| 本人の南ロシア訛り(アクセントの位置が微妙に違う)に加え、「(プロツェース・ナーチャル)」の方がしっくりくるのだが、多少の違和感を覚えるこの語感にはむしろモスクワの間で流行。 |
| 次第に行き詰まる改革に合わせるかのように「自分の思い通りとは違う方向へ物事が進んでいる状態」の意味を含んで使われるようにもなった。 |
| 1985年11月、スイス・ジュネーヴにて、アメリカ合衆国大統領のロナルド・レーガン(当時)と米ソ首脳会談を行う。 |
| この会談で核軍縮交渉の加速、相互訪問などを骨子とする共同声明を発表した。 |
| 1986年4月、ゴルバチョフはロシア語で「建て直し」「再建」を意味するペレストロイカを提唱し、本格的なソビエト体制の改革に着手する。 |
| 4月に発生したチェルノブイリ原子力発電所事故を契機に、情報公開(グラスノスチ)を推進する。 |
| 当初レーガンや西側の保守派は、ゴルバチョフの意図はアンドロポフが指向したような従来の社会主義の修正、あるいは社会的規律の引き締めに過ぎず、西側に対する軍事的脅威はかえって増大されると危惧する警戒・懐疑論を持っていたが、ペレストロイカの進展とともに打ち消される事になった。 |
| 経済改革では、社会主義による計画経済・統制経済に対して、個人営業や協同組合(コーポラティヴ)の公認化を端緒として、急進的な経済改革を志向するようになり、1987年8月に国営企業法を制定した。 |
| ペレストロイカは、次第に単なる経済体制の改革・立て直しに留まらず、ソ連の硬直化した体制・制度全体の抜本的改革・革命へ移行し、それに伴い、政治改革、ソ連の歴史の見直しへと進行していった。 |
| その中で、自らが電話でその解放を伝えたアンドレイ・サハロフをはじめとするソ連国内の反体制派(異論派)が政治的自由を獲得し、スターリン時代の大粛清の犠牲者に対する名誉回復が進められた。 |
| ゴルバチョフは自身をソ連崩壊のその日まで「共産主義者」と規定していたが、「多元主義(プルーラリズム)」「新思考」「欧州共通の家」といった新たな価値によって国内政治及び外交政策において大胆な転換を実行していった。 |
| 1986年7月、ゴルバチョフはウラジオストク演説でアフガニスタン撤退と中ソ関係改善を表明した。 |
| 10月にはアイスランド・レイキャヴィークにおいて米ソ首脳会談が行われた。 |
| アメリカ大統領のレーガンが掲げていた戦略防衛構想(SDI)が障壁となって署名はなされなかったが、戦略核兵力の5割削減、中距離核戦力(Intermediate-rangeNuclearForces、INF)の全廃について基本的な合意は成立していた。 |
| このことが、1987年12月に成立する中距離核戦力全廃条約(INF全廃条約)につながっていく。 |
| 1988年9月、ゴルバチョフはグロムイコを解任し、自ら後任の最高会議幹部会議長に就任して国家元首となる。 |
| 12月、最高会議を改組し、人民代議員大会を設置。 |
| 求心力の低下したゴルバチョフは、1990年3月、複数政党制と強力な大統領制を導入した。 |
| 3月15日、人民代議員大会においてゴルバチョフは大統領に選出されたが、国民からの直接選挙ではなく、人民代議員大会で選出されたことは、ゴルバチョフの権力基盤を弱める要因となった塩川伸明「ペレストロイカの時代」(和田春樹編『ロシア史』〈新版世界各国史22〉、山川出版社、2002年)。 |
| 副大統領にはシェワルナゼを候補に考えていたが、シェワルナゼは「独裁が迫っている」と守旧派に対する危機を訴えて、1990年12月に外務大臣を辞任して世界中を震撼させた。 |
| 従来の制限主権論(ブレジネフ・ドクトリン)による強圧的な東ヨーロッパ諸国への影響力行使とは大きく異なり、ハンガリー事件やプラハの春で起こったソ連軍による民主化運動の弾圧はもう起こらないことを示した。 |
| 結局、1989年をピークとする一連の東欧革命をもたらし、1990年には東ドイツの西ドイツへの統合(ドイツ再統一)まで実現することになった。 |
| ゴルバチョフはベルリンの壁崩壊前に当時の東ドイツの最高指導者エーリッヒ・ホーネッカーに対して国内改革の遅れに警告を発する一方、壁崩壊後に急浮上した西ドイツによる東ドイツの吸収合併論やそれに伴う旧東ドイツ領土へのNATO軍(アメリカ軍)の展開には反対したが、西ドイツの首相ヘルムート・コールが示した巨額の対ソ経済支援を受け入れることで、ドイツ再統一に承認を与えた。 |
| ただし、これによってソ連は東ヨーロッパでの覇権を失い、各国からの撤退を強いられた軍部や、生産縮小を強いられた軍産複合体の中にはゴルバチョフやシェワルナゼへの反感が強まり、新思考外交を「売国的」と批判して、共産党内の保守派と接近した。 |
| ゴルバチョフ自身も、1991年2月にリトアニアの首都ヴィリニュスで発生したリトアニア独立(回復)派に対するソ連軍・治安警察による武力弾圧を承認した。 |
| また、極東においてもウラジオストク演説以後に緊張緩和が進み、1989年5月に中華人民共和国を訪問して長年の中ソ対立に終止符を打った。 |
| 1991年4月には日本も訪れ、首相の海部俊樹(当時)と平和条約締結や北方領土帰属等の問題を討議したが、合意には達しなかった。 |