| 収税官の父の転勤で幼時を転々としたのち、1881年、パリのルイ大王高等中学校に学んだ。 |
| 1884年、バカロレアに合格して哲学級へ進級し、級友のロマン・ロランとコンサートへ通い、また、文学に親しんだ。 |
| 1885年、パリ大学法学部へ進んだ。 |
| 1886年、ランボーの『イリュミナシオン』と『地獄の季節』を読んだ。 |
| カトリシズムに回心し、また、1887年からマラルメの「火曜会」に出席するようになった。 |
| 詩作し、戯曲を書いた。 |
| 1890年、外交官試験に首席で合格し、本省商務部の専門職員となった。 |
| 1935年に退官するまでの、外交官としての経歴は次のとおりであった。 |
| 在任中も、文筆を怠らなかった。 |
| 1890年2月、『フランス』外務省商務部。 |
| 1893年3月-1893年12月:『アメリカ』。 |
| ニューヨーク副領事、ボストン領事事務扱い。 |
| 1895年7月-1909年8月:『清国』。 |
| 上海領事館、福州副領事館事務扱い、漢口副領事館事務代理、福州領事、北京公使館一等書記官、天津領事館事務取扱い、天津領事。 |
| 1909年12月-1911年9月:『オーストリア=ハンガリー』。 |
| 1911年9月-1914年8月:『ドイツ』。 |
| フランクフルト総領事、ハンブルク総領事。 |
| 1914年8月-1915年10月(第一次世界大戦期):『フランス』。 |
| 1915年10月-1916年7月:『イタリア』。 |
| 1917年1月-1918年12月:『ブラジル』。 |
| リオ・デ・ジャネイロ二等全権公使。 |
| 1919年7月-1921年3月:『デンマーク』。 |
| 1921年(大正10年)11月19日-1927年(昭和2年)2月17日:『日本』。 |
| 駐日フランス大使(1925年1月-1926年2月は休暇で帰国)。 |
| 1927年3月-1933年4月:『アメリカ』。 |
| 駐米フランス大使、ワシントンD.C.。 |
| 1934年5月-1935年6月:『ベルギー』。 |
| 駐ベルギー・フランス大使、ブリュッセル。 |
| 1890年、パリのノートルダム寺院で聖体拝領に与った。 |
| 彫刻家オーギュスト・ロダンの愛人であった姉に経済援助をしていたが、姉がロダンと別れて発狂して以降は上海勤務となり、姉に会う回数が激減したとされる。 |
| 1898年、上海勤務の休暇に、約1ヶ月日本を観光した。 |
| 1900年、一時帰国し、アンドレ・ジッドと交際し始めた。 |
| 聖職者を志し、ソレーム修道院(SolesmesAbbey)とリギュジェの聖マルティン修道院(AbbayeSaint-MartindeLigugé)に籠もったが挫折した。 |
| 福州へ帰任の途次、ベルギー人のロザリー・ヴェッチ夫人(RosalieVetch)を知り、1905年、彼女は一女をなした。 |
| この恋愛から、のちの戯曲『真昼に分かつ』、『繻子の靴』が生まれた。 |
| 一時帰国中の1906年、レーヌ・サント=マリー=ペラン(ReineSainte-Marie-Perrin)と結婚した。 |
| 5人の子をもうけた。 |
| 1917年、ブラジルへの赴任に、ダリウス・ミヨーを秘書として伴った。 |
| バレエ・リュスの旅興行を観て、トップ・ダンサーのヴァーツラフ・ニジンスキーと交渉を持ち、ミヨー作曲のバレエ『男と欲情』の台本を書いた。 |
| 1921年、駐日フランス大使となり、フランス領インドシナを経て、11月横浜に着き、1927年2月まで在日した。 |
| 1927年、イゼール県モレステル(Morestel)のブラング城(ChâteaudeBrangues)を求め、そことパリとに住まった。 |
| 1928年、コロンビア大学名誉法学博士号を受けた。 |
| 1934年、バレリーナ、イダ・ルビンシュタインへの作品をミヨーから頼まれ、『火刑台上のジャンヌ・ダルク』を書いた。 |
| 1935年、アカデミー・フランセーズ会員選挙に敗れた。 |
| 6月、外交官を退官した。 |
| 1936年、心臓を病んだ。 |
| 1939年、ローマ教皇ピウス12世の即位式の、フランス政府代表となった。 |
| 同年、ケンブリッジ大学の名誉博士号を受けた。 |
| 幼馴染みのロマン・ロランとの交友が復活した。 |
| 1940年、ドイツ占領軍に監視され、著書『接触と環境』が出版後ただちに、廃棄処分にされた。 |
| 1941年、ナチスのユダヤ人迫害に抗議した。 |
| 1942年、アカデミー・フランセーズからの入会勧誘を、その対独汚染のゆえに拒否した。 |
| ジャン=ルイ・バローと『繻子の靴』上演を議し、1943年、短縮した上演台本を書き、11月25日からコメディ・フランセーズで上演した。 |
| 1944年、解放後、ド・ゴールと交わった。 |
| 1946年、フランソワ・モーリアックの呼びかけとドゴールの後押しを受け、アカデミー・フランセーズ会員となった。 |
| 1947年、心臓発作を起こした。 |
| 1948年、ド・ゴールの依頼により、国家評議会の会員となった。 |
| 1951年10月17日、レジョン・ドヌール大十字勲章を受けた。 |
| 1955年2月23日、パリの自宅で没、86歳。 |
| その4日前まで「マリアへのお告げ」のコメディ・フランセーズ上演に関わった。 |
| 2月28日、パリのノートルダム寺院で国葬が執り行われ、同年9月4日、ブラング城の一角に埋葬された。 |
| 物故直後の1955年7月、ジャン・ヴィラールのアヴィニョン演劇祭で、「都市」第2稿が初演された。 |
| 毎年の夏、ブラング城で、 |