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プロフィール
- ベンヤミン・ネタニヤフとは
- 家族および個人の背景
- 政界入り
- 首相職
- 2000年以降の政治活動
- リクード党首に再登板
- 復権・首相再登板へ
- 首相職(第2次)
- ガザ支援船拿捕
- マスコミによる批判
- 民衆による批判
- 関連サイト
ベンヤミン・ネタニヤフ(בנימיןנתניהו,BenjaminNetanyahu,またはBinyamin,ネタニヤウ、若しくはナタニヤウの方がより原音に近い、1949年10月21日-)は、イスラエルの政治家。現在、同国首相(13・17代)。 外相(17代)、 財務相(18・20・24代)を歴任。2005年12月より右派政党リクードの党首に再登板。イスラエル建国後に生まれた最初の首相経験者である。尊敬する政治家は、同党の創設者・メナヘム・ベギン 元首相と英国の マーガレット・サッチャー元首相である。また、急進的な新自由主義者でも ...
家族および個人の背景
| ベンヤミン・ネタニヤフはベン=シオン・ネタニヤフとジラ・ネタニヤフ夫妻の次男として生まれた。 |
| 父親のベン=シオンはロシア姓をミリコフスキー(Milikowsky)というリトアニア出のユダヤ人で、ユダヤ史の教授およびヘブライ・エンサイクロペディアの編集者であった。 |
| 彼の兄ヨナタン・ネタニヤフは1976年のエンテベ空港奇襲作戦で戦死したイスラエルの英雄。 |
| 弟のイド・ネタニヤフは放射線技師および作家。 |
| 兄弟は三人ともイスラエル国防軍のエリート部隊、「サイェレット・マトカル」に所属した。 |
| ネタニヤフの最終的な階級は大尉。 |
| ネタニヤフはアメリカ合衆国のペンシルベニア州フィラデルフィアの郊外で成長し、チェルテナム高校を卒業した。 |
| 彼はマサチューセッツ工科大学の理工学位とMITスローン経営大学院の学位を持ち、ハーバード大学とMITで政治学を学んだ。 |
| ネタニヤフは三度結婚しており、最初の結婚で娘のノアをもうけた。 |
| 現在は、客室乗務員だった三番目の妻サラと共に暮らし、ヤイール、アヴナー |
| の2人の息子がいる。 |
| ヤイールは現在、軍務に就いている |
政界入り
| イスラエル国防軍退役後は、ボストン・コンサルティング・グループなどで勤務した後、帰国。 |
| 政治の世界に身を投じたきっかけは、後に国防相、外相をつとめることになる政界の大御所・モーシェ・アレンスの勧めによるものである。 |
| 1982年には、当時駐米大使をつとめていたアレンスの下で勤務。 |
| 1984年から1988年までは、同国の国連大使を務める。 |
| 同年にはリクードから総選挙に出馬し国会議員に初当選を果たす。 |
| イツハーク・シャミール政権下で外務次官をつとめ、1991年、サッダーム・フセイン体制下にあった当時のイラク軍のクウェート侵攻に端を発する湾岸戦争の際、外務次官という立場でありながら事実上のスポークスマンとして自国の大義を力説。 |
| それも、米国人と寸分違わぬ英語での話術は脚光を浴び、政界のホープとして嘱望され始める。 |
| 転機となったのは、翌・1992年の総選挙である。 |
| カリスマ的な人気を誇ったイツハーク・ラビン率いる労働党の前に、シャミール政権は大敗し野に下る。 |
| 大敗したリクードの再建の為、ネタニヤフは同年の党首選に出馬、当選2回でありながら、ベニー・ベギンやダビッド・レビ、モーシェ・カッツァーブを破り、政権奪回に必勝を期すこととなった。 |
首相職
| ネタニヤフはパレスティナ過激派のイスラエル民間人に対する自爆テロが多発した1996年7月に首相に選出された。 |
| シモン・ペレスはパレスティナ過激派のテロ攻撃を鎮めることができず、公の信頼は急速に低下していた。 |
| 1996年3月3日、4日にパレスティナのテロリストは二度の自爆テロを行い、32人のイスラエル市民が死亡した。 |
| この攻撃がきっかけとなり、ペレスはテロリズムに対する無策が批判され結局選挙で敗北することとなる。 |
| ペレスと異なりネタニヤフはヤーセル・アラファートの好意を信頼せず、和平プロセスはパレスチナ自治政府の義務であるとし、テロリズムに対する断固たる姿勢を示した。 |
| 彼のスローガンは「ネタニヤフ-安全な平和を作る。 |
| 首相として彼はヤーセル・アラファートと交渉し、ワイ合意を成立させた。 |
| しかし多数の者がネタニヤフはパレスティナ自治政府との合意を遅らせようとしていると非難した。 |
| ネタニヤフの和平交渉へのアプローチは一般的な物であった。 |
| "彼らが与えるならば-彼らは得ることができる。 |
| 彼らが与えない場合-彼らの得る物は無い。 |
| "יתנו-יקבלו.לאיתנו-לאיקבלו"。 |
| このアプローチはうまくいくように思われた。 |
| 前任者ペレスや後任者バラクと異なり、ネタニヤフの在任期間はパレスチナの自爆テロは少なく比較的平静であった。 |
| 1996年にネタニヤフとエルサレム市長エフード・オルメルトは嘆きの壁のトンネルに出口を開くことを決定した。 |
| この決定はパレスチナ人による三日間の暴動の口火となり、十数人のイスラエル人と百人以上のパレスティナ人が死亡した。 |
| 対テロリズム政策の成功にもかかわらず、ネタニヤフは多くのエリートに嫌われ、メディアからは左翼と同一視された。 |
| 一連のスキャンダル(彼の妻のゴシップを含む、97年には当時最側近だったツァヒ・ハネグビ法相に贈収賄疑惑が浮上するものの、最高検は嫌疑不十分で立件を断念している)と汚職に関する調査の後、ネタニヤフはイスラエルの大衆の支持を失った。 |
| 1999年の総選挙でエフード・バラックに敗北した後、ネタニヤフは、一時的に政治から身を引いた。 |
2000年以降の政治活動
| 汚職事件から身をかわすため、ネタニヤフは政治の世界から一時身を引き、議員の職も同時に辞していたが、2000年9月27日、イスラエル最高検が、ネタニヤフ夫妻の立件を証拠不十分で断念する。 |
| これを受けネタニヤフは、既に死に体となっていたバラク政権倒閣・復権に乗り出そうとするが、既にリクード党首の地位にあったアリエル・シャロンの方が役者が一枚上手で、翌日9月28日神殿の丘訪問でリクードの末端党員・右派陣営の心を完全に掌握してしまう。 |
| 進退窮まったバラクは首相職を辞任・再選挙に打って出るが、議員の職にないネタニヤフは出馬を封じられ、選挙はシャロンの圧倒的勝利に終わる。 |
| その後、首相のイスをつかんだシャロンとネタニヤフの関係は抜き差しならない状態となり、2002年5月にネタニヤフの傘下にあるリクード・中央委員会がパレスチナ国家反対決議を行うと、両者の溝は決定的になる。 |
| 2002年10月イスラエル労働党が政権を離脱、解散・総選挙の実施が決まり、リクード党首選が前倒しとなると、持論である「アラファト議長追放」「パレスチナ国家断固反対」掲げ、シャロンと激突する。 |
| 2002年11月の党首選でシャロンがネタニヤフに圧勝すると、対立劇はいったん収束する。 |
| 2003年1月の総選挙でリクードが勝利すると、ネタニヤフは外相から財務相に降格される。 |
| 2004年2月、シャロンがガザからの全面撤退を掲げた一方的婚約解消計画を発表すると、両者の対立が再燃する。 |
| シャロンは末端党員の支持を受けた上で計画の実現を画策するが、2004年5月に行われたリクードの党員投票では20ポイントもの差をつけられ撤退計画は拒否される。 |
| ネタニヤフは当然反対の意を示し、シャロンの腹心だったリモール・リブナット教育相もこれを境にシャロンから離反してしまう。 |
| 撤退計画は、シャロンとネタニヤフの権力闘争という意味合いだけではなく、党内の強硬派と穏健派の対立、党是であった大イスラエル主義の是非と言った、古くて新しい問題を顕在化させてしまったのである。 |
| 党員投票で敗れたシャロンは、これを機にリクードへの不信感を募らせ、このことが翌年の集団離党・カディーマ結党へつながっていくのである。 |
| 一方的婚約解消計画は党員投票では否決されたものの、2004年10月、労働党の支持を得て国会で何とか通過させる。 |
| 2005年8月7日、撤退計画の最終閣議決定の直前に、ネタニヤフは「ガザをテロリストの前線基地にする愚挙」として財務相を抗議の辞任、8月30日には本格的に倒閣運動に乗り出す。 |
| しかしこれも、同年11月21日にシャロンらが集団離党する形で計画は頓挫する。 |
| ネタニヤフの決断が遅すぎたことと、シャロン以上に右寄りの政策(倒閣運動の翌日には、マアレ・アドゥミームを訪問し、入植地拡大を明言している)を打ち出さなければならなかったことも、彼には不利に働いた。 |
| 大蔵大臣として、ネタニヤフはアル・アクサ・インティファーダの間にイスラエル経済回復のため大胆な計画経済を試みた。 |
| それは多数の論争の的となったが、計画はより多くの自由主義市場への動きを含んでいた。 |
リクード党首に再登板
| 2005年11月、シャロンやオルメルトが集団離党し、カディーマの結成に動くと、不在になった党首の座をめぐり、党首選が前倒しとなる。 |
| しかし、シャロンらの離党・カディーマの結成で中道票をこぞって奪われ、自身が掲げるサッチャー流の経済政策は、格差拡大を助長させると集中砲火を浴びる。 |
| リクードの分裂は、党の弱体化を招いたものの、ネタニヤフの側近や党内強硬派は力を温存する純化路線を一方でもたらした。 |
| ただ、選挙後の支持率は挽回傾向にあり、2006年8月に行われた世論調査ではオルメルト首相を抑え、次期首相候補のトップに立った。 |
| これは、オルメルト政権によるレバノン侵攻の失敗と、そのレバノン侵攻の際、ネタニヤフは一切政局にすることなく黙々と政権支持を貫いたこと。 |
| 婚約解消計画の際のシャロンへの執拗な糾弾がたびたび非難を浴びていたため、ネタニヤフもそれを意識していたものと思われる。 |
| 2007年1月に地元紙が行った世論調査によるとネタニヤフが率いるリクードは現在選挙が行われれば、29議席を獲得し、第1党になるとの結果が出た。 |
| 一方のオルメルト首相のカディーマはわずか12議席との予測が出ており、現在はリクードが12,カディーマが29の議席をそれぞれ得ているので、オルメルト政権は発足後1年もたたないうちに逆転を許したことになる。 |
| 2007年11月の世論調査でもリクードの支持は落ちていない。 |
| また、ここ数年脅威が高まるイランの核武装については、極めて強硬な立場で、メナヘム・ベギン元首相が1981年にイラクのオシラク原子炉爆撃を断行したバビロン作戦を引き合いに出し、イスファハーンなど核関連施設への先制攻撃も辞さない考えを示している。 |
| 中東和平については、オルメルト政権が主張するヨルダン川西岸入植地解体、シリアとの和平交渉及びそれに伴うゴラン高原返還、エルサレム東西分割案に、いずれも「イスラエルを危険に晒す」として反対の姿勢を貫いている。 |
| 2007年8月14日に行われたリクードの前倒し党首選で、73%の得票で再選される。 |
| 2007年9月19日地元テレビのインタビューで同月6日のイスラエル空軍によるシリアへの限定空爆を暴露。 |
| 空爆施設は、シリアが北朝鮮の協力の下、核開発を進めていた疑いがもたれている。 |
| 2008年1月10日、イスラエルを訪問したジョージ・ブッシュ大統領会談し、イランの軍事的脅威に対する意見交換を行った。 |
復権・首相再登板へ
| 2009年2月10日に実施された、総選挙ではカディーマに第1党を譲ったものの、73万票弱を獲得、12議席から27議席へと大きく勢力を倍増させた。 |
| 同選挙では、従来からの主張であるイランの核武装阻止、ガザ紛争後もハマースに対する攻勢強化を訴え人心を掴んだ。 |
| 同月19日にはこれまで態度を明らかにしていなかったイスラエル我が家がネタニヤフ支持を鮮明にしたことから、翌・20日にシモン・ペレス大統領がネタニヤフを首班とした組閣を要請。 |
| ネタニヤフ自身は、右派・宗教政党主体では政局運営が困難なことからカディーマを加えた大連立を模索しており、同月22日・28日に党首会談を行うも決裂。 |
| カディーマとの大連立は半ば断念するものの、労働党との連立交渉は進んでおり、政権発足は3月中旬になると見られていたが、労働党内で反発が強く労働党との交渉は難航。 |
| 3月15日にはイスラエル我が家と政策合意、党首のアヴィグドール・リーバーマンの外相就任が確認された。 |
首相職(第2次)
| 同日、ネタニヤフはテル・アヴィヴのバル=イラン大学での演説で、限定的なパレスチナ国家容認に言及 |
| 暫定凍結案については労働党やベニー・ベギン無任所相らが一定の理解を示す一方 |
| 2010年11月22日には、リクード有志議員が国会に提出していた、東エルサレム及びゴラン高原からの撤退(西岸は対象外)が行われる際には国民投票を義務付ける法案(国会で3分の2の賛成議決があれば実施されない)を、賛成65、反対33、棄権22の賛成多数で可決させパレスチナ側を牽制している |
ガザ支援船拿捕
| 2010年5月31日に発生した、トルコからガザ地区へ人道支援のため向かっていた客船をイスラエル軍が拿捕し、乗組員、兵士双方に多数の死傷者が出たことについて、船の乗組員が鉄パイプや刃物で武装しており正当防衛だったこと、また、人道支援と謳いながら実際はテロ組織「ハマース」支援のためであったとし、国際社会から大きな非難を浴びる中においても「我々は決して謝罪しない」と強気の姿勢を見せた。 |
| 両方とも拒否するならば、イスラエルとの国交を断つ」という姿勢を見せており、イスラエル・トルコ間の緊張が高まっている。 |
| 同年6月13日に設置された調査委員会(オブザーバーとしてデービッド・トリンブル元北アイルランド主席閣僚も参加)は、調査の結果2011年1月23日に報告書を公表し支援船の急襲・拿捕は合法であり、ガザに対する軍の封鎖措置も合法であると結論付けた |
マスコミによる批判
| 2010年12月26日付のイスラエル紙「ハアレツ」は、社説で「ネタニヤフは右翼とカハネ主義者を勇気付けている」と題し、ネタニヤフがエリトリアやスーダンなどから戦火や抑圧、貧困から逃れるためにイスラエルにやって来た不法移民たちを「市民を脅かし、イスラエルの雇用を脅かし、ユダヤ人民主国家を脅かしている洪水である」と発言したことについて、「カハネ主義者や右翼のラビといった人種差別主義者たちによる攻撃の格好の標的を作った」と書き、ネタニヤフを厳しく批判した。 |
民衆による批判
| 2011年7月に、住宅価格や物価の高騰、激しい貧富の差などに抗議する大規模なデモがイスラエル国内で行われるようになり、ネタニヤフはイスラエル国民からこれまでにない激しい批判にさらされている。 |
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1949年
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ベンヤミン・ネタニヤフ(בנימין נתניהו, Ben... |
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イラクのオシラク原子炉爆撃を断行したバビロ... |
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