| 1994年に17歳でオークランド・アスレチックスとメジャー契約を結び、高い身体能力は早くから注目されていた。 |
| 2000年9月15日にメジャーデビューを果たし、翌年は途中移籍したコロラド・ロッキーズで13本塁打をマークした。 |
| 2001年、メジャー開幕戦、シアトル・マリナーズのメジャー初打席イチローのセカンドゴロを捕った。 |
| 2003年、オリックス・ブルーウェーブに入団。 |
| 1年目から33本塁打をマークし、長打の面では期待にこたえた。 |
| 5月3日の西武戦ではサイクル安打を達成している。 |
| しかしチャンスには弱く併殺打も多かった。 |
| また、二塁の守備では打球処理が雑で状況判断も悪く失策を連発し、24失策はリーグワーストであった。 |
| 2004年は、この年から監督に就任した伊原春樹によって一塁手にコンバートされた。 |
| 打撃面ではまずまずの数字を残したものの、18失策と結局守備難は解消されなかった。 |
| 1億円を超える高額な年俸、またこの年チームが近鉄と合併する等の事情も重なり、同年オフに解雇された。 |
| オリックス退団後は、アメリカの独立リーグやメキシカンリーグでプレーした。 |
| この間、投手としてのプレーも経験するなど、辛酸をなめた。 |
| 2007年6月25日、フリオ・ズレータの故障で右打ちの内野手の補強を目指していた千葉ロッテマリーンズに入団。 |
| ロッテでは第1号を満塁ホームランで飾るなど勝負強さが向上しており、またオリックス時代は失格の烙印を押された二塁の守備も堅実で幾度もチームのピンチを救い、毒舌解説で知られる倉持明に絶賛されるほどであった。 |
| シーズンのおおよそ半分の出場ではあったが、この年の失策数はわずか2であった。 |
| 2008年は後述の「グラブ投げ付け事件」が話題になってしまったが、二塁の守備自体はこの年も安定していた。 |
| 内野ならどこでも守れ、チーム事情から一塁や三塁を守ることも多かったが、不得手としていた(ちなみに、2007年9月16日のオリックス戦では、守備機会はなかったが9回裏に遊撃手を守った)。 |
| 一塁や三塁よりも、二塁や遊撃手のように敏捷に動き回る守備の方が得手としていた。 |
| 打撃の数字自体は外国人としてはやや物足りなく、夏場に約1か月戦線離脱したこともあって規定打席には達しなかったが、この年のロッテ外国人野手の中では一番良い数字を残した。 |
| また、この年は1番以外の全打順でスタメン出場したが、故障からの復帰後は2番で起用されることが多かった。 |
| 他にも、二塁走者時に浅めのレフトフライがあがって、並みの選手ではタッチアップが困難だが、三塁へタッチアップ成功させるなど好走塁も見られた年だった。 |
| 12月2日に自由契約公示され、去就は保留となっていたが、2009年1月16日に退団が発表された。 |
| その後、メキシコリーグでプレーしていたが、2009年4月17日福岡ソフトバンクホークスへの入団が決まった。 |
| 松田宣浩が開幕戦で右手中指を骨折し全治2カ月と診断され、チーム編成を再考することを余儀なくされた。 |
| 「開幕ロースター漏れの選手よりも、日本球界が分かっている外国人選手のほうがいい」という王貞治会長の進言で、メキシコリーグでプレーしていたオーティズの獲得が決まった |
| 日本球界復帰後初出場となる4月28日の西武戦で岸孝之から初打席初本塁打、5月8日の西武戦でアレックス・グラマンから逆転サヨナラ2ラン本塁打を放った。 |
| 8月21日の日本ハム戦ではダルビッシュ有から2本塁打を放った。 |
| ダルビッシュが同じ打者に1試合2本塁打を打たれたのは入団以来初めての事だった。 |
| ソフトバンクでは主に三塁と左翼手の守備に就いている。 |
| ロッテ時代は打順を固定されず、本来の長打力も発揮できていなかったが、ホークスにおいてはクリーンナップに固定されたこともあって、2009年と2010年には20本塁打以上を打ち、持ち味の長打力を発揮している。 |