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つながりの強いひと
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小倉清子
小倉清子(おぐら・きよこ 1957年-)は日本のジャーナリスト。ネパールの政治事情に詳しい。1957年栃木県生まれ。1981年東京大学農学部卒業。1993年よりネパ... |
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バブラム・バッタライ
ネパールの革命家、政治家。首相。プラチャンダ内閣の財務相。ネパール共産党毛沢東主義派(マオイスト)の理論的指導者としてNo.2を長らく務めたが、2009年1... |
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笹川陽平(ささかわようへい、1939年1月8日-)は笹川良一(日本船舶振興会初代会長)の三男で、公益財団法人日本財団(旧日本船舶振興会)会長、世界保健機関... |
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【ムンバイ(インド西部)=永田和男】インド・ムンバイの同時テロ事件で襲撃された「タージマハールホテル」を傘下に置くタタ・グループのラタン・タタ会長... |
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サガルマータ
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プロフィール
- プラチャンダとは
- 概要
- 生い立ち
- 毛沢東主義派結成まで
- 人民戦争
- 和平と王制の打倒
- 首相に就任
- 統一センター・マサル派との合同
- プラチャンダ側近狙撃事件
- 首相辞任
- ビデオ事件
- 関連サイト
プラチャンダ(,)ことプスパカマル・ダハール(,,1954年12月11日-)は、ネパールの政治家、革命家、元軍人(ゲリラ)。第56代首相(在任:2008年8月15日-2009年5月4日)。ネパール共産党 毛沢東主義派(マオイスト)議長・ネパール人民解放軍最高司令官を経て、現在、ネパール共産党統一 毛沢東主義派(2009年1月12日成立)議長。2008年より制憲議会議員。
概要
| 演説がうまく、党内に絶大な指導力を持っていたが、首相になってから党内での指導力は急速に低下した。 |
| 11年にわたり政府との間で内戦(「人民戦争」)を行ってきたが2006年に停戦。 |
| 「プラチャンダ」は「獰猛なやつ」という意味の変名である。 |
| 本名はプスパカマル・ダハール(PushpaKamalDahal ネパール語:पुष्पकमलदहल)。 |
| 日本では、ネパール語人名の英語表記から二重翻訳で「プスパ・カマル・ダハル」、「プシュパ・カマール・ダハール」などと表記されることが一般的ネパール語にはミドルネームの概念がないため、ファーストネームとミドルネームは、ひとつながりの名前として表記される。 |
| 王政廃止による初代大統領選挙の失敗で組閣が困難になり、一時は野党になる方針を決めたが、統一共産党、マデシ人権フォーラムとの関係が改善され、2008年8月15日、制憲議会で首相に選出され |
| 8月31日、24人の閣僚からなるプラチャンダ内閣が本格的に成立したhttp://www.nepalnewsmobile.com/2008/aug/aug31/news10.php。 |
生い立ち
| ネパール西部、カスキ郡、ポカラ近郊のディクルポカリ村のバフン(バラモンに相当するネパールのカースト)の家庭に生まれた。 |
| 民族的にはネパール最大民族のパルバテ・ヒンドゥーに属する。 |
| 父はムクティラム・ダハール、母はバワニ・ダハール。 |
| 最初の名前は「チャビラル・ダハール」。 |
| 8人兄弟の長男で、1人の弟と、6人の妹がいた。 |
| バフン階級の出身だったが家は小作人で貧しかった。 |
| マヘンドラ国王の国策により、政府に反抗的な南部のテライ平原(マデス)を思い通りに統治するため、山岳部や丘陵部の住民の移住政策がとられ、チャビラルが6歳のときダハール家も南部チトワン郡に移住した。 |
| しかし、チトワンでの生活は、相変わらず厳しいものであった。 |
| しかしこうした窮状の中、彼の父は自給自足的農業で大家族を支えようとした。 |
| 父は彼によい教育を受けさせ、成人して「大人物」になることを望んだ。 |
| 少年時代の友人や近所の人々の記憶によれば、彼は心優しく、不正を我慢できない少年だったという。 |
| バフンの家庭に生まれながらダリット(不可触賤民)とも交わった。 |
| 彼の寛大な性格とハンサムな風貌から学校の教師たちはその名前を「プスパカマル」(蓮の花)と名づけた。 |
| これが現在の本名である。 |
| シヴァナガルのナラヤニ・バイディア・マンディル高校の卒業試験に合格すると、彼はパタン・キャンパスで科学の中間課程を修了した。 |
| この時、共産主義に強い影響を受ける。 |
| その後、故郷のチトワン郡に戻り、バラトプル郊外のラムプルにあるアメリカの出資で作られた農業・動物学大学に進学する。 |
| ここで農学士の称号を得る。 |
| 1976年、大学を卒業すると、ゴルカ郡のアルガットで学校の教師となり、生徒と保護者から大きな尊敬を受ける。 |
| そこで2年半すごした。 |
| 生徒を教えるだけでなく、毎週一回、文盲の成人のための教室も開き、新しい農業技術を教えると共に、マルクス主義の思想も教えた。 |
| 教職を去った後、ジャジャルットで短期間アメリカの出資する農業開発プロジェクト(USAID)に参加する。 |
| その後、革命運動に専従することになる。 |
毛沢東主義派結成まで
| 1971年、ネパール共産党(プシュパ・ラル派)に入党。 |
| 当初より武装闘争の必要性を感じていた小倉清子『ネパール王制崩壊』。 |
| ネパール共産党の創立者で当時毛沢東の影響を受けていたプシュパ・ラル・シュレスタの影響を受ける。 |
| 1979年、ネパール共産党チトワン郡委員会委員に選出。 |
| 1981年、ネパール共産党第四会議派(ChauthoMahadhibeshan)専従党員となる。 |
| 同年、全ネパール青年委員会郡書記局員。 |
| 1983年、全ネパール青年委員会中央委員会会長。 |
| 1984年、ネパール共産党マシャル派(急進的な地下政党)の中央委員会委員となり、1985年には同派の政治局員となるhttp://www.opmcm.gov.np/index.php?param=p7。 |
| 1989年、モハン・バイディヤ(キラン)が武装闘争の失敗でマシャル派総書記を辞任したため、プラチャンダは後任のマシャル派総書記に就任。 |
| この時の同志にはキランのほか、チャンドラ・プラサッド・ガジュレル、デヴ・グルン、クリシュナ・バハドゥル・マハラなど現在毛沢東主義派の幹部になっている者もいた。 |
| マシャル派は「ネパール共産党第四会議派」と合同し、「ネパール共産党統一センター派」エカタ・ケンドラとも。 |
| これも地下政党を設立。 |
| しかし1991年、統一センター派は武装闘争に消極的なニルマル・ラマ派と積極的なプラチャンダ派の同名の二つの組織に分裂した。 |
| 統一センター派の公然組織・統一人民戦線ネパールも分裂し、プラチャンダ派の公然組織の議長には「ネパール共産党マサル派」を離脱して「統一センター派」に参加したバブラム・バッタライが就任する。 |
| バッタライは後に毛沢東主義派のNo.2となる。 |
| 1995年3月、プラチャンダは自派の「統一センター」をネパール共産党毛沢東主義派(いわゆるマオイスト)に改称し、総書記に就任する。 |
人民戦争
| バブラム・バッタライは公然組織・統一人民戦線ネパールの名でデウバ首相に40か条の要求をつきつけ、拒否されると、プラチャンダの指揮のもと1996年2月13日、ロルパ、ルクム、シンドゥリ、ゴルカの4郡で警察署などを襲い、武装蜂起を起こす。 |
| これにより同党はネパール政府との間で11年間にわたる「人民戦争」(ネパール内戦)を開始した。 |
| この戦争で、13,000人以上が死亡したとされる。 |
| 当初マオイスト派の軍備は極めてお粗末なもので、猟銃やピストル、警察官が使うようなライフル、それにククリと呼ばれるナイフだった。 |
| グルカ兵のシンボルになっているナイフである。 |
| ライフルはプラチャンダ自身が買いにいったものであった。 |
| 警察詰め所を次々襲い、最初の一年半で50人を殺害した。 |
| そうした実戦経験の中で次第に武力を増強していった。 |
| 2000年9月、初めて郡庁所在地を襲撃。 |
| 2000年12月、初めて郡レベルの人民政府を確立。 |
| 2001年、2月、インド・パンジャブ州で開かれた第2回党総会で同党議長に就任、「プラチャンダの道」(プラチャンダ・パト)といわれる運動方針を採択した。 |
| これは、「農村から都市部を包囲する」という毛沢東理論だけでは不十分だと考え、農村ゲリラと都市プロパガンダを合体させるべきだという考え方である。 |
| これはペルー共産党(センデロ・ルミノソ=「輝ける道」)の影響を受けたといわれる。 |
| また、この大会でネパール人民解放軍の正式結成が決まる。 |
| 2001年末までに24の郡で人民政府が樹立された。 |
| 同年11月25日、国家非常事態宣言が出され、王室ネパール軍が本格的にマオイスト掃討に乗り出す。 |
| 農村地域を中心に実効支配を進め、2003年、マオイスト派は実効支配地域は国土の7割から8割を占めたと主張した。 |
和平と王制の打倒
| 2005年2月1日、ギャネンドラ国王は全権を掌握し、親政を開始した。 |
| 同年、マオイスト派は国会に勢力を持っていた7党連合とインドで会談し、十二か条の合意を達成、ともに国王の独裁政治と闘うことで合意。 |
| 2006年4月、国王の独裁に抗議する民主化運動(ロクタントラ・アンドラン)が高まり、マオイスト派はカトマンズを中心に抗議行動を行う。 |
| 「王国」という国号も廃止され、王制は形だけのものとなった。 |
| 11月21日、マオイスト派は政府との間で無期限停戦と和平を誓う包括和平協定に調印。 |
| 2008年4月10日の制憲議会選挙で同党は220議席を獲得し第一党となった(後に内閣指名の議席が加わり、229議席になった)。 |
| 5月28日の制憲議会で宿願の王制廃止と連邦民主共和制の採択が議決される |
首相に就任
| 7月21日、大統領選の決選投票で、毛派の推す共和制活動家ラム・ラジャ・プラサド・シンが落選し、その擁立をめぐってのしこりで組閣が難しくなった。 |
| プラチャンダは組閣の放棄を示唆しBloomberg、7月22日、正式に野党になることを決定した。 |
| しかし、大統領のラムバラン・ヤーダブがプラチャンダに「政党間の合意による政府」を組織するよう指示。 |
| 政党間の合意には至らなかったが、一時は関係が険悪になっていた統一共産党、マデシ人権フォーラムとの関係が改善し、ネパール会議派が下野する方針を固めた。 |
| プラチャンダは8月15日の制憲議会の投票で464票の大量得票で首相に選出された。 |
| 対抗馬のネパール会議派のシェル・バハドゥール・デウバ元首相の得票は113票に留まった。 |
| 8月22日、初めての外遊として北京オリンピック開会式出席のため中華人民共和国を訪問。 |
| 翌日、胡錦濤国家主席、温家宝首相と会談した。 |
| ネパールの首相の初めての外遊はインドが慣例で、インドは神経を尖らせた |
| 8月31日、毛沢東派のほか統一共産党、マデシ人権フォーラム、人民戦線ネパール、友愛党、ネパール共産党ユナイテッド派からなる24人の連立内閣が発足した。 |
| この政権では、キャスティング・ボートを握っていた統一共産党が基本的に毛沢東派を信用しておらず、また、マデシ人権フォーラムと毛沢東派はかつて殺し合いをするほど対立した過去があり、マデシ人権フォーラム。 |
| これは、「包括的和平協定」での7党連合と毛派の間の合意事項で、プラチャンダはじめマオイスト派はこれに積極的であったが、国軍制服組のトップ、ルークマングド・カトワル陸軍参謀総長は公然とこれに反対していたhttp://www.kantipuronline.com/kolnews.php?nid=158793。 |
統一センター・マサル派との合同
| プラチャンダは2009年1月12日、ネパール共産党毛沢東主義派と小規模な共産主義地下政党・「ネパール共産党統一センター・マサル派」エカタケンドラ・マサル。 |
| 指導者はプラカシュ(ナラヤン・カジ・シュレスタ))およびその公然組織・人民戦線ネパールとの合同を断行、新政党ネパール共産党統一毛沢東主義派を結成した。 |
プラチャンダ側近狙撃事件
| 2009年2月9日、プラチャンダの筆頭私設秘書でネパール共産党統一毛沢東主義派政治局員であるシャクティ・バハドゥール・バスネットがカトマンズの自宅近くで何者かに狙撃され負傷した。 |
首相辞任
| マオイスト派は以前より同派の「党兵」組織(「ネパール人民解放軍」)の国軍編入を要求していたが、国軍征服組トップのカトワル陸軍参謀総長は「軍の中立性を保てない」とこれを拒否。 |
| ついに2009年5月3日、プラチャンダはカトワル参謀総長の解任を決めたが『朝日新聞』2009年5月4日、東京版朝刊、4頁。 |
| 5月23日、後任の首相に統一共産党の元総書記・マダブ・クマル・ネパールが無投票で当選。 |
ビデオ事件
| 2008年1月2日にマオイスト派の人民解放軍駐屯地で行われたプラチャンダの演説の模様(明らかに毛派によって撮影されたもの)であったが、このなかでプラチャンダは人民解放軍の規模が「7,000人から8,000人である」と表明している。 |
| 国連ネパール支援団(UNMIN)の監視の下に登録された人民解放軍の数は、約35,000人であり、その資格審査に合格した兵士は約20,000人である。 |
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1971年
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ネパール共産党(プシュパ・ラル派)に入党 |
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1976年
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大学を卒業すると、ゴルカ郡のアルガットで学... |
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