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プロフィール
- ヘンリー・キッシンジャーとは
- 生い立ち
- 亡命
- ハーバード大学教授
- 政権入り
- キッシンジャーの外交
- 「外交の達人」
- 退任後
- 家庭生活
- 逸話
- 単著
- 公刊史料
- 対談本(日本語オリジナル)
- 参考・関連文献
- 関連サイト
ヘンリー・アルフレッド・キッシンジャー(HenryAlfredKissinger,1923年5月27日-)は、ドイツ出身のアメリカのニクソン政権およびフォード政権期の国家安全保障問題担当大統領補佐官、国務長官。国際政治学者。
生い立ち
| 1923年に、ドイツ・ヴァイマル共和国のフュルトに生まれる。 |
| 本来の姓名はHeinzAlfredKissinger(ハインツ・アルフレート・キッシンガー)で、苗字はバート・キッシンゲン(BadKissingen)に由来。 |
| 父ルイス・キッシンガーは女子高で歴史と地理を教え、母パウラ(旧姓シュテルン)はアンスバッハ近郊ロイタースハウゼン出身の富裕な家畜業者の娘。 |
| 両親ともにドイツ系ユダヤ人である。 |
亡命
| ハインツは、1歳下の弟ヴァルターと共に幸福な少年時代を過ごしたが、1933年に、ヒトラー支配のもと反ユダヤ人政策を推し進めるナチスが政権を掌握したために運命が一変した。 |
| 一家はナチスを嫌って1938年にアメリカへ移住し、第二次世界大戦中の1943年に同国に帰化ドイツに残った親類はドイツ人に殺害されたとされる。 |
| 親類が本当に存在したか、殺されたかの詳細は不明。 |
| ただし、当時のドイツにおける反ユダヤ主義について彼は特に不愉快に感じたと思ったことはないと告白している。 |
| 移住後はジョージ・ワシントン高校に3年半通う。 |
| 後半2年間は夜間クラスで、昼間は髭そり用ブラシの工場で働き、週約15ドルの賃金が一家のアパート住まいの生活を助けていた。 |
| また、工場近くにあったニューヨーク市立大学シティカレッジのビジネススクールにも通い始める。 |
| 大学を卒業後、第二次世界大戦にはアメリカ軍情報部の下士官として参戦し、戦後母国ドイツに駐留し多くの戦犯の処遇にあたった。 |
| これにあたって、多くのユダヤ人兵士が戦犯への激しい憎悪をむき出しにしていた中で、彼は「報復しようとは考えなかった。 |
| 彼らがどうしてこのようなことをしたのかを知りたかった」と発言している。 |
ハーバード大学教授
| その後ハーバード大学に進学、19世紀のヨーロッパ外交史を研究し、ウィーン体制についての研究で1954年博士の学位を取得する日本語訳『回復された世界平和』がこれに該当。 |
| その要因のひとつとして、敗れたナポレオンのフランスに対して、メッテルニヒやカスルリーらが、懲罰よりも力の均衡の回復を重視したことを上げている。 |
| 1951年には日米学生会議に参加している。 |
| 大学院在学時には指導教授であったウィリアム・エリオットの庇護を受け、世界各国の有望な若手指導者をハーバード大学に集めて国際情勢について講義や議論を行なうサマー・セミナーの幹事役となり、国内外にその後のワシントン入りにもつながる人脈を形成した。 |
| 日本からの参加者としては、中曽根康弘元日本国首相(当時衆議院議員・改進党所属・当選4回、1953年参加)などがいる。 |
| 大学院修了後もハーバード大学の政治学部で教鞭をとっていたが、外交問題評議会への参加を通じて、同時代の安全保障政策にも積極的な提言をはじめる。 |
| 特にキッシンジャーはアイゼンハワー政権の採用した核戦略(「大量報復戦略」)の硬直性を辛辣に批判し、のちのケネディ政権が採用する「柔軟反応戦略」のひな型ともいえる、核兵器・通常兵器の段階的な運用による制限戦争の展開を主張した日本語訳『核兵器と外交政策』がこれに該当、当時の代表的な核戦略論文をまとめたアンソロジー『多極化時代の戦略上』(高坂正堯・桃井真編、日本国際問題研究所、1973年)にも当時のキッシンジャーによる論文が複数収録されている。 |
| 1960年代にはケネディ政権の外交政策立案に一時的に関与することとなるウォルター・アイザックソン著(別宮貞徳監訳)『キッシンジャー――世界をデザインした男(上)』(日本放送出版協会,1994年)。 |
政権入り
| 1968年の大統領選挙では共和党の大統領候補指名選に立候補したネルソン・ロックフェラーの外交顧問を務めていた。 |
| しかしロックフェラーの敗北後にリチャード・ニクソンから直々のスカウトを受け、政権誕生とともに国家安全保障問題担当大統領補佐官として政権中枢に入り、外交全般を取り仕切るキッシンジャーの補佐官指名は、国務長官、国防長官の指名の前になされた。 |
| ここにニクソンのキッシンジャーへの期待を読み取る論者も少なくない。 |
| ニクソンとキッシンジャーはホワイトハウス主導の外交政策決定を実現させるべく、ケネディ、ジョンソン政権では必ずしも重視されていなかった国家安全保障会議(NSC)の組織・制度整備を推し進め、国務省などと激しい権力闘争を行ない、政策決定機関としてのNSCの地位向上を実現した。 |
| 以後、ニクソンおよびフォード政権ではホワイトハウスが主導する形での外交政策決定が展開されることとなるDavidJ.Rothkopf,''RunningtheWorld:TheInsideStoryoftheNationalSecurityCouncilAndtheArchitectsofAmerica'sPower''.(PublicAffairs,2005),chap.6.後述する米中接近についても、国務省とウィリアム・ロジャース長官が一切カヤの外に置かれていたことは、よく知られたエピソードである。 |
| 冷戦政策の再構築を意図したニクソン政権期の外交の中で、キッシンジャーは重要な位置を役割を果たした。 |
| 1971年にはニクソンの「密使」として、当時ソ連との関係悪化が進んでいた中華人民共和国を極秘に二度訪問、周恩来と直接会談を行ない、米中和解への道筋をつけるこの際の会談記録を編纂したものが、『周恩来・キッシンジャー機密会談録』。 |
| 一方で、この中国との和解を交渉カードとしてソ連とも第一次戦略兵器制限条約(SALT1)を締結するなどデタント政策を推進した。 |
| またこのような大国間関係の動きと連動して、ニクソンとキッシンジャーは60年代最大の外交課題であったベトナム戦争の終結にも成果を納めた。 |
| 米国が中ソと関係改善を行ない、その結果、ベトナム戦争において中ソ両国の支援を受けてアメリカと対峙していた北ベトナムを国際的に孤立させたことで、米国はジョンソン政権末期の1968年5月よりパリで行なわれていた和平交渉妥結に成功したのである。 |
| 1973年にはパリ協定が調印され、これを功績として米国交渉団の代表であったキッシンジャーはノーベル平和賞を受賞することとなる(北ベトナム側の代表であるレ・ドゥク・トは受賞を辞退した)。 |
| これら種々の外交成果を得たキッシンジャーは、1973年には大統領補佐官に留任したまま国務長官に就任し、フォード政権の退陣まで外交政策実務の全般を掌握することとなった(翌1974年、ジェラルド・R・フォード政権の成立に伴い、補佐官は退任する)。 |
| フォード政権でも外交問題に明るくない大統領を尻目に、補佐官時代の部下であった国家安全保障問題担当大統領補佐官のブレント・スコウクロフトや、国務省顧問ヘルムート・ゾンネンフェルトら側近を活用しながらデタント政策をリードした。 |
| 一方でより厳しい対ソ連認識を抱き、デタント政策に批判的なドナルド・ラムズフェルド(大統領首席補佐官・国防長官を歴任)などとは閣内で対立していた。 |
キッシンジャーの外交
| キッシンジャーとニクソンが推進した外交の特徴はその現実主義にあった。 |
| これは米国の国益を外交の中心に据え、世界的なバランス・オブ・パワーに配慮しつつ、国際秩序をアメリカにとって受け入れられる形の安定へと導くことを目的としていた。 |
| このような国際秩序像の背景にはかつてキッシンジャーが研究し、その安定性を高く評価していたウィーン体制が一つのモデルとして存在していたことが、多くの研究で指摘されている関係するエピソードとして、キッシンジャーが大学院生時代のものがある。 |
| キッシンジャーが研究を行なっていた1940年代から50年代の時点でも、核兵器登場以前の19世紀の外交史を研究することは役に立たないと一般に認知されていたが、キッシンジャーは「ウィーン体制を理解すれば、現在の国際政治の構造も説明できる」と語っていたといわれる。 |
| アイザックソン『キッシンジャー(上)』。 |
| 国際政治を概観した著書『外交』においても、キッシンジャーはウィーン体制を高く評価している。 |
| キッシンジャーらの発想は冷戦と、そしてそれが熱い形で具体化されたベトナム戦争という構図の中で、従来アメリカが基本的国策としていた孤立主義と理想主義という外交姿勢がもはや機能しなくなったことを端的に表わすものだった。 |
| キッシンジャーの推進したデタント政策は、ベトナム戦争からの脱出という短期的な意味と、米ソ二超大国間の対立という約20年間継続されてきた従来の冷戦構造に、ソ連との関係悪化と時を同じくして台頭してきた中華人民共和国を新たな同次元のプレイヤーに組み入れること(「米中ソ三角関係」などとも評される)、ソ連が核戦力の面でアメリカと対等な立場にあることを明示的に認めることによって、大国間の勢力バランスを現状に即したものへと安定的に再編成するという、長期的な意味を持った戦略の組み合わせだった。 |
| 一方で、ニクソン・キッシンジャー外交は道徳問題への無関心でも知られた。 |
| 例としてあげられるのは、中国共産党の一党独裁国家であり、国民を過酷な統制下においていた中華人民共和国との国交樹立、チリのサルバドール・アジェンデ政権転覆(1973年)への関与、続く親米軍事政権として知られたアウグスト・ピノチェト政権の国内弾圧の黙認であり、このような態度はタカ派、リベラルを問わず多くの非難を受けることとなった。 |
| 1998年にピノチェトが亡命先のヨーロッパで拘束された際には、チリ国内における過去の弾圧への加担者としてキッシンジャーの訴追が論じられるという事態にまで発展した当時のアメリカの道徳問題への無関心については、クリストファー・ヒッチンス(井上泰浩訳)『アメリカの陰謀とヘンリー・キッシンジャー』(集英社,2002年)などを参照。 |
| ヒッチンスは東ティモール、バングラデシュなどでの弾圧でも、キッシンジャーらが無関心や黙認を貫いたことを批判している。 |
| ピノチェトのチリ・クーデターについては、「われわれは、ひとつの国がその国民が無責任なせいで、共産主義化するのを無為に見ている必要はない」と述べたともされるアルンダティ・ロイ「来たれ、9月よ」『世界』2003年6月号。 |
| これに拠れば、キッシンジャーは反共主義や勢力圏の安定という自らの信念を民主主義より上位に置き、選挙によって示されたチリ国民の民意を積極的に踏みにじろうとしたとも言える。 |
| 道徳問題への無関心の与えた他の影響としては、アメリカ外交においてポール・ウォルフォウィッツ、リチャード・パールなどの新保守主義者の台頭を促したことがあげられる。 |
| 国際政治において道徳的側面を重視した彼らにとり、国家間のパワーバランスばかりを重視し、抑圧的で「邪悪」な政治体制のソ連とデタントを模索するニクソン・キッシンジャー外交は許容しがたいものであり、当時のアメリカ外交路線に強い不満を抱くこととなる。 |
| フォード政権下でデタントが行き詰まり、続くジミー・カーター民主党政権下の1979年にソ連のアフガニスタン侵攻によって「新冷戦」と呼ばれる米ソの緊張が再来するに至って、デタントに強い反発を抱いていた彼らはイデオロギー的な対ソ強硬派としてロナルド・レーガン政権へと参画し、新保守主義者という立場を明確にすることとなったこの時代の外交論議の変遷を追ったものとして、ジェームズ・マン(渡辺昭夫監訳)『ウルカヌスの群像――ブッシュ政権とイラク戦争』(共同通信社,2004年)を参照。 |
| また、石井修「アメリカの東ヨーロッパ政策と人権」有賀貞編『アメリカ外交と人権』(日本国際問題研究所,1992年)、関場誓子「対ソ政策と人権問題」同上所収なども参照。 |
「外交の達人」
| キッシンジャーは、国家安全保障問題担当補佐官時代から国務長官(1973年8月23日指名)時代に至るまで、その独特な風貌やドイツ風のアクセント、さまざまなパーティで有名女優を同伴して登場するなどの派手なパフォーマンス、日本で「忍者外交」などと形容された神出鬼没の外交スタイル、さらにベトナム戦争和平への貢献によるノーベル平和賞受賞などといったさまざまな理由から、歴代の前任者たちとは比較にならないほど目立つ存在だった。 |
| アメリカでは今日でも「ドクター・キッシンジャー」は20世紀後半を代表する外交専門家とする認識が多数を占めている。 |
| しかし、このような「外交の専門家」という一般的な評価は、キッシンジャーが国務長官退任後間もなく発表した著書や回想録に拠るところが大きい沖縄返還交渉にあたって佐藤栄作総理の密使としてキッシンジャーと交渉した若泉敬も「キッシンジャーの回想録を鵜呑みにするな」と語っていた。 |
| ニクソンとキッシンジャーは厚い信頼で結ばれていたとされるが、個人的には決して親しい友人ではなかった。 |
| ニクソンが他の側近の前でキッシンジャーのことをその出自を背景に侮蔑的に呼んだことが数回確認されており、キッシンジャー自身も「一度として二人きりで食事を取ったことはなかった」と語っている。 |
退任後
| 1977年、キッシンジャーはフォード政権の退陣と共に国務長官を退任した。 |
| コロンビア大学から教授就任の誘いを受けたが、学生の激しい反対に会い、就任を断念する。 |
| その後ジョージタウン大学戦略国際問題研究所(CSIS)に招かれ、在職中次々と政権時代の回想録を発表し、話題を呼ぶこととなった。 |
| 1982年、国際コンサルティング会社「キッシンジャー・アソシエーツ」を設立し、社長に就任。 |
| 同社にはジョージ・ブッシュ(父)政権で国務副長官を務めたローレンス・イーグルバーガー(後に国務長官)や、国家安全保障担当大統領補佐官を務めたブレント・スコウクロフトなどが参加している。 |
| また、バラク・オバマ政権で財務長官に就任したティモシー・ガイトナーも、一時同社に籍を置いていた。 |
| 現在は「現代外交の生き字引的存在」として多くの著書を持つほか、世界各国で講演活動を行っている。 |
| また、ニクソン以降のアメリカの歴代大統領をはじめとする世界各国の指導層と親交を持っており、国務長官退任から30年以上たった現在でもその国際的影響力は最大級、と評価されている。 |
| 最近では、ジョージ・W・ブッシュ政権において指南役として活躍した。 |
| ブッシュはキッシンジャーとは定期的に会談の機会を設けており、政権外で最も信頼する外交アドバイザーであった。 |
| キッシンジャーはブッシュ政権下で行われているイラク戦争も基本的に支持していたボブ・ウッドワード(伏見威蕃訳)『ブッシュのホワイトハウス(下)』(日本経済新聞社、2007年)、248-256ページ。 |
| 同論文はイラン・北朝鮮などが核開発を試み、また国際テロリスト・グループによる核保有の可能性すら存在する現代において、核兵器に過去のような抑止効果は存在しないとして核兵器廃絶を米国が唱道すべきことを訴えており、注目を集めている |
| 2009年4月20日、岡山大学にて特別講演会を実施http://osaka.yomiuri.co.jp/university/topics/20090421-OYO8T00336.htm。 |
| この模様は後日岡山放送でも放映された。 |
家庭生活
| 高校時代、アン・フライシャー(AnnFleischer)と知り合い交際をしていたが、戦争の影響でしばらく疎遠となった。 |
| 結婚式はワシントンハイツにあるヘンリーのアパートで行われ、12名ほどが出席した。 |
| 一方のキッシンジャーは1974年、ハーバード時代の教え子でネルソン・ロックフェラーの秘書だったナンシー・シャロン・マギネス(NancySharonMaginnes、1933年生まれ)と再婚した。 |
| キッシンジャーは離婚から再婚までの間に少なからぬロマンスを報じられていたこともあり、この際UPI通信は、「浮名を流したヘンリー年貢を納める(SwingingHenryEndsHisDaysofBachelorhood)」と報じている。 |
逸話
| 歴代国務長官の肖像画を省内に飾る予定でキッシンジャーの肖像画をガードナー・コックスに依頼したが、背を低めに寸詰まりに描写されたと本人はいたく気に病み、描き直しの要請までしたが、コックスはそのままでいいと相手にしなかった。 |
| 国連難民高等弁務官事務所のテレビCMでは、ソ連から亡命したルドルフ・ヌレエフや、同じドイツからの亡命者のマレーネ・ディートリッヒとともに、身近にいる難民(亡命者)の例として紹介されている。 |
| テレビ東京の番組「日高義樹のワシントン・リポート」に年1回出演し、1月に放送されるのが恒例。 |
| 特に、1971年の周恩来との会談で日米安全保障条約に基づく在日米軍の駐留が日本の「軍国主義」回帰を抑えており、同盟関係を解消すれば日本は手に負えない行動を取り始めると警戒感を示した「瓶の蓋」論は有名である前掲『周恩来・キッシンジャー機密会談録』を参照。 |
| 冷戦後間もない時期の著書である『外交』でも将来日本が政治的に台頭するとの予測を示したキッシンジャー『外交(上)』(日本経済新聞社、1994年)、第1章を参照。 |
| 2008年1月の「日高義樹のワシントン・レポート」でも変わらず、「日本は10年後に強力な軍隊を保有しているだろう」と述べ、日本の憲法改正や核武装については「日本が決めることだ」と発言している。 |
| 愛人としてハリウッド女優のジル・セント・ジョン(IQ162、14歳飛び級でUCLAに入学)の名前が挙がったこともある。 |
単著
| 伊藤幸雄訳『回復された世界平和』(原書房,1976年/新装版,2009年)ナポレオン戦争によって破壊されたヨーロッパの秩序を再構築し、その後ほぼ一世紀にわたる安定を確保したオーストリア宰相メッテルニヒを中心に描いた力作。 |
| 田中武克・桃井真訳『核兵器と外交政策』(日本外政学会,1958年/抄訳版,森田隆光訳,駿河台出版社,1988年)。 |
| 斎藤彌三郎ほか訳『キッシンジャー秘録(1-5)』(小学館,1979-1980年)。 |
| 岡崎久彦監訳『外交(上・下)』(日本経済新聞社,1996年)ウェストファリア条約からソ連崩壊後の時代までの「外交」の歴史を書き記した著作。 |
| リシュリュー枢機卿やメッテルニヒ、ビスマルクなどの現実主義的外交を賞賛しつつも、アメリカの理想主義のもつエネルギーにもふれるなどその考察の深さが際だつ大著。 |
公刊史料
| 鈴木主税・浅岡政子訳『キッシンジャー<最高機密>会話録』(毎日新聞社,1999年)。 |
| 毛里和子・増田弘監訳『周恩来・キッシンジャー機密会談録』(岩波書店,2004年)。 |
対談本(日本語オリジナル)
| (池田大作)『「平和」と「人生」と「哲学」を語る』(潮出版社,1987年)。 |
| (日高義樹)『キッシンジャー・世界はこう動く』(日本放送出版協会,1991年)。 |
| (日高義樹)『キッシンジャー博士日本の21世紀を予言する』(集英社インターナショナル,2000年)。 |
参考・関連文献
| 高坂正堯・桃井真編『多極化時代の戦略(上・下)』(日本国際問題研究所,1973年)。 |
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ドイツ・ヴァイマル共和国のフュルトに生まれ... |
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