| ミケランジェロはフィレンツェ共和国(現在のイタリアのトスカーナ州)カプレーゼに生まれた。 |
| 幼少の頃から絵画や彫刻に興味を示し、1488年、13歳でドメニコ・ギルランダイオに弟子入りした。 |
| ドメニコは彼の才能に感心し、フィレンツェの支配者だったロレンツォ・デ・メディチに紹介した。 |
| ロレンツォはミケランジェロを自宅に引き取り学ばせた。 |
| その間にプラトン・アカデミーに集まる人文主義者たちやベルトルド・ディ・ジョバンニなど多くの突出した人々と出会い、芸術に関する着想を広げ、大きな影響を受けた。 |
| ミケランジェロはこの時期に『ケンタウロスの戦い』『階段の聖母』の二つの浮き彫りを制作している。 |
| ロレンツォが亡くなった1492年、ロレンツォの子で後継ぎのピエロはミケランジェロへの後援をやめた。 |
| ミケランジェロはフィレンツェを離れボローニャで3年ほど生活した。 |
| その後すぐの1496年にサンジョルジオ枢機卿がミケランジェロ作の大理石の天使を購入し、彼をローマへと招いた。 |
| ミケランジェロはローマで古代彫刻の影響を受けながら、5年の間とどまり、『ピエタ』(サン・ピエトロ大聖堂)とバッカスを作った。 |
| この間、フィレンツェではメディチ家の追放、サヴォナローラによる神制政治、サヴォナローラの失脚、新たな共和国体制、と政変が続いていた。 |
| ミケランジェロはそうした時期のフィレンツェに戻り、1501年に共和国政府の依頼で彼の代表作のひとつであるダビデ像を4年かけて制作した。 |
| ダビデ像は市庁舎(のちヴェッキオ宮殿)前に設置された(現在はアカデミア美術館に移され、市庁舎前にはレプリカが置いてある)。 |
| ダビデ像はフィレンツェの共和制のシンボルとなった。 |
| また、『聖家族と幼児洗礼者ヨハネ』もこのときに制作している。 |
| 1506年、ミケランジェロはローマ教皇ユリウス2世にローマへ呼び戻され、教皇の墓廟を制作するよう命ぜられる。 |
| 墓といっても彫刻を多数並べた巨大な構築物である。 |
| しかし多数の仕事を命ぜられたミケランジェロは、制作を何度も中断せざるを得なかった。 |
| また墓標の規模も度々変更された。 |
| 墓廟の制作には40年も関わることになり、モーセ像などが制作された。 |
| 1508年、今度はユリウス2世から墓廟の制作より先にバチカン宮殿にあるシスティーナ礼拝堂の天井画を描くよう命じられた。 |
| 自分は彫刻家であり、画家ではないと拒んだが、しぶしぶ教皇の命令に従った。 |
| 礼拝堂内に約20mもの高さのある足場を組み、横になって苦しい作業を続け、1512年までの4年間をかけて創世記をテーマにした『天地創造』の大フレスコ画が完成した。 |
| 1513年にユリウス2世が死ぬと、メディチ家出身のレオ10世(ロレンツォの次男)が教皇に即位し、ミケランジェロにフィレンツェのサン・ロレンツォ教会外観の設計などを命じた。 |
| ミケランジェロは渋々承諾し、図書館やメディチ家礼拝堂の新聖器室などを建設するが、教会の外観は現在に至るも未完成のままである。 |
| 1527年、教皇クレメンス7世(レオ10世の従弟)のときにローマ略奪が起こると、メディチ家はフィレンツェから再び追放される。 |
| 共和制に共感したミケランジェロはフィレンツェ共和国の築城長官に就任するが、これはメディチ家に対する背信的な行為であった。 |
| 1530年にメディチ家がフィレンツェに復帰すると、ミケランジェロはフランスへ逃亡するが、クレメンス7世はミケランジェロの行為を不問にしてローマに呼び戻す。 |
| クレメンスはシスティーナ礼拝堂の祭壇背後の壁画を依頼するが、ミケランジェロは壁画の仕事には気が進まなかった。 |
| しかし、次の教皇パウルス3世が強く催促したため、壁画『最期の審判』を1536年から1541年までかけて完成させた。 |
| 1546年には建設工事中であったサン・ピエトロ大聖堂の建築主任となる。 |
| 当時、構造上の問題や度々の設計変更で工事は停滞していたが、ユリウス2世当時のプラン(建築家ドナト・ブラマンテが構想していた集中式の教会堂)を元に設計し直し、建設を進めていった。 |
| 1564年、ミケランジェロが亡くなったときは、大ドームの基部付近まで工事が進んでいた。 |