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プロフィール
- ベニート・ムッソリーニとは
- 概要
- 少年時代
- 青年時代
- 第一次世界大戦
- 国家ファシスタ党の形成とローマ進軍
- 独裁体制
- 経済政策
- 軍事政策
- ドイツとの関係
- 宗教政策
- 人種政策
- 第二次世界大戦参戦と失脚
- グラン・サッソ襲撃とイタリア社会共和国
- 家族
- 関連サイト
ベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニ(、1883年7月29日-1945年4月28日)はイタリア王国の政治家、第40代イタリア王国首相。イタリア社会党で活躍したのち追放され、ファシズム理論を独自に構築し、一党独裁制に基づいた統治を実践した。
概要
| ローマ進軍によるクーデターを経て、ファシスト政権を樹立。 |
| 1925年12月24日に独裁体制を確立、政府権限を集中させた統帥職を新たに創設し、自ら初代統帥として専制的な統治を行った。 |
| 1936年にエチオピア帝国征服によりサヴォイア家が帝位を兼ねる様になると、統帥職に加えて「帝国の創設者」「ファシストの指導者」という肩書きが加えられたImageDescription:PropagandaposterofBenitoMussolini,withcaption"HisExcellencyBenitoMussolini,HeadofGovernment,LeaderofFascism,andFounderoftheEmpire...".。 |
| 議会の指導下にあった軍の掌握にも努め、国王・皇帝ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世との共同就任という形で統帥権(第一元帥)を奪取した。 |
| 第二次世界大戦前後から政権の弱体化が進み、連合軍によるシチリア占領を経て、1943年7月25日のファシスト党内でのクーデターによって失脚。 |
| その後も、北イタリアを掌握したナチス・ドイツの支援によってイタリア社会共和国を建国し、国家統帥兼外務大臣として復権を果たすが、枢軸軍の完全な敗戦に伴い再び失脚し、1945年4月25日に連合軍に援助された共産パルチザンに捕らえられ銃殺され、遺体は吊るされた。 |
| ムッソリーニは政治思想の一潮流であるファシズムの創始者という点において、政治理論家としても重要である。 |
| ムッソリーニは既存の様々な思想(国家主義、コーポラティズム、国家サンディカリスム、帝国主義、反共主義)を理論的に結合し、新しい政治思想としてファシズムを構築した。 |
| 政治家としての主な業績はまず政権初期の1924年から1939年まで行われた経済政策が挙げられる。 |
| この政策はラツィオ州の湿地帯(:en:PontineMarshes)の開拓に代表される公共投資や労働者保護、公共交通機関の統制など多岐に亘った。 |
| 宗教政策では普仏戦争以来の教皇領問題に解決案を提示して、ラテラノ条約の締結によるローマ・カトリックとの和解に成功した。 |
| 対外政策では植民地、及び経済植民地への影響力強化を推進して海外市場の拡張に努めた。 |
| 零落の切っ掛けは第二次世界大戦に対する判断であった。 |
| 当初、第一次世界大戦の様な塹壕戦による泥沼化を予想して、中立的な態度を維持していた。 |
| だが一ヶ月間という短期間でフランスが降伏に追い込まれる様子から、準備不足の中で世界大戦への参加を決断した。 |
少年時代
| ベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニは1883年7月29日、イタリアのフォルリ近郊のプレダッピオという小村に、鍛冶屋アレッサンドロ・ムッソリーニと教師ローザ・マルトーニの長男として生まれたMediterraneanFascism1919-1945EditedbyCharlesF.Delzel,HarperRowe1970,page3。 |
| 父アレッサンドロは熱心な社会主義者でMediterraneanFascism1919-1945EditedbyCharlesF.Delzel,HarperRowe1970,page3、息子にメキシコ合衆国の初代大統領で独立の英雄のベニート・フアレスにちなんでベニート、親しい間柄にして尊敬する国際主義的な革命家であったアミルカレ・チプリアニにちなんでアミルカレ、ミハイル・バクーニンの腹心でもあり、後にイタリア社会党に参加するアンドレア・コスタにちなみアンドレアと名付けたLivingHistory2;Chapter2:''ItalyunderFascism''-ISBN1-84536-028-1。 |
| 三人兄弟の長兄として二人の弟がおり、アルナルド・ムッソリーニとエドヴィージェ・ムッソリーニという名であったという。 |
| 父は社会主義と無政府主義と共和主義が入り混じった独特な思想を持っていたGregor,AnthonyJames.''YoungMussoliniandtheintellectualoriginsoffascism''.BerkeleyandLosAngeles,California,USA;London,England,UK:UniversityofCaliforniaPress,1979.Pp.31.。 |
| 幼い時は父の助手として鍛冶仕事を手伝う生活を送ったこともあって、ムッソリーニは父から強い影響を受けて社会主義とジュゼッペ・マッツィーニやガリバルディら愛国主義的な共和主義に傾倒したGregor,AnthonyJames.''YoungMussoliniandtheintellectualoriginsoffascism''.BerkeleyandLosAngeles,California,USA;London,England,UK:UniversityofCaliforniaPress,1979.Pp.29。 |
| 後にムッソリーニは王政打倒とイタリア統一の両立を目指したガリバルディ達を賞賛する発言を残している。 |
| 父は鍛冶屋を継がせるつもりだったが、母の意向からプレダッピオにあった二年制の義務教育学校のあと、ファエンツァにあるサレジオ会の寄宿学校に進学。 |
| この学校では、学費の大小によって生徒の待遇が異なり、ムッソリーニは「社会の不公平さ」を実感し、貴族や教会を憎んだという。 |
| 学業成績は優秀だったものの、教師に石を投げつけ、喧嘩相手をナイフで刺し、ミサを妨害するなど暴力事件を引き起こす問題児であった。 |
| 五年生の時に退学処分を受ける当初、修道会は小学四年生から五年生への進級は認めず退学処分を決定するが、母ローザの懇願と学年が終わりに近いことから、「五年生への進級は認めるが来年度以降の当校への入学を認めない」とした。 |
| その後エミーリア街道沿いの小都市フォルリンポポリにあった宗教色のない寄宿学校ジョズエ・カルドゥッチ学校に入学、義務教育を終了している。 |
| カルドゥッチはノーベル文学賞を受賞したイタリアを代表する詩人で、この学校は彼の弟のヴァルフレード・カルドゥッチが校長であった。 |
| 成績は優秀で、同じヴァルフレード・カルドゥッチが校長をしていたフォルリンポポリの師範学校へ進んだ。 |
青年時代
| 1901年に師範学校を優等な成績で卒業、政府より教員免状を付与される。 |
| イタリア最大の川であるポー川のほとりにあるグァルティエリという町の小学校教師の職に就くが、狭い地方に閉じこもるのに嫌気が差して退職し、スイスに出る。 |
| スイスでは石切職人や左官屋として働いたが、一時は浮浪者にもなった。 |
| スイス時代の不安定な生活のなか、ジョルジュ・ソレルやシャルル・ペギー、ヴィルフレド・パレート、フリードリヒ・ニーチェ、ルナン、ル・ボンらの思想を学び、政治への関心を高めていったMediterraneanFascismbyCharlesF.Delzelpage96。 |
| 特にソレルの思想には多大な影響を受け、後に「ファシズムの精神的指導者」とまで賞賛している。 |
| またスイスに亡命していたウラジーミル・レーニンやレーニンの秘書アンジェリカ・バラバーノフらと出会い、親交を深めたローラ・フェルミ(エンリコ・フェルミの妻)『ムッソリーニ』柴田敏夫訳、紀伊国屋書店青年時代のムッソリーニを描いたバラバーノフの著書が引用されている。 |
| レーニンからドイツ語やフランス語を学んだ(のちにレーニンはベニートを「イタリアで唯一革命を指導できる人物」と賞賛し、後年のムッソリーニもレーニンを「優れたオーケストラの指揮者」と高く評価した)。 |
| ムッソリーニは本格的に政治運動へのめり込み、スイスのイタリア語圏で労働運動に加わった。 |
| 1903年に起きた大規模なゼネストに参加してスイス警察にマークされ、1904年、ローザンヌ市滞在中に書類偽造の容疑で拘束、国外追放処分を受ける。 |
| 帰国後、イタリア軍の選抜部隊である狙撃隊(ベルサリェーリ)に入隊した。 |
| 軍では当初、反体制派の人物として監視されていたが、間もなく模範兵として評価されるようになる。 |
| 入隊間もない1905年2月17日に、母ローザは危篤状態となり、彼は急遽プレダッピオに戻ったが二日後の19日に亡くなった。 |
| 兵役の間、ドイツロマン主義、ドイツ観念論、ベルグソン、スピノザを研究。 |
| 1906年9月、除隊し、オーストリアとの国境に近い東北部の小さな町トルメッツォで小学校に復職。 |
| フランス語検定試験に合格し、その結果、高等学校教諭の資格を獲得。 |
| この頃、イタリア社会党に正式に入党。 |
| 1908年2月、ドイツ語を話せた事からオーストリア領トレントの党支部に派遣され、機関紙『労働者の未来』の編集に参加する。 |
| ドイツ文化への傾倒は深く、政治議題だけではなく近代ドイツ文学についての論文などを執筆。 |
| 1910年にミラノ市の党本部に戻って『LaLottadiClasse(階級の闘争)』の編集に関わった後、1911年-1912年のイタリア・トルコ戦争に対する帝国主義批判・反政府運動で頭角を現しMediterraneanFascism1919-1945EditedbyCharlesF.Delzel,HarperRowe1970,bottomofpage3、危険人物として逮捕され半年間、投獄される。 |
| その後も改良主義者の排除が認められて、党中央の日刊紙『アヴァンティ!(前進!)』編集長となりMediterraneanFascism1919-1945EditedbyCharlesF.Delzel,HarperRowe1970,page4、発行部数を2万部から10万部にまで伸ばしたMediterraneanFascism1919-1945EditedbyCharlesF.Delzel,HarperRowe1970,page4。 |
| この時期から既に地域の新聞などで「ドゥーチェ」(指導者)の渾名で呼ばれるなど、若手政治家の筆頭と見なされていた。 |
| 同じ時期に、「ベロー・エレティコ」(真実の異端者)の筆名でフス派の預言者ヤン・フスを「殉教者」とし、その遺志を継いだフス軍の十字軍への勝利を賞賛する伝記小説を発行、痛烈にカトリック教会を攻撃した。 |
| ムッソリーニは「我々共通の永遠の教師」としてカール・マルクスの思想に心酔しており、「危機の時代にあっては、中間的諸階級はその利益と思想にもとづいて、基本的階級のどちらか一方に引きつけられる」(1914年)と階級闘争を肯定する主張をしていた。 |
| だが次第にムッソリーニの階級論は「階級の破壊」から「民族的な団結が社会に階層を越えた繁栄を齎す」と考えるようになり、民族主義的な社会主義へとその思想が変化し始める。 |
第一次世界大戦
| ムッソリーニは戦争がイタリア人の民族意識を高めると考え、第一次世界大戦が勃発すると当初は党の方針に従って中立論を支持したものの、やがて戦争への参戦を強く主張するようになった。 |
| その流れでイタリアへの参戦工作を行っていたフランス・イギリス政府の資金援助を受け、独自に日刊紙『ポポロ=ディタリア』を発行して協商国側への参戦熱を高めるキャンペーンを展開した。 |
| 社会党は除名処分を行う。 |
| ムッソリーニを除名した社会党に対しレーニンは「あの男を追放するなんて、君らはバカだ」と呟いたというMediterraneanFascismbyCharlesF.Delzel。 |
| ムッソリーニは除名後も、自身の基本的な政治的立場は左翼であるという立場を維持し、「革命的参戦運動ファッショ」「国際主義参戦ファッショ」という名を冠した組織で参戦運動を展開(ファッショという言葉は社会主義者時代にも団結の意味で使っていた)。 |
| これが戦後の「戦闘者ファッショ」の土台となる。 |
| イタリアが秘密協定によって参戦を宣言すると、ムッソリーニも他の参戦論者達の例に習い志願兵として従軍、みずから望んで最前線に配属され、勇敢な戦いぶりで軍曹にまで昇進したが、手榴弾の爆発に巻き込まれ重傷を負いムッソリーニはこの怪我の後遺症に一生悩まされる事になった、戦場を離れた。 |
国家ファシスタ党の形成とローマ進軍
| 200px|right|thumb|進軍するファシスト党員。 |
| 大戦後のイタリア国内の混乱と社会主義運動の高揚に危機感を抱き、イギリスから権力掌握のための財政支援を受け{{citenews。 |
| }}、復員軍人や旧参戦論者を結集し、1919年3月23日、ミラノで「戦闘者ファッショ」を組織し社会党や共産党と対立し武力をともなった衝突を繰り返した。 |
| 1920年9月の革命勢力の退潮に乗じたムッソリーニは「黒シャツ隊」と呼ばれる行動隊を駆使して勢力を伸ばし、1921年までにイタリア北部および中部で勢力を拡大し組織は25万人の規模となり出馬。 |
| 1921年11月のローマ大会で国家ファシスタ党にファッショを改組して統領に就任。 |
| 1922年10月27日夜にはファシスト武装隊によるクーデター(ローマ進軍)を実行。 |
| 政府は翌28日朝、戒厳令の布告を決定、ルイージ・ファクタ首相は国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の署名を求めが、国王は、署名を拒否し、翌29日、国王はムッソリーニに組閣を命じた。 |
| 以後イタリア王国は1943年までの約20年にわたるファシスト政権時代に入る。 |
| スペインでは失敗した「ファシストによる立憲君主制維持」は、イタリアでは成功したのである。 |
| 翌年、アドルフ・ヒトラーがこれを参考にしてミュンヘン一揆を起こす。 |
独裁体制
| 1923年の選挙法改正で、「選挙で25%以上の得票率を得た第一党が議会の議席の3分の2を獲得する」として権力を集中し強化。 |
| 1925年には労働組合の解散・言論出版取締令を制定。 |
経済政策
| 初期にはアルベルト・デ・ステファニに経済政策が任され、民間企業を国有化することなく、一時過剰であったストライキが衰退し、景気は回復し失業者も減少し、生産力も増した(但し、インフレーションが同時にあった)。 |
| 所有形態を維持しながら一連の成果を挙げたため、イギリスやアメリカなどの民主主義国家の指導者や評論家の中にも「ムッソリーニこそ新しい時代の理想の指導者」と称える動きがあり、辛口な論評で知られたウィンストン・チャーチルも「偉大な指導者の一人」と高く評価していた。 |
| しかし、1929年の世界恐慌の影響で失業者が100万人以上に膨れ上がり、次第に財政支出を増やし始め、第二次世界大戦が開戦する1939年までイタリアはソビエト連邦の次に国有企業が最も多い国となったPatriciaKnight,''MussoliniandFascism'',Routledge(UK),ISBN0-415-27921-6,p.65。 |
軍事政策
| 軍備の拡張が大いに進められ、空中艦隊構想や新型戦艦や空母の建造など海軍力の強化、著しく旧式化していた陸軍装備を更新した。 |
| 工業の北部と農業の南部という概念は戦後復興後の事である、経済政策に失敗したムッソリーニにその根本的解決は不可能だった。 |
| イタリア軍は装備の旧式化や兵員・物資の不足に加え、人材面でも将軍・参謀の大部分が第一次世界大戦の戦訓を奉じる「古典主義者」と質が悪く、その事実は第二次世界大戦序盤の諸戦闘で示された。 |
| エジプト侵攻やギリシャ侵攻では圧倒的多数の兵力にもかかわらずイギリス軍やギリシャ軍に撃退され、ドイツが増援部隊を派遣しているドイツ軍に関する詳細はドイツアフリカ軍団、ユーゴスラビア侵攻を参照。 |
ドイツとの関係
| 後に盟友となるナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーとの関係で、指導者となってまだ間もないヒトラーと会見した際に「血の巡りが悪い男だ」「あんな奴は嫌いだ」と述懐していることで明らかなように、両者は最初は決して友好的とはいえなかった。 |
| 1934年7月25日のドルフース首相暗殺事件を契機とするドイツのオーストリア併合危機の高まりに対して、ムッソリーニは友人であったドルフースの暗殺に激怒、ブレンナー峠に王国軍を展開して併合に反対意志を示している。 |
宗教政策
| 1870年のイタリア王国成立後、イタリア政府とローマ教皇庁の関係は断絶していたが、長く続いた緊張関係を改善することで自らの国際的地位を高めることを狙ったムッソリーニは、1926年にバチカンに歩み寄る姿勢を示した。 |
| イタリア政府はローマ教皇庁に対し、対外的に永世中立であることとイタリア国内の政党間の争いにおいて特定の政党に与しないことを求めたほか、1870年の教皇領の没収への補償として教皇庁への資金調達を行い、教皇庁はこれを承諾し、長きに渡る両者の関係はここに修復に至った。 |
人種政策
| right|thumb|200px|ヒトラーと共に。 |
| right|thumb|200px|ミュンヘン会談においてイギリスのネヴィル・チェンバレン首相と談笑するムッソリーニ。 |
| right|thumb|200px|列車から降りるムッソリーニを迎えるヒトラー。 |
| ドルフスの暗殺以降、ムッソリーニはナチズムとファシズムの政治的志向の違いを意図的に明確化させるべく、人種政策(特にノルディック・イデオロギーとアーリアン学説)の多くを拒絶し、反ユダヤ主義からも距離を取り始めた。 |
| 彼は人種主義よりも民族主義に重きを置き、民族浄化(イタリア化)による植民地や新規領土の同化を推進した。 |
第二次世界大戦参戦と失脚
| ドイツによる侵攻を受けたフランスの敗北が決定的になった1940年6月10日、イタリアはイギリス、フランスと開戦、同年9月27日に日独伊三国同盟を調印してドイツ・日本との密接な関係を確認した。 |
グラン・サッソ襲撃とイタリア社会共和国
| その後アペニン山脈の「グラン・サッソホテル」に幽閉されたムッソリーニは、9月12日にナチス親衛隊のオットー・スコルツェニー中佐に救出されローマへと連れ出され、その後ヴォルフスシャンツェでヒトラーと落ち合う。 |
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1883年
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イタリアのフォルリ近郊のプレダッピオという... |
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1901年
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師範学校を優等な成績で卒業、政府より教員免... |
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