| フランス南部マルセイユに生まれ、6歳でアマチュア音楽家だった父親からピアノの手ほどきを受け、10歳でマルセイユ地方音楽院に入学。 |
| ソルフェージュ(1939年)とピアノ(1940年)をともに主席で修了して1941年に卒業。 |
| その後、アマチュアジャズバンドを経て、1943年にマルセイユのダンスホール「ブラッスリー・ラ・クーポール」専属オーケストラでピアニスト兼アレンジャーとしてプロ・デビューし、翌年には同楽団の指揮者を兼任する。 |
| 1948年、ギタリストのマルセル・ビアンキ1975年、「エマニエル夫人」などの演奏にスティール・ギタリストとして起用された後、アルバム「マルセル・ビアンキのポール・モーリア・サウンズ(ポール・モーリア・プロデュースによるラブ・サウンズの新しい世界)」を発表、同年の来日公演にもゲスト出演している。 |
| が率いるオーケストラに創設メンバーとして加入、同年12月から9ヶ月間に渡るエジプト・ツァーに参加する。 |
| 1951年にパリ進出。 |
| 近郊のダンスホールで演奏していたフランク・プゥルセル楽団にピアニストとして参加するが、翌年マルセイユに帰郷し、同7月28日にイレーヌ・ボボと結婚。 |
| ダンスホール「ル・ヴァンピング」でのオーケストラ活動が評判となり、1957年にRGMレーベルからレコードデビュー。 |
| 1959年に再度パリへ進出。 |
| 音楽プロデューサーであるレオ・ミシールに誘われ、バークレー傘下で新進アーティストを扱う新興レーベル「BELAIR」よりレコードを発表初年度のみ「エドゥアルド・リュオ」「リチャード・オードリー」の変名を使用、1960年以降はポール・モーリア名義でリリースしている。 |
| さらに、ミレイユ・マチューのデビュー曲『愛の信条』を作曲し、専任オーケストレーターとして1966年9月のオランピア劇場公演などで指揮をとり、フランシス・レイらとともに全米プロモーションツァーにも同行している。 |
| このほか、モーリス・シュヴァリエの新作レコーディングを機に、同じバークレー社の同僚であったレイモン・ルフェーブルと1962年から3年間に渡って仕事を共にしている後に、モーリアがフィリップスに移籍した直後に発表したロシア民謡アルバム(邦題『赤いサラファン/ポール・モーリア~永遠なるロシア』)でも、ルフェーブルがレコーディングをサポートしている。 |
| 1965年、BELAIRレーベルとの契約満了に伴ってフィリップスとレコード発売契約を結び、ポール・モーリア・グランド・オーケストラ(LEGRANDORCHESTREDEPAULMAURIAT)を結成。 |
| 1968年に『恋はみずいろ』が全米ヒットチャートで連続5週トップを記録したのを機に世界的にヒット(約500万枚)、RIAAゴールドディスク、ACCディスク大賞などを受賞する。 |
| この年、モーリアは全米でのプロモーションのために単身渡米し、テレビ番組「エド・サリバン・ショー」に出演、1969年以降、北米を中心にコンサート・ツァーを開催するが、オーケストラ・メンバーに対するフランス人奏者の人数制限やプロモーターに対する不信などから、3度目となる1971年を最後に全米ツァーを打ち切る。 |
| 『恋はみずいろ』以降も、フランス語圏や英語圏のヒット・ポップスを中心にレコーディングを続けるが、1970年代後半から1980年代前半にかけてはブラジル音楽に傾倒。 |
| その一方で、1978年には自らフュージョンをコンセプトとしたアルバムを企画、アシスタントのジェラール・ガンビュスらと渡米し、ニューヨーク・パワーステーション・スタジオでウィル・リー、ランディー・ブレッカー、マイケル・ブレッカーなど現地のミュージシャンを起用したオリジナル・アルバム『オーバーシーズ・コール/ポール・モーリア・イン・ニューヨーク』を制作する。 |
| 日本においては、1965年12月に他アーティストのシングル盤B面収録曲として『夜のメロディー』が初めて発表されA面収録曲はフランキー・モンテベルロとゴールデン・ストリングス『ドナ・ドナ・ドーナ』。 |
| なお、この時点でのアーティスト表記は「パウル・モーリア楽団」とされた。 |
| 、翌年5月に『魅惑のヨーロッパ・トップ・ヒッツ』『赤いサラファン/ポール・モーリア~永遠なるロシア』の2枚のアルバムが発売されて以降は、1990年代はじめまでは概ね年間2~3枚のペースでコンスタントに新作アルバムが発表された。 |
| 1968年の『恋はみずいろ』以後も『蒼いノクターン』『エーゲ海の真珠』『涙のトッカータ』『オリーブの首飾り』『そよ風のメヌエット』等と立て続けにヒットを重ねた。 |
| とりわけ『オリーブの首飾り』のヒット効果は大きく、ベストアルバムとして発売された『ポール・モーリア/グレイテスト・ヒッツ・リフレクション18』(1976年)がオリコン年間アルバムチャート21位に、『ポール・モーリア/グレイテスト・ヒッツ24』(1977年)が同11位に記録される。 |
| それ以前にもモーリア版『ヘイ・ジュード』がテレビドラマ「おふくろの味」のテーマ曲に起用されたのをはじめとして、CMや天気予報、ラジオ番組などのテーマ曲やBGMなどに多岐に渡ってモーリアの演奏作品が使用されている。 |
| 親日家として知られ、1976年に国内11都市の印象を綴ったオリジナルアルバム『ポール・モーリア/ラブ・サウンズ・ジャーニー』を発表、1979年にはFM情報誌の読者投票で選ばれたニューミュージック楽曲のカバーを依頼する企画をアルバム『愛のメッセージ/ポール・モーリア』として実現するほか、池田満寿夫監督の日伊合作映画『窓からローマが見える』の音楽担当や、来生たかおのアルバム『LABYRINTH』を編曲・プロデュース、また1995年の阪神・淡路大震災の際には『カルテット・フォー・神戸』を作曲し、フランク・プゥルセル(バイオリン)、フランシス・レイ(アコーディオン)、レイモン・ルフェーブル(フルート)との4人で「ザ・フォー・フレンチメン」名義で発表した同曲が収録されたチャリティーアルバムを制作するなどの活動が知られている。 |
| さらに、1976年以降「メルシャンワイン」「UCCコーヒー」などのCMにも自ら出演している。 |
| 1969年に初来日して以来、1970年・1978年を除いて1986年まで毎年、その後、1988年、1990年、1996年、1997年、1998年と来日し約1,200回の公演を開催、1998年のジャパンツアーを最後に指揮者を引退するが、公式ライブアルバムは全て日本国内で録音された。 |
| 1990年のコンサートツァーをもって一度はステージ活動を休止するが、パリでカテリーナ・ヴァレンテとのジョイントコンサートが決定したことを機に急遽1996年1月に来日公演が実現、同年11月には前回開催できなかった都市を中心に公演を開催した。 |
| 1997年には公演直前になってモーリアが体調を崩して来日が遅れ、最初の3公演はジェラール・ガンビュスの実弟であるジル・ガンビュスが指揮することとなった。 |
| このことが1998年のジャパンツァーを「さよならコンサート」としたことに大きく影響したと見られている。 |
| モーリア引退後のポール・モーリア・グランド・オーケストラの公演はジル・ガンビュス(2000年、2002年、2003年、2004年の計4回)、ジャン=ジャック・ジュスタフレ(2005年、2009年)を指揮者として行われた。 |
| 1993年、所属していたフィリップスの本国担当者との対立からポニーキャニオンへ移籍。 |
| 翌年リリースされた『CHAGE & ASKAコレクション/ポール・モーリア』を皮切りに、契約期間4年の間に7枚のアルバムを制作する。 |
| 2000年、サンスターCM曲として1982年にモーリアが作曲しながらスタジオ録音が実現しなかった『私は風が好き』を含む4曲をプライベート録音、2003年の来日コンサート会場および発売元のプロモーター「ミュージックリーグ」の通信販売限定でリリース。 |
| これがモーリアの最終レコーディングと目されている。 |
| 2006年10月末、フランス南部ペルピニャンの別荘に滞在中、体調不良を訴え検査入院したところ、急性白血病であることが判明。 |
| 同年11月3日午前1時、急性白血病による心不全のためペルピニャンの病院で逝去。 |
| 6日に火葬に付された。 |
| 同年11月6日のJFN系のFMラジオ番組「JETSTREAM」では、急遽彼の追悼特番を放送、同年12月17日放送のTBSラジオのラジオ番組「バックグラウンド・ミュージック」でも追悼リクエスト特番が放送された。 |
| また、同年12月15日放送のタモリ倶楽部でも追悼プログラムが構成された。 |
| 2009年11月、ジャン=ジャック・ジュスタフレ指揮ポール・モーリア・メモリアル・オーケストラによる追悼コンサートが日本および大韓民国で開催された。 |
| 同公演につき、未亡人は「日本のファンとプロモーターに対する特別の配慮で実現させたものであり、故人の遺志によりモーリアの死とともにオーケストラは消滅した」と後日コメントしているhttp://www.grandorchestras.com/mauriat/misc/irene-mauriat-message.htmlイレーヌ・モーリアのコメント(英文)。 |