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プロフィール
- ポル・ポトとは
- 生い立ち
- 幼少期
- フランス留学から帰国へ
- カンボジア共産党
- クーデターと内戦の激化
- 民主カンプチア
- 関連サイト
ポル・ポト(PolPot、本名: サロット・サル(SalothSar)、1928年5月19日-1998年4月15日)は、カンボジアの政治家。民主カンプチア首相、クメール・ルージュ(カンボジア共産党)書記長。なお、 ポル・ポトは自身が サロット・サルと同一人物であると公式に認めたことはない。しかし、 サロット・サルの兄弟のうち ポル・ポト政権下を生き延びた3人の1人ロット・スオン(RothSuong)は、ポル・ポトが サロット・サルであることを証言している。通称は「一の同志」、「コード ...
生い立ち
| サロット・サル(以下ポル・ポト)は、仏領インドシナの一部PrekSbauv(現在のカンボジア・コンポントム州)で生まれ育った。 |
| 父の名はペン・サロット()。 |
| ペン・サロットは12ヘクタールの土地(9ヘクタールの水田と3ヘクタールの農園)と水牛6頭を所有し、2人の息子と養子にとった甥たちなど約20人で水田を耕作していた。 |
| 使用人は雇っておらず、収穫期には他の村人同士で手伝って作業していた。 |
| 収穫量は年平均で籾6トンで、20以上の家族を養える量だったB.Kiernan,''ThePolPotRegime(thirdedition)''p.6.。 |
| これはカンボジア全体のレベルから見ると十分富裕な自作農の規模だが、ポル・ポトの兄ロット・スオンの説明では、村には50から100ヘクタールを所有する農家もあり、。 |
| その中では中規模の自作農だったというB.Kiernan,''HowPolPot(secondedition)'',p.25.。 |
| ポル・ポトの生家は王宮と関係のある家系で、ペン・サロットの姉ネアク・チェン()が王宮で働き始めたことから始まるようである。 |
| 特に、チェンの娘ルク・クン・メアク()が王宮舞踊団の踊り手になり、その後モニボン王の側室になったことで王宮との関係は強まったB.kerinan,''HowPolPot(secondedition)'',p.26.。 |
幼少期
| ポル・ポトの生年や幼少期の生い立ちの説明は資料や文献によって異なる。 |
| 生年については、1928年5月19日と1925年5月19日の2つの説がある。 |
| デイヴィッド・チャンドラーは著書D.Chandler,BrotherNumberOne;APoliticalBiographyofPolPot,の中で1928年説をとっている。 |
| 一方、B.Kiernanは自身の著書では1925年説をとっている根拠となる資料をはっきりと明示してはいないが、1977年の公式発表による自伝が生年を1925年としていることと、1985年に表面上リタイアを声明した際に生年を1925年と認めたことによるようである。 |
| 文献によれば、ポル・ポトは9人兄妹の8番目として生まれたことになっている。 |
| 一方、B.Kiernanの著書内B.Kiernan,''ThePolPotRegime(thirdedition)'',p.9.では、7人の子供のうちの末っ子として生まれたと書かれている。 |
| 幼少期に関しては、「彼は当時の慣例にしたがって幼時に6年間プノンペンの寺院で暮らし、リセから中級専門学校の電気機械科に進んだのちパリへ留学し」と文献の中で書かれている。 |
| これは、1978年3月にユーゴスラヴィアのジャーナリストが初めて民主カンプチアに入国しポル・ポトにインタヴューした際、以下のポル・ポトの発言をそのまま書いたもののようである。 |
| :「私は、ある農民の一家の出だ。 |
| 子供の時分は、両親と一緒に住んで農作業の手伝いをしていた。 |
| だがその後、伝統に従って、読み書きを習うため寺院で生活した。 |
| 寺で6年間過ごし、2年間は僧侶になっていた。 |
| 」B.Kiernan,''HowPolPot(secondedition)'',p.26-27.。 |
| 同文献は、1981年のロット・スオンとのインタヴューの内容を記したことになっているが、1980年7月9日にプノンペンで同氏にインタヴューしたB.Kiernanの記述とは異なっている。 |
| 文献によると、サロット・サルは水田で農作業をしたことはなく、6歳の時にプノンペンへ送られ、タマヨット派の寺院で見習いとして1年送ったあと、8歳の時にカトリックの私立エリート校エコール・ミシェに入学し、そこで6年間過ごした。 |
| 入学には、ポル・ポトのいとこで、モニボン王の側室の1人だったルク・クン・メアクの助力があった。 |
| プノンペンでは、ロット・スオン、チア・サミー()の大きな家で生活していたB.Kiernan,''HowPolPot(secondedition)'',p.27.。 |
| 14歳の時にプノンペンの高校の入学試験に失敗したため、コンポンチャムのクメール人市場の中にあったノロドム・シアヌーク高校に入学。 |
| そこで以後の6年を過ごす。 |
| 1948年始めにプノンペンへ戻り、郊外にあるルッセイ・ケオ技術学校で寮生活をしながら木工を学んだB.Kiernan,''HowPolPot(secondedition)''.p.29.。 |
フランス留学から帰国へ
| 1年後に奨学金を得て、パリへ留学。 |
| ÉcoleFrançaisederadioéléctricitéで2年間の技術コースを受ける。 |
| フランスには1949年9月に到着した。 |
| 留学中にポル・ポトは共産主義者になり、新生のクメール共産主義グループに参加した。 |
| このグループは、主としてパリに留学した学生が中心となって1950年に。 |
| フランス共産党内に作られた「クメール語セクション」に形成されたB.Kiernan,''HowPolPot(secondedition),p.119.''。 |
| メンバーは、ラット・サムオン()、イエン・サリ、。 |
| フー・ユオン、ポル・ポト、ケン・ヴァンサク()、キュー・サムファン、。 |
| キュー・ポナリー、キュー・チリト、ソン・センなどである。 |
| リーダーは、ラット・サムオンとイエン・サリだった。 |
| チオン・ムンらは活発に活動していたが、この当時は、フー・ユオンやポル・ポトはむしろ目立たない存在だった。 |
| フー・ユオンは勉強に集中しており、ポル・ポトは個性をあらわしてはいなかった。 |
| ただ、この当時から両者の主張には隔たりが大きかった。 |
| 彼らは共産主義グループではあったが、その主義・主張はかなり幅広く、全体としては、共産主義というよりもむしろ反王政派、国民主義だったB.Kiernan,''HowPolPot(secondedition)'',p.121.。 |
| また、母国の共産主義活動からは遊離しており、観念的であった井川一久編著「新版・カンボジア黙示録」田畑書店、p.201。 |
| このグループの中で国民主義とは一線を画していたのが、ポル・ポトとイエン・サリである。 |
| パリ時代に、謄写版で発行されていた内部機関紙KhemeraNisitの1952年8月号でポル・ポトは「本来のクメール人」()というペンネームで、フランス、ロシアと1924年の中国革命に関する記事を書いた。 |
| その他のメンバーが「自由クメール」「クメール人労働者」といったペンネームを使っていたことに比べて、これを以ってポル・ポトがこの当時から。 |
| 人種差別的な傾向を持っていたと推測する文献もあるB.Kiernan,''HowPolPotCametoPower(secondedition)'',p.121.B.Kiernanm''ThePolPotRegime(thirdedition)'',p.11.。 |
| またこの時期のイエン・サリは、旧ソビエト国内の少数民族政策を論じたスターリンの文章に興味を示しているB.Keirnan,''HowPolPot(secondedition)'',p.120.。 |
| その他、書類によって共産党組織をコントロールするスターリンのテクニックに引きつけられたとも述べているB.Kiernan,''HowPolPot(secondedition)'',p.121.。 |
| ポル・ポトは試験に3年連続失敗し奨学金を打ち切られたため1952年12月に船でフランスを後にし、1953年1月14日にカンボジアに到着したB.Kiernan,''HowPolPot(secondedition)'',p.122。 |
| ポル・ポトは、チャムロン・ヴィチェア()も同じ高校で働き始めた。 |
| る一方、民主党で活動を行っていた井川一久編著『新版・カンボジア黙示録』田畑書店、p.200.B.Kiernan,''HowPolPot(secondedition)'',p.122.。 |
| この時期は、新たにフランスから帰国したシエン・アン、ケン・ヴァンサク、そしておそらくはユン・ソウン()、チ・キム・アン、ラット・サムオンらと共に民主党をより左傾化させようと工作していたB.Kiernan,''HowPolPot(secondedition)'',p.122.。 |
| 1953年8月、兄のサロット・チャイ()の本部へ行き、独立闘争に加わるB.Kiernan,''HowPolPot(secondedition)'',p.123.『新版・カンボジア黙示録』によれば、クメール・イサラクではなくクメール人民革命党になっている。 |
| その後約1年間生産部隊に配属され、食事の雑用や、耕作用の有機肥料の運搬などに従事していた。 |
| しかし、パリ帰りのインテリでありながら政治教育、イデオロギー教育を受けられず、幹部やリーダーとして昇進できなかったことに深い恨みを抱いたようである。 |
| また、この時期にヴォン・ヴェトと知り合うB.Kiernan,''HowPolPot(secondedition)'',p.124.。 |
| ポル・ポトは本部でフランス共産党のメンバーだと自己紹介したが、その時会見したチェア・ソット()によれば、「彼は、闘争に参加し我々から学びたいと言ったが、本当は、実際にクメール人が革命を実行しているかどうかを探りにきたのだ。 |
| 彼は、すべては、自己にのみ頼り、独立と自制にもとづいてなされねばならない。 |
| 1956年、パリで知り合った夫人キュー・ポナリーと結婚した。 |
カンボジア共産党
| ''クメール・ルージュ''を参照。 |
| 当時、フランスのインドシナ支配に対して共産主義者主導の反仏活動が起こっていた。 |
| この活動は中心であるベトナムからカンボジアとラオスに波及した。 |
| 1954年にはフランスが仏領インドシナを去り、ベトミンはジュネーヴ協定に従ってカンボジア国内から撤退し、北緯17度線以北の北ベトナムへ集結した。 |
| このため、カンボジア国内のベトナム人左翼活動家の引き上げが始まった。 |
| カンボジア人左翼活動家の中で、フランスで教育を受けた者の一部はヴェトナムの撤退に合わせてハノイへ逃れたが、ポル・ポトは身分を偽って密かにプノンペンへ戻ったらしいB.Kiernan,''HowPolPot(secondedition)'',p.155.。 |
| 革命運動の実績がないことに比べると与えられたポル・ポトの地位は高かったが、これは状況が激変して党幹部が手探り状態であったためのようであるB.Kiernan,''HowPolPot(secondedition)'',p.157.。 |
| 当時のポル・ポトの仕事は1955年に予定された独立後初の選挙対策で、クロム・プラチェアチョン(、クメール語で「市民グループ」の意)B>Kiernan,"HowPolPot(secondedition)",p.157によれば、クロム・プラチェアチョンはクメール人民革命党の偽装合法政党のことである。 |
| 右派のソン・ゴク・タンのグループのこと)の影響を小さくするために、プノンペン市内の活動グループを人民党に集め、また、人民党内部からソン・ゴク・タンのシンパを排除していった。 |
| 1954年12月に、ポル・ポトはピン・トゥオク(として知られるようになる)を党プノンペン委員会に紹介しているB.Kiernan,''HowPolPot(secondedition)'',p.172.。 |
| 1955年3月3日、シハヌーク(シアヌーク)は国王を退位し、後に政党を組織する。 |
| 彼はその威光で共産主義反対勢力を一掃し、1955年9月11日の翼賛選挙で議席をすべて獲得した。 |
| 1973年にカンボジア共産党が配布した党の歴史に関する文書では、1959年終わり頃から政府は農村部での革命運動に弾圧を加え始めたとしているB.Kiernan,''HowPolPot(secondedition)'',p.188.。 |
| しかし1966年頃までは、後に重要な役割を示す左翼運動家の多くは教師として左傾化した学生を生み出したり、またそれが急進的なものでないかぎりは比較的自由に政治活動をおこなっていた。 |
| 1960年代半ばに入ると、ベトナム戦争へのアメリカの関与が本格化したことで右派の影響力が強まり、シハヌークの使える政治的裁量の範囲は次第に狭まっていったB.Kiernan,''HowPolPot(secondedition)'',p.198.。 |
| ポル・ポトは、1960年カンボジア共産党中央常任委員に就任した。 |
| ただし、ポル・ポト自身は、1961年にヌオン・チアに代わり副書記長に選出されたと主張しているB.Kiernan,''HowPolPot(secondedition)'',p.193.。 |
| しかし、シハヌークはロン・ノルの提案を拒否し、キュー・サムファンらの辞任も撤回されB.Kiernan,''HowPolPot(secondedition)'',p.202.、リストに挙げられた34人もシエン・アンを除いて特に処罰されることなく終わり、結局は、都市部左翼の状況に関しては元の状態に戻っていったB.Kiernan,''HowPolPot(secondedition)'',p.203.。 |
| 1964年遅くにポル・ポトは、ケオ・メアに伴われてラオス国境を越えホーチミンルートでハノイに入り、そこで数ヶ月滞在した後、更に北京、ピョンヤンを訪れたB.Kiernan,''HowPolPot(secondedition)'',pp.219-220.。 |
| ちょうどシハヌークが北京に滞在しているのと同じ時期、ポル・ポトも北京に4ヶ月以上滞在し、鄧小平や劉少奇らと仕事をしたらしいが詳しいことはわかっていないB.Kiernan,''ThePolPotRegime(thirdedition)'',p.126によれば、鄧小平らよりも康生との接触が多かったようである。 |
| 」B.Kiernan,''HowPolPot(secodnedition)'',p.224.文献井川一久編著「新版・カンボジア黙示録」田畑書店、p.191.によれば、1965年からクメール・ルージュは中国共産党の影響下に入り、1966年からは文革派の影響下に入った。 |
| ポル・ポト、イエン・サリ、ソン・セン、キュー・サムファン、その他のカンボジア共産党幹部が文化大革命に対する共感を示す発言をしたことはないB.Kiernan,''ThePolPotRegime(thirdedition)'',p.127.。 |
| 1967年4月、バタンバン州のサムロートで、政府による余剰米強制的安値買い付けに反対する農民と地元政府の間で衝突が起こる清野真巳子『禁じられた稲-カンボジア現代史紀行』連合出版、p.42『NAM』同朋舎出版、見聞社編、p.532チャンドラー,『ポル・ポト伝』p.131。 |
| クメール・ルージュは完全な平等主義の土地均分論を考え社会主義の中間段階を回避し、原始共産主義の達成を目指した。 |
クーデターと内戦の激化
| シアヌークが南ベトナム解放民族戦線を支援していると見なしていたアメリカ合衆国はロン・ノル将軍を支援、1970年3月18日にクーデターを起こし、シアヌークを追放した。 |
| 1969年には耕作面積249万ヘクタールを有し米23万トンを輸出していたカンボジアは、1974年には耕作面積5万ヘクタールとなり28万2000トンの米を輸入し、米の値段は1971年10リアルから1975年340リアルにまで急騰した「インドシナ現代史」p103,連合出版。 |
| ベトナム戦争の不安定化、特に「ベトナムの聖域を浄化する」アメリカ軍のカンボジア猛爆がなければクメール・ルージュが政権を獲ることもなかったであろうという議論もある(ウィリアム・シャウクロスの1979年の著書『Sideshow』がこの点に触れている)。 |
民主カンプチア
| 国土に対する管理が維持できずロン・ノル政権はすぐに崩壊し、1975年4月17日にクメール・ルージュはプノンペンを占領した。 |
| 農村での食糧生産はすでに大打撃を受けており、1975年4月にはUSAIDが「カンボジアの食糧危機回避には17.5万~25万トンの米が必要である」と報告井上恭介、藤下超著「なぜ同胞を殺したのか」p103,日本放送出版協会し、国務省は「共産カンボジアは今後外国からの食糧援助が得られなくなるため100万人が飢餓にさらされることになるだろう」と予測NHK取材班著「激動の河メコン」p32,日本放送出版協会した。 |
| やがて連れ去られた者が全く帰ってこないことが知れるようになり教育を受けた者は事情を理解し無学文盲を装って難を逃れようとしたが、眼鏡をかけている者、文字を読もうとした者など、少しでも学識がありそうな者はなど片っ端から収容所に送られ殺害された池上彰著「そうだったのか!現代史」p150,集英社。 |
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つながりの強いひと
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