101938
90699
232634
%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%923%E4%B8%96
%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%923%E4%B8%96
%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%923%E4%B8%96
%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%923%E4%B8%96
%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%923%E4%B8%96
0
|
|
|
ネットワーク
|
タグ
キーワード
|
|
|
|
|
|
プロフィール
- フリードリヒ3世とは
- 内オーストリア公
- 宗家継承
- 皇帝即位と結婚
- ウィーン追放と帰還
- 最後の錬金術
- 総括
- 子女
フリードリヒ3世(FriedrichIII.,1415年9月21日-1493年8月19日、ドイツ王在位:1440年-1493年、皇帝在位:1452年-1493年)は、ハプスブルク家出身の神聖 ローマ皇帝。オーストリア公 エルンスト(鉄公)とツィンバルカ・マゾヴィエツカの間に生まれた。又従兄のドイツ王 アルブレヒト2世の急死後に皇帝位についた。優れた人物とは言い難かったが、長寿や敵対者たちの急死という幸運が連続し、またドイツやイタリアなどオーストリア国外への統率力が弱体化したことが、かえってハプスブルク家の地盤を強化させたと言える。
皇帝即位と結婚
| 1452年、フリードリヒ3世は正式に戴冠すると同時に、ポルトガル王ドゥアルテ1世の娘エレオノーレ(レオノール)と結婚するため、一族のアルブレヒト6世やラディスラウスらを伴ってローマに向かった。 |
| エレオノーレとはシエナで落ち合い、ローマで戴冠式と結婚式を同時に執り行った。 |
| フリードリヒ3世は倹約家として知られ、「ポルトガルへの使者に旅費をほとんど与えず、使者は物乞い同然でポルトガルたどり着き逮捕された」、「ローマまでの路銀を教皇に用立てさせた」、「エレオノーレに『ワインをストレートで飲むとは何事だ!』と怒った」、「日頃の食事は芋と豆料理ばかりだった」等の風説が広まった。 |
| また、占星術に深くはまり、イタリアで授けられた子供は悪魔の申し子であると信じて妻に手を触れなかったとも言うが、1459年3月22日待望の王子(後のマクシミリアン1世)が生まれた。 |
| この時の占いの結果は大吉だったが、それは後に正反対の結果となってあらわれる。 |
ウィーン追放と帰還
| 1453年5月29日、メフメト2世率いるオスマン帝国軍によってコンスタンティノープルは陥落し、東ローマ帝国は滅んだ。 |
| このニュースはヨーロッパを駆け巡り、人々を震撼させたが、皇帝フリードリヒ3世は庭いじりしながら何事も無かったかのようにそれを聞いたと言われ、人々はフリードリヒ3世を凡愚と批判した。 |
| 弟アルブレヒト6世大公は、凡庸な兄を前にして野心を燃やし、1463年にウィーンの不穏分子を煽り暴動を起こさせ、エレノオーレとマクシミリアンを幽閉した。 |
| 皇帝は10日後にウィーンに駆けつけたが、城内に入れないまま追い払われた。 |
| 屈辱的な内容の講和をアルプレヒトと取り交わした後ウィーンへの入城を果たしたが、苛政を敷くアルプレヒトが暗殺されたことにより、ウィーン市民と和解した。 |
| フリードリヒ3世の好きな言葉は“A・E・I・O・U”で、あらゆる物にこれを掘り込んでいた。 |
| これは“AustriaeEstImperatorOrbisUniversi”(オーストリアは全世界の支配者なり)という意味のラテン語の略と言われるが、異説もある(:en:A.E.I.O.U.を参照)。 |
| 存亡の機にあるハンガリー貴族はフリードリヒ3世を見限り、オスマン帝国から恐れられていたフニャディ・ヤーノシュを実質的な王に選出していたが、ヤーノシュの子マーチャーシュは1458年、正式にハンガリー王に選出されると、ワラキア、セルビア等次々に領土を拡張し、1479年にはオロモウツの和約によってオーストリア大公の地位さえ奪ってしまう。 |
| 1483年にはオーストリアの半分を支配し、1485年以降ウィーンも占領され、フリードリヒ3世はリンツへ宮廷を移した。 |
| しかしマーチャーシュは1490年に子を残さぬまま死亡し、フリードリヒ3世は再びウィーンに戻り、オーストリアの支配権を奪還することができた。 |
| 3年後の1493年、フリードリヒ3世は77歳の高齢でリンツにおいて死去した。 |
最後の錬金術
| フリードリヒ3世は、最後に“錬金術”を成功させた。 |
| それは、当時栄えたブルゴーニュ公国を手に入れるということであった。 |
| 当時のブルゴーニュ公は皇后エレオノーレの従兄であるシャルル豪胆公(突進公)で、後継者は一人娘マリーしかいなかった。 |
| このためヨーロッパ中の王侯が、ブルゴーニュ公国を相続するマリーとの婚姻を望んだ。 |
| 特に対立関係にあったフランス王ルイ11世は、王太子シャルル(後のシャルル8世)との結婚を執拗に望んでいた。 |
| しかしブルゴーニュ公は、皇帝フリードリヒ3世の子マクシミリアン大公との結婚に興味を示していた。 |
| 1473年9月13日に両者はトリーアで会見し、豪胆公はブルゴーニュの支配者としての自分への王号の授与等を要求したが、フリードリヒ3世は明言を避けた。 |
| フランス王の反対や、帝国諸侯が豪胆公の好戦的な性格を恐れていたという背景もあり、結局11月24日の夜半、皇帝一行は闇にまぎれて立ち去った。 |
| 豪胆公は1477年1月5日にナンシーの戦いで戦死し、43歳で生涯を閉じた。 |
| 豪胆公の死後、マクシミリアンとマリーは結婚し、その遺領のうちネーデルラントやフランシュ=コンテは2人のものになったが、ブルゴーニュ公の本領のほとんどはフランスに併合された。 |
| その後、1488年にブルターニュ公フランソワ2世が一人娘アンヌを残して死没したときも同じような状況になった。 |
| アンヌも、既にマリーと死別していたマクシミリアンと婚約したが、フランス王シャルル8世は武力で彼女を奪った。 |
| この事件が元で、フランス王家とハプスブルク家の関係は急速に悪化して行く。 |
| しかしブルゴーニュ家との婚姻は、その後のハプスブルク家の結婚政策「戦争は他家に任せておけ。 |
| 幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」の第一歩となった。 |
総括
| フリードリヒ3世は一見、凡庸な君主であったが、敵対者はことごとく都合良く死亡し、長生きと悪運の強さで、自発的には何もしないままハプスブルク家の繁栄の基礎を築き上げた。 |
| これには暗殺説がつきまとうほどである。 |
| また、ルドルフ4世(建設公)の「大特許状」を帝国法に組み込んだのはこのフリードリヒ3世で、以後ハプスブルク家は非常に大きな権利を得た。 |
| 「大特許状」には「オーストリアは皇帝が介入できない永遠の封土であり、オーストリア大公は皇帝の助言者で、彼の知らないところではいかなる決定も下せない。 |
| オーストリアはあらゆる帝国税が免除されるが、帝国はオーストリアの安全を守る義務がある。 |
| オーストリアは義務で帝国に属しているのではなく、帝国に頼まれて帝国の臣になっている。 |
| 」などとあり、ハプスブルク家が以後帝位を独占する一つの要因となるものであった。 |
| 建設公の詐称に始まる「大公」の称号も、帝国法によって正式のものとなった。 |
| 1442年、フリードリヒ3世はフランクフルト帝国議会である法律を発布するが、この時の法律第17条冒頭に「神聖ローマ帝国とドイツ国民」といった表現が登場する。 |
| ここから次第に、「神聖ローマ帝国」という国号に「ドイツ国民」という言葉が付加されるようになる。 |
| このことはつまり、その帝国の支配領域がドイツに限られてきたということを追認せざるを得なくなった訳で、1486年に使用された「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」は少なくともこの意味だった。 |
| 歴代の皇帝が夢見てきた西ヨーロッパ全体の支配という目的を公式に放棄したことがここからわかる。 |
子女
| 皇后エレオノーレとの間には三男二女をもうけた。 |
| うち成人したのは2名である。 |
| クリストフ(1455年-1456年)。 |
| マクシミリアン1世(1459年-1519年)。 |
| ヘレネ(1460年-1462年)。 |
| クニグンデ(1465年-1520年) バイエルン公アルブレヒト4世妃。 |
| ヨハンネス(1466年-1467年)。 |
|
1424年
|
父エルンスト鉄公が死去したため、幼くして弟... |
|
1439年
|
在位1年余りで皇帝としての戴冠式も果たせな... |
|
投票数
0
| ふりがな |
|
| 性別 |
|
| 出身地 |
|
| 生年月日 |
|
| 血液型 |
|
| 職業 |
|
| 所属 |
|
| Twitter |
|
|
|
|
|
|
|
|
つながりの強いひと
|
|
ローマ皇帝
紀元前27年に元老院よりアウグストゥス(Augustus)の尊称を授与されたアウグストゥス本人と、この尊称を帯びた彼の後継者をさす。ローマ皇帝というひとつの職... |
|
|
アルブレヒト
弟
ドイツ騎士団の総長(在位:1510年-1525年)、後に初代プロイセン公(在位:1525年-1568年)。ブランデンブルク選帝侯アルブレヒト・アヒレスの四男であるア... |
|
|
マクシミリアン1世
ハプスブルク家出身のオーストリア大公、神聖ローマ皇帝(在位:1493年-1519年)。武勇に秀で立派な体躯に恵まれ、また芸術の保護者であったことから、中世最... |
|
|
アルブレヒト2世
ハプスブルク家 出身の オーストリア公 (在位: 1326年 - 1358年 )。父は ドイツ王 アルブレヒト1世 、母はケルンテン公 マインハルト の娘 エリーザベト ... |
|
|
エルンスト
エルンスト・クライドルフ エルンスト・クライドルフ Er nst Kreidolf
1863-1956
スイス、ペルン生まれ。石版工の技術で学費を稼ぎな... |
|
|
ヴィルヘルム2世
男たちの帝国 ヴィルヘルム2世からナチスへ 星乃治彦/著 出版社名 : 岩波書店 出版年月 : 2006年10月 ISBNコード : 978-4--1
( 4--7 ) 税込価... |
|
|
ジギスムント
ルクセンブルク朝の神聖ローマ皇帝(在位:1410年-1437年)、ルクセンブルク公(在位:1378年-1388年)、ブランデンブルク選帝侯(在位:1378年-1388年、1411... |
|
|
アルブレヒト1世
ハプスブルク家出身のドイツ王(在 位:1298年 - 1308年)。 ... オーストリアは2人の息子フリードリヒ1世とレオポルト1 世が相続したが、帝位はルクセンブル... |
|
|
フリードリヒ1世
フリードリヒ1世は1657年7月11日、 ケーニヒスベルク で フリードリヒ・ヴィルヘルム 大選帝侯と妃 ルイーゼ・ヘンリエッテ ( オランダ総督 、 オラニエ公 ... |
|
|
マクシミリアン
結婚 婚約
ハプスブルク=ロートリンゲン家出身のメキシコ皇帝(在位:1864年-1867年)。全名は、フェルディナント・マクシミリアン・ヨーゼフ・フォン・ハプスブルク=... |
|
|
ヴィルヘルム1世
ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝) - Wikipedia ヴィルヘルム1世 は1797年3月22日、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世とルイーゼ王妃の子 としてベルリンに生まれた... |
|
|
レオポルト
テンサイノチチレオポルトモーツァルトノセイシュン
天才の父 レオポルト・モーツァルトの青春
石井宏 / 著
天才音楽家(アマデウス)の父も... |
|
|
フリードリヒ・ヴィルヘルム
ブランデンブルク選帝侯及びプロイセン公(在位:1640年12月1日-1688年5月9日)。プロイセン公国をポーランド支配から解放し、フェールベリンの戦いなどに勝... |
|
|
フリードリヒ5世
プファルツ選帝侯(在位:1610年-1623年)、ボヘミア王(フリードリヒ1世、チェコ語:FriedrichFalcký,在位:1619年-1620年)。1618年のプラハ窓外投擲事件に... |
|
|
フリードリヒ2世
中世世界における真に驚異的な人物である。アラブ・ノルマン文化の栄えるシチリアでの幼少時の生活は、彼に宗教的寛容さを植え付け、彼のイスラム文化への深... |
|
|
フリードリヒ・ヴィルヘルム4世
プロイセン王(在位:1840年6月7日-1861年1月2日)。3月前期以降の民主化運動に対して反動勢力の中心となり、欽定憲法を制定して上からの近代化を進めた。あ... |
|
|
ヴィルヘルム
ドイツのブラウンシュヴァイク公(在位:1830年-1884年)。ブラウンシュヴァイク公フリードリヒ・ヴィルヘルムとその妻マリー・フォン・バーデンの次男。カー... |
|
|
ルイ14世
ブルボン朝第3代のフランス国王(在位:1643年5月14日-1715年9月1日)。ルイ13世の長子。妃はスペイン国王フェリペ4世の娘マリー・テレーズ(マリア・テレサ... |
|
|
シュテファン
シュテファン・ルツォ... http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%86%E3%83%95%E3%82%A1%E3... シュテファン・ルツォヴィツキー の同義語 - ... |
|
|
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世
第2代の「プロイセンの王」(在位:1713年2月25日-1740年5月31日)。粗暴で無教養だったが財政・軍制の改革によってブランデンブルク=プロイセンの強大化に... |
|
|
フリードリヒ3世さんについてのひとこと紹介
|
|
|
|