| 1972年(毎日放送)『仮面ライダー』のライダーガールズのひとりチョコ役(70-92話、93-98話)でデビュー(クレジットはミミー)。 |
| 1973年日本コロムビアよりミミの名で歌手デビュー。 |
| デビュー曲は「おしゃれな土曜日」。 |
| 他「恋人たちの森」「恋愛志願」「水色の予感」の3枚のシングルと1枚のアルバム『かわいいシャトン』を出し、『8時だョ!全員集合』にも何度か登場した。 |
| その後、『プレイガールQ』、『あんちゃん』などのテレビ・ドラマに出演。 |
| ビューティ・ペアの人気が爆発した1978年、アイドル歌手から女子プロレスラーに転身、全日本女子プロレスに入団し、大きな話題を呼んだ。 |
| 同年2月6日、のちの人気レスラー(そして現在最古参レスラー)となる横田利美(ジャガー横田)戦でプロデビュー。 |
| その後1981年まではまったく芽が出ず、前座試合で連戦連敗を続けていた。 |
| 1980年にアメリカに渡り、ロバート・アルドリッチ監督、ピーター・フォーク主演の『カリフォルニア・ドールズ』に出演。 |
| この映画はロードムービーの名作として有名である。 |
| 1981年2月、横浜文化体育館で悪の実力者、池下ユミの保持するオールパシフィック王座に挑戦。 |
| 強引なスモールパッケージホールドで王座を奪取する。 |
| 前年の試合中にアクシデントで欠けた尾骶骨の一部が体内にあり、腰のヘルニアも悪化していたため引退を勧告されていたが、全日本女子プロレスの主要スタッフ松永国松によるハードなボクシング式トレーニングで見事再起。 |
| 体重を10kg近く増加させて臨んだ最後のチャンスをモノにした。 |
| 同じ日にジャガー横田がビューティ・ペアのジャッキー佐藤を破り、WWWA世界シングルチャンピオンとなった。 |
| この日を境に女子プロレス界の新陳代謝が行われ、敗れたジャッキー、池下は同年中に引退。 |
| 悪役スターとしては同時期にデビル雅美が台頭し、池下のポジションを受け継ぐ。 |
| これによりジャガー、ミミ、デビルのトロイカ体制が誕生。 |
| 数年後の、クラッシュギャルズによる女子プロレスブームに至る礎を築き上げる。 |
| 1981年より数年間、看板選手として会社側からの売り出しがかけられるようになる。 |
| 露出度が高く、サポーターさえ着用できないハイレグ水着で試合を断行するセクシー路線を確立。 |
| 賛否両論を呼んだ。 |
| 相手に痛めつけられる苦悶の表情は世代を超え、いまなおネット上などでカルト的な人気を誇っている。 |
| この時代の女子プロレスはヒールが八割方責めてベビーフェイスが一発逆転で勝利を収めるというパターンが多く見られたが、これはミミの持ち味を最大限に活かすために、選手全体で練り上げられた、ひとつの様式といえる。 |
| 1982年、女子プロレスラーとしては史上初のヌード写真集『燃える青春』が愛宕書房より発売される。 |
| また講談社よりエッセイ『美しき夢色の日々』も発売される。 |
| 1984年4月1日、タランチェラ戦を最後に引退。 |
| 元祖ビジュアル系女子プロレスラーとして大きな役割を果たした。 |
| ミミ萩原時代にもレコードを出しており、「セクシーパンサー」、「セクシーINTHENIGHT」、「愛(アイリーン)鈴」、「スタンド・アップ」がある。 |
| その後、タレント・女優業に復帰しドラマ、舞台出演や、ヌードグラビアのモデルなどをする。 |
| この頃に結婚をしたが「夫が長男で跡継ぎをもうけなければいけない。 |
| 私は女子プロレスで内臓を痛めているので出産が出来ない」と涙の会見を行い、スピード離婚している。 |
| リトル・ペブルに感化され、1993年にスピリチュアルな声を聞き広島市に転居。 |
| 信者数十人と集団生活に入る。 |
| 1995年3月、会社員と結婚。 |
| 2005年、デビュー戦を同じくした盟友ジャガー横田の呼びかけで、12月4日新宿FACE大会で、約20年ぶりにリング復帰(歌とライブパフォーマンス)した。 |
| アーティストとして「アティーナ」「ミミ萩原」の名前で、ライブ活動を行い、歌にダンスに幅広く活動をしている。 |