| 学士を獲得後、それまでの蓄えに頼る生活を変えてマリはフランス工業振興協会の受託研究を行い、わずかながらも収入を得るようになった。 |
| 相変わらず屋根裏の貧乏生活は続いたが、その中で貯蓄し奨学金を全額返納したこの奨学金は返納不要で、マリの行動は前例が無いことだった。 |
| エーヴ(2006)、p.169、パサコフ(2007)、pp.32-33。 |
| しかし、受託した鋼鉄の磁気的性質の研究は大学や勤めていたガブリエル・リップマンの工業試験場で行うには手狭で困っていた。 |
| そんな頃、チェハヌフ時代に知り合った女性が新婚旅行でパリに来て、マリを訪ねてきた。 |
| 彼女の夫であるフリブール大学(en)物理学教授のユゼフ・コヴァルトスキが悩みを聞き、場所の提供を頼めそうな人物を紹介する運びとなった。 |
| それが、フランス人科学者・ピエール・キュリーだったエーヴ(2006)、pp.173-201、ピエール・キュリー。 |
| ピエール・キュリーは当時35歳。 |
| パリ市立工業物理化学高等専門大学(EPCI)の教職に就いていた米沢(2006)、pp.99-100、ピエール・キュリー。 |
| 当時のピエールはフランスでは無名に近かったが、彼はイオン結晶の誘電分極など電荷や磁気の研究で成果を挙げており、キュリー天秤開発や後にキュリーの法則へ繋がる基本原理などを解明していた。 |
| 1893年にはイギリスのウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿)がわざわざ面会に訪ねる程、フランス国外では既に天才の呼び声が高かった。 |
| しかし彼自身は出世や女性との交際など念頭に置いていなかった。 |
| 勲章を断り、薄給当時の、EPCIでのピエールの給与は月300フラン。 |
| これは工場の非熟練労働者の収入とさほど変わらない。 |
| エーヴ(2006)、p.179と粗末な研修設備に甘んじながら無心に研究に打ち込む日々を送っていた。 |
| 異性観について、ピエールは日記に「女性の天才などめったにいない」エーヴ(2006)、p.174と、自身の学問的探求心を理解してはくれないと考えていた。 |
| 1894年春、初対面のピエールを見た第一印象を、マリは「長身で瞳は澄み、誠実で優しい人柄ながら、どこか奔放な夢想家の雰囲気を湛えていた」と振り返り、科学や社会のことを語り合った際には自分と共通するところを多く感じたというゴールドスミス(2005)、pp.43-49、第四章ピエール・キュリー。 |
| そしてピエールも同じように感じており、彼はマリに惹かれた。 |
| 後に娘夫婦を加えると家族で通算5度のノーベル賞を受賞することになるキュリー夫妻はこうして出逢い、磁気L.PearceWilliams(1986)、p.331とコヴァルトスキ教授が二人の天才を引き合わせたキューピット役となった。 |
| ピエールは一念発起して学位取得を目指し、仕上げた「対称性保存の原理」(キュリーの原理)論文の写しを彼女に贈り、二人の距離は縮まった。 |
| そしてマリは自分の屋根裏部屋に彼を招待し、ピエールは貧しく慎ましい彼女に打たれた。 |
| お互いに尊敬し信頼し合う親密な間柄になった二人だが、マリはいつかポーランドに帰ると誓っていた。 |
| 1894年に数学の学士資格を得たマリは夏季休暇を利用してワルシャワに里帰りしたが、ふたたびフランスに戻るかどうか決めかねていた。 |
| 彼女は働き口を探してみたが、ヤギェウォ大学(en)は女性を雇い入れなかった。 |
| その間、ピエールはマリに、求婚の手紙を何度も送り、10月にマリはパリに帰ってきた。 |
| ピエールは熱意を直接マリに語り、一緒にポーランドに行ってもよいとまで伝えた。 |
| 彼女が彼のプロポーズを受諾したのは1895年7月になった。 |
| 祝福の中で式を終えた二人は、祝い金で購入した自転車に乗ってフランス田園地帯を巡る新婚旅行に出発した。 |
| こうしてマリは、新しい恋、人生の伴侶、そして頼もしい科学研究の同志を得たWojciechA.Wierzewski,"''MazowieckiekorzenieMarii''"("Maria'sMazowszeRoots") |
| File:MarieCurieMessapparatur1904.png|200px|thumb|right|夫妻が用いた放射能計測システム(概念図)。 |
| 物質(B)の放射能で電離した空気の電荷をAで捉え、下げた分銅(H)の重さで応力が決まる水晶のピエゾ素子圧電効果を用いた応力計(Q)に通して相殺する。 |