからそうされ、自分がドイツ人と見られることがほとんどないということを考慮すると、私はドイツ人の血を部分的にしか受け継いでいない類のドイツ人であるにすぎないと思う。 |
| (後略)」という冷静な表現がされている。 |
| 一方、第二次世界大戦後まもない時期に西ベルリンで出版された『ニーチェ全集』においてはこの第3節の全てが差し替えられ、ポーランドについて言及した部分が「(前略)私は純血のポーランド貴族で、不純な血はたったの1滴も混じっていない。 |
| ましてやドイツ人の血などまったく混じっていない。 |
| (後略)」となり、さらに続けて自らの母フランツィスカと妹エリーザベトを「下衆な人間」と呼び、自分が彼女たちの血縁者であることを「私の神性に対する冒涜」などと、明らかに常軌を逸した表現で綴っている。 |
| このメモはニーチェが精神崩壊を起こした1888年の暮れの前後に書かれて出版社に送られたもので、これを読んだ出版社はその狂気じみた激しい内容に驚いて採用を見合わせ、引き出しに保管しておいたとされるものである。 |
| このメモをニーチェの弟子であるペーター・ガスト(本名ハインリヒ・ケゼリッツ)が出版社から無断で持ち出して内容を書写した後は、エリザーベトによって全て破棄されたとされている。 |
| この幻のメモは第二次世界大戦後になってワイマールで「発見」されたと喧伝され、これを基にニーチェ全集ではこの第3章の全文がごっそりと差し替えられた上で決定版として出版された。 |
| 全集におけるこのメモの採用には、母と妹を狂気じみた文章で誹謗しながら自らがポーランド人であることを激しく強調した「メモ」を基にしたことにより自らをポーランド人であるとニーチェが言っていることに対して、読者に胡散臭さ(「このときニーチェはすでに狂っていたから自分をポーランド人だと誤って思い込んでいる」)を感じさせようとする意図が隠れているかどうかは定かではない。 |
| いずれにせよ現在のドイツの書店で手に入る『この人を見よ』では、この第3節がニーチェ全集のものになっており、またインターネット上の公開テキストであるプロジェクト・グーテンベルクでもこれが採用されているhttp://www.gutenberg.org/etext/7202ので、ドイツ人は1908年の初版本の内容を知る機会がほとんどない。 |
| 英語圏でも戦後のニーチェ全集の英訳が一般的となっている。 |
| 幸いにして日本では1908年版の初版本の内容は西尾幹二が翻訳、これが新潮社文庫から出版されているので、日本人は手軽に読むことができる。 |
| 現在のドイツではニーチェの民族的出自についての話題はときおり出てくるものの目だった論争の兆候はみられず、この件はいずれにせよあまり問題とされていないようである。 |
| 少なくともニーチェ本人は自らをポーランドから移住してきたポーランド貴族の子孫であると考え続けており、また実際にずっとそう教えられたと言っている。 |
| 「私は自分の家系と姓がニツキ家というポーランドの貴族からきていると教えられた。 |
| ニツキ家がポーランドを離れ平民となったのは百年ほど前のことで、この移住にはやむをえない事情があった‐彼らは新教徒だったのだ。 |
| 」KGWV2,p.579;KSA9p.681。 |
| 1846年には妹エリーザベトが、1848年には弟ルートヴィヒ・ヨーゼフが生まれているが、ニーチェが5歳の時(1849年)、頭の怪我が原因で父カール・ルートヴィヒが早世。 |
| それを追うように1850年には2歳の弟ヨーゼフが病死。 |
| これを機に、ニーチェ一家はレッケンを去り、近郊のナウムブルクへ転居し、ニーチェはここで父方の祖母と2人の叔母と同居することになる。 |
| ニーチェは、1854年からナウムブルクのギムナジウムへ通うが、ここで音楽と国語の優れた才能を認められてドイツ屈指の名門校プフォルター学院卒業生にはライプニッツ、フィヒテ、ランケ、シュレーゲル兄弟などがいるに特待生として入学、初めて田舎の保守的なキリスト教精神から離れて暮らすこととなる。 |
| 1858年から1864年まで古代ギリシアやローマの古典・哲学・文学等を全寮制・個別指導で鍛えあげられ、模範的な成績を残す。 |
| また詩の執筆や作曲を手がけてみたり、パウル・ドイッセン(PaulDeussen)と友人になったりしたのもこの学校時代のことである。 |
| 1864年にプフォルター学院を卒業すると、ニーチェはボン大学へ進んで神学と古典文献学を学び始める。 |
| 大学在学中にニーチェは友人ドイッセンとともに「フランコニア」というブルシェンシャフト(学生運動団体)に加わって高歌放吟に明け暮れ、最初の学期を終えたころには信仰を放棄して神学の勉強も止めたことを母に告げ、大喧嘩をしている(当時のドイツの田舎で牧師の息子が信仰を放棄するというのはスキャンダルでさえある。 |
| ましてや夫を亡くした母にとっては一家の一大事であった。 |
| ニーチェのこの決断に大きな影響を及ぼしたのはダーヴィト・シュトラウスの著書『イエスの生涯』を読んだことである。 |
| またボン大学では古典文献学の権威フリードリヒ・ヴィルヘルム・リッチュル(FriedrichWilhelmRitschl)と出会い師事する。 |
| リッチュルは、当時大学1年生であったニーチェの類い稀な知性をいち早く見抜き、ただニーチェに受賞させるためだけに懸賞論文の公募を行なうよう大学当局へもちかけるなど、絶大な信頼を置いていた。 |
| このリッチュルのもとで文献学を修得していたニーチェは、リッチュルがボン大学からライプツィヒ大学へ転属となったのに合わせて自分もライプツィヒ大学へ転学する。 |
| このライプツィヒ大学では、のちにイェーナ大学やハイデルベルク大学などで教鞭を取ることになるギリシア宗教史家エルヴィン・ローデ(ErwinRohde)と知り合い親友となる。 |
| 1867年には砲兵師団へ志願入隊するが、1868年3月に落馬事故で大怪我をしたため除隊。 |
| 再び学問へ没頭することになる。 |
| ライプツィヒ大学在学中、ニーチェの思想を形成する上で重要な出会いが、他にも2つあった。 |
| ひとつは、1865年に古本屋の離れに下宿していたニーチェが、その店でショーペンハウエルの『意志と表象としての世界』を偶然購入し、この書の虜となったこと。 |
| もうひとつは1868年11月、リッチュルの紹介でライプツィヒ滞在中の音楽家リヒャルト・ヴァーグナーと面識を得ることができたことである。 |
| ローデ宛ての手紙の中で、ショーペンハウエルについてヴァーグナーと論じ合ったことや、「音楽と哲学について語り合おう」と自宅へ招待されたことなどを興奮気味に伝えている。 |