| フリードリヒ2世は1712年1月24日、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世と王妃ゾフィー・ドロテーアの子として生まれた。 |
| 父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は兵隊王とあだ名される無骨者で芸術を解さなかったが、母ゾフィー・ドロテーアは後のイギリス国王兼ハノーファー選帝侯ジョージ1世の娘で洗練された宮廷人だった。 |
| そのため教育方針も正反対の2人は対立し、それは王子フリードリヒにも大きな影響を与えた。 |
| 父王はフリードリヒの教育係に「オペラや喜劇などのくだらぬ愉しみには絶対に近づかせぬこと」と言い渡し一切の芸術に親しむことを禁じた。 |
| そのはなはだしい軍人嗜好を表す逸話として、太鼓の逸話がある。 |
| 太鼓で遊ぶフリードリヒがうるさいのに怒った姉ヴィルヘルミーネが「そんなうるさいものはやめて、お花で遊んだらどうなの」と言うとフリードリヒが「花なんかで遊ぶより、太鼓を習ったほうが役に立つもん」と言ったのを聞いた父王は、さっそく太鼓を持つ王子の肖像画を描かせたという。 |
| しかし本来のフリードリヒは、むしろ母親似で生来芸術家気質であり、特に音楽を好み、クヴァンツにフルートの手ほどきを受けて習熟、演奏会を開くこともあった。 |
| 父王はそのようなことを耳にすると怒り狂って、杖でフリードリヒを打ちすえたという。 |
| 暴力、食事を与えない、蔵書を取り上げるなど、虐待に等しい境遇にフリードリヒはひたすら耐えて成長していったが、イギリス王女との縁談を機会に、ついに逃亡を図ることになる。 |
| 近衛騎兵少尉ハンス・ヘルマン・フォン・カッテとカイトに手引きを頼み、1730年8月5日早朝、旅行先の宿舎を抜け出したが、計画はすでに漏れており、王太子フリードリヒはロッホ大佐によってその日のうちに連れ戻された。 |
| この逃亡計画が父王に知られ、フリードリヒはキュストリン要塞に幽閉された。 |
| このころ父王は国際的陰謀の渦中にあり、暗殺の恐怖に苛まれていたため、この逃亡計画も自分を陥れる罠だと考えてフリードリヒを処刑しようとまでしたという。 |
| 手引きをしたカイト少尉はイギリスに逃亡したが、カッテ少尉は捕らえられて、見せしめのためフリードリヒの目の前で処刑された。 |
| フリードリヒが「カッテ、私を許してくれ!」と窓から叫ぶとカッテは「私は殿下のために喜んで死にます」と従容として斬首の刑を受けたという。 |
| フリードリヒは窓からその光景を見るよう強制されたが、正視できぬまま失神した。 |
| カッテの遺書には「私は国王陛下をお怨み申し上げません。 |
| 殿下は今までどおり父上と母上を敬い、一刻も早く和解なさいますように。 |
| 」と書かれていた。 |
| フリードリヒは数週間後、父王にむけて手紙を書き、恭順の意を表したため、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世はフリードリヒを釈放して、近くの王領地の管理に当たらせることにした。 |
| 1733年6月12日には父の命令に従って、オーストリアの元帥であったブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公フェルディナント・アルブレヒト2世の娘エリーザベト・クリスティーネと結婚する(ハプスブルク家のマリア・テレジアとの婚約の検討もあったが、取り止めになった)。 |
| 当時17歳のエリーザベト・クリスティーネは容姿の美しい、また善良で信仰心の篤い少女であった。 |
| 彼女は夫に好かれようとして、様々な教養を身につけるべく努力したが、平均的な知性の女性であり、フリードリヒの気を魅くことはなかった。 |
| 夫婦としての生活もなく、後に七年戦争が終結した時、数年ぶりに会った彼女に対してフリードリヒが言ったのは「マダムは少しお太りになったようだ」の一言だけだったといわれる。 |
| そのため2人の間には子供がなく、フリードリヒ2世の後を継いだのは王弟アウグスト・ヴィルヘルムと妃の妹ルイーゼ・アマーリエの子、つまり王と王妃の双方にとって甥にあたるフリードリヒ・ヴィルヘルムだった。 |
| しかし、それでも彼女は夫を尊敬し続け、フリードリヒとの文通は続いていたという。 |
| 赴任先のルピーン近郊に造営したラインスベルク宮でフリードリヒは、気の進まない結婚の代償として得た自由を楽しんだ。 |
| 父王の意に沿って軍務をこなすかたわら、趣味のあう友人たちを集めて余暇には優雅な時間を過ごし、また著作も試みている。 |
| 浩瀚な書簡集のほか、フリードリヒの最初の著書として『反マキャヴェリ論』が知られている。 |
| 反マキャヴェリ論はマキャヴェッリの提示した権謀術数を肯定するルネサンス的な君主像に異を唱え、君主こそ道徳においても国民の模範たるべしと主張する啓蒙主義的な道徳主義の書であった。 |
| この本は後に、文通相手だったヴォルテールの手を経てオランダで匿名で出版され、数ヶ国語に翻訳されている。 |
| しかし、即位後フリードリヒ2世がオーストリア継承戦争で見せた野心は、この本の主旨と正反対のものであり、ヴォルテールにも非難されることになる。 |