| 1939年5月、アメリカン・スクールを卒業した15歳のベアテは、ソルボンヌ大学を志望したが、当時フランスとドイツが開戦直前の情勢だったため、両親はカリフォルニア州サンフランシスコ近郊オークランドの全寮制の女子大学ミルズ・カレッジ(MillsCollege)へ留学させることを決める。 |
| 旅客機ではなく海路(船)により移動していた当時、カリフォルニアは比較的日本に近い女子大でもあり、16歳の女の子には安全だろうと判断したからであった。 |
| 米国行きにあたってビザ取得の必要があったが、当時すでにオーストリアのウィーンはナチに占領され、ビザ取得のための証明書入手が不可能となっていたため、父レオは、シロタ家近くに住んでいた顔なじみの広田弘毅(元総理大臣・元外務大臣)に頼る。 |
| 広田弘毅が米国大使に電話で直談判することで、米国大使館の了承を得てビザを取得した。 |
| 留学前に父母とともに北京、上海などを中心に三週間の中国旅行に出かけ、ベアテは日本と中国の違いを知る。 |
| 父母同伴で渡米し、サンフランシスコに着いたベアテは、とんぼ返りで日本に戻る父母を見送った後、ミルズ・カレッジに入学。 |
| 専攻は文学とし、フランス語の研究会や演劇部に所属。 |
| 勤労女性は貧困階級であることが常識だった当時の米国で、ミルズ・カレッジの学長オーレリア・ヘンリー・ラインハート(AureliaHenryReinhardt)は、女性の社会への進出と自立を唱える、いわゆる進歩的なフェミニスト女性だった。 |
| 大学では、卒業後には就職することを前提としたカリキュラムが組まれ、学長はまた、女子学生に対し職業を持ち政治に参加する必要性を説いていた。 |
| 女性の権利と女性差別の現実を学んだベアテは、大学時代にフェミニストとしての自覚を持つ。 |
| フランス語の研究会主催パーティでベアテはナポレオン時代の宮廷パーティを模した仮装パーティのディレクターを務め、後にディレクターとして活躍する演出の基礎を学ぶ。 |
| 留学中ベアテは、自分が「愛国者の日本人」となっていることに気付く。 |
| 日本から来たことを知った学友は日本のことを尋ねるが、そのほとんどは日本についてのあまりの無知、無理解な質問ばかりで、無神経な発言をしてはばからない態度だったため、そのたびに苛立たしい思いに駆られては両親の住む日本への郷愁を抱き、「自分が半分以上日本人」となっていることに気づいたからであった。 |
| 翌1940年の5月、学年末の試験後二ヵ月間のバカンスで、日本に帰国し、両親と一緒に軽井沢の別荘で過ごす。 |
| このときの思いを「まさに自分の国への“帰国”だった」と述懐している(『1945年のクリスマス』)。 |
| ベアテにとって米国留学はカルチャーショックの経験であった。 |
| 1941年夏、渡米した両親と過ごす。 |
| 日米間の緊張の激化を心配した米国の友人たちの忠告から、母オーギュスティーヌは「このままアメリカに残ろう」と主張。 |
| しかし、これまで家族の主張に反発したことがなかった父レオが、この時に限って東京音楽学校に対する契約履行義務を盾に「私を待っている生徒たちがいるのだから戻らないといけない」と反論し、両親は一ヶ月の滞在の後、9月になって日本に向かう船に乗ってしまった。 |
| 帰国途上のホノルルで、米国政府は日本入国許可を渋ったため、両親はホノルルに足止めされた。 |
| 父はハワイ各地で演奏会を開いてしのいだ。 |
| 米国政府の許可が11月に下り、11月末に両親は日本に帰国した。 |
| 両親が乗った船は、日米開戦前の日本行きの最後の便だった。 |
| 帰国10日後に日本軍は真珠湾攻撃を敢行。 |
| 両親の住む日本と、ベアテの住む米国の開戦(いわゆる太平洋戦争)により、これ以後戦争終結までの期間、両親との連絡が途絶えることとなった。 |
| ベアテは、親からの仕送りがなくなったためサンフランシスコの「CBSリスニング・ポスト(CBSListeningPost)」で、日本からの短波放送の内容を英語に翻訳するアルバイトをして経済的自立を果たす。 |
| この仕事を通じ、ベアテはそれまで日本語の知識として身につけていなかった文語体と敬語を学び、同時に当時日本からの報道で頻出していた軍事用語を習得。 |
| 米国に滞在していた父の弟子から譲り受けた露日辞典を用い、英語からロシア語に訳した軍事用語を、日本語に翻訳するという作業で軍事用語に馴染むという方法を用いた。 |
| 日系二世でも聞き取れない用語を聞き取ることができたため、上司の信頼を得、週給も上がった。 |
| 戦争のおかげで自活力をつけ、アルバイトで生活を支えながら大学生活を継続。 |
| この間、父からの言いつけ「ピアノだけは毎日弾きなさい」に背き、ピアノは弾かず、好きなダンス、映画、コンサートにも出かけることなく、学業とアルバイトだけの生活を送る。 |
| まもなくアルバイト先の会社が、米国連邦通信委員会(FCC:FederalCommunicationsCommission)の外国放送サービス部(ForeignBroadcastInformationService)に改組となり、合衆国政府の管轄下に置かれる。 |
| ベアテは、このFCCの仕事を通じて日本からの情報を凝視し、両親の消息を探った。 |
| FCCが入手する情報から、両親が無事であることや、父が東京音楽学校を罷免された、などの情報を得た。 |
| 卒業年を迎えたベアテはミルズ・カレッジを最優秀(PhiBetaKappaSociety)の成績で卒業。 |
| 卒業後、FCCから戦争情報局(USOWI:USOfficeofWarInformation)に転職、対日プロパガンダ放送(日本人に降伏を呼びかける放送)の番組台本原稿作成の仕事に従事。 |
| 二年足らずのUSOWI勤務の後、退職し、1945年3月に住み慣れたサンフランシスコから叔母(母の妹)の住むニューヨークへ転居。 |
| ニューヨークで得た職はタイム誌(Time)のリサーチャー(editorialresearcher-記事の素材調査員)であった。 |
| 当時のタイム誌では、記者は全て男性で、記者として女性は採用せずリサーチャーは全員女性、給与も女性の方が低い。 |
| 記事に誤りがあれば、記者(男性)の責任は問われず、リサーチャー(女性)が責任を問われて減俸の対象となった。 |
| 「自由」と「民主主義」の先進国だったはずの米国で、女性を差別(性別による職業差別)する現実に直面し、ベアテは渡米以来、初めての屈辱と挫折感を味わう。 |
| とはいえ、タイム誌はリサーチャーとしての訓練を施したため、後の日本国憲法起草の際、ここで培った能力が生きることとなる。 |
| 軽井沢の別荘旧有島武郎別荘「浄月庵」。 |
| 一週間後の8月6日、米国は広島市に原爆を投下。 |
| 出頭しなかったが、憲兵は現われず、翌日も翌々日も連絡がなく、やがて1945年8月15日、ポツダム宣言を受諾した日本が無条件降伏で敗戦を迎えたため、両親は官憲の追及を免れた。 |
| 10月24日、日本から返事のテレックスが到着し、特派員の通訳が両親の無事を現認したとの報せを受け、ベアテは日本に帰国できる職を探す。 |
| 当時の米国には、日本語を話せる白人は60人ほどしかおらず、FCC、USOWI、タイム誌での経歴と、6ヶ国語の言語能力(大学ではスペイン語を履修した)を買われ、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の民間人要員(リサーチャー・調査専門官)として採用されて、空路で日本に帰国。 |
| 12月24日に焦土となった故国・日本の厚木飛行場(当時の神奈川県綾瀬町、大和町)に降り立つ。 |
| 千代田区有楽町、いわゆる皇居濠端(ほりばた)の第一生命ビル(旧日本軍東部軍管区司令部)6階の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)民政局(GS:GovernmentSection)に赴任したベアテは、赴任の初日(12月25日)、三日間の休暇を申請、両親の安否確認と世話をしたい、とその事情を説明、これを聞いた上司から二つ返事の承諾を得て、休暇を取る。 |
| 両親を探して奔走したが、父レオがNHKでピアノを弾いたのを聴いた人が現われ、問い合わせた結果、軽井沢に帰ったと知らされ、電報を打つ。 |
| ベアテは原宿の知人宅を借り、休暇の三日目には戦時中苦しい生活を強いられていた両親を東京に引き取った。 |