| 1964年、イギリス本国とアメリカ国内に於けるビートルズの過熱ぶりを目の当たりにしたスクリーン・ジェムス・コロンビアのバート・シュナイダーとボブ・ラフェルソンはアメリカ国内でスターグループを生み出そうとビートルズ主演の『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!-''AHardDay'sNight''』をヒントに同様な番組を制作することを思いつく。 |
| 1965年9月8日、カリフォルニア州ロサンゼルスで音楽業界紙「デイリー・ヴァラエティ」に掲載されたオーディション広告に集まった若者約400人からデイヴィー・ジョーンズ、マイク・ネスミス、ピーター・トーク、ミッキー・ドレンツが選出される。 |
| 実際にはオーディション以前に、バート・シュナイダーとボブ・ラフェルソンはめぼしいアーティスト達に声をかけている。 |
| デイビーはその時点で、すでに参加が決定していた。 |
| 後年、ザル・ヤノフスキーの代わりにラヴィン・スプーンフルに参加する事になったジェリー・イェスターも台本を渡され打診されていたものの、当時参加していたモダン・フォーク・カルテットの全員が参加するのでなければと辞退する。 |
| なお、このオーディション参加者の中にはポール・ウィリアムス、後のクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングのスティーブン・スティルス(歯並びが悪いとの理由で不採用になったが幼馴染で自分に似た雰囲気のピーターを推薦)、同じくスリー・ドッグ・ナイトのダニー・ハットン、ラヴィン・スプーンフルのジョン・セバスチャン、ヴァン・ダイク・パークスなどがいたといわれている。 |
| 選出当時、マイク・ネスミスはマイケル・ブレッシング名義でカントリー・ミュージシャンとしてソロ活動、デイヴィー・ジョーンズはイギリス、マンチェスター出身の舞台俳優、歌手(ビートルズが『エド・サリヴァン・ショー』に初登場した回には番組に端役として出演していた)、かつてミッキー・ブラドックという名前で子役スターとして活躍していたミッキー・ドレンツは大学生、ピーター・トークはグリニッジ・ヴィレッジでインディーズ活動をしていた。 |
| 選考は非常に難航し、最終的にオーディションの合格者が決まったのはTVシリーズのパイロット版制作に入るぎりぎりのデッド・ラインである1966年1月であった。 |
| 1966年9月12日、NBC系列で『ザ・モンキーズ・ショー』が始まる。 |
| 翌10月に発売されたデビューアルバム『恋の終列車(TheMonkees)』はテレビとの相乗効果により500万枚を売上げるヒットとなった。 |
| ここから4人はレコーディングとTVシリーズの撮影に追われる日々となる。 |
| 1967年1月『アイム・ア・ビリーバー(MoreOfTheMonkees)』をリリース。 |
| この頃から制作者サイドとメンバー間の軋轢が目立つようになる。 |
| 当初2作目以降はメンバー自身もアルバム制作に関われるという話であったが、モンキーズの音楽部門の責任者であるドン・カーシュナー(DonKirshner)はこれを一切認めず、ファーストアルバムまでの時点に収録が終わっていながら未発表になっていた、自分の音楽出版社所属の楽曲を使用しスタジオミュージシャンのバッキングトラックにボーカルを乗せた音源を使用して制作したアルバムをメンバーの知らないうちに発売。 |
| さらにカーシュナーはニール・ダイアモンドNeilDiamond)の提供曲「恋はちょっぴりALittleBitme,AlittleBityou)」を3枚目のシングルとして発売することにしていたが、B面に使用する曲を当初予定していたマイク作詞作曲の「どこかで知った娘ThegirlIknewsomewhere)」ではなくジェフ・バリー(JeffBarry)の手による「シー・ハングズ・アウト(Shehangsout)」に無断で差し替えて発表。 |
| この暴挙にマイクが激怒、当初どおりの「恋はちょっぴり/どこかで知った娘」のシングル盤を独自に制作、「これこそが本物のサード・シングルだ」として記者会見を開くという、マスコミを巻き込んだクーデターを決行する。 |
| その結果ドン・カーシュナーは更迭、彼が発表しようとしたシングルは業界関係者に配られたサンプル盤の段階で全て回収され、マイクの主張した盤が正式な3枚目のシングルとして発売される。 |
| なお、このサンプル盤はその後「幻のシングル」としてコレクターズ・アイテムとなり、高値が付けられている。 |
| カーシュナーを追い出したマイクは、代わりに当時「ハッピー・トゥギャザー」のヒットを飛ばしたタートルズのチップ・ダグラス(ChipDouglas)当時はDouglasFarthingHatlelid名義)をプロデューサーに迎え3作目の『灰色の影(Headquarters)』を1967年5月にリリースした。 |
| この頃にはハーマンズ・ハーミッツに替わって全米NO.1の人気グループとなりイギリスに於いても高い人気を得ていた。 |
| 前2作と違いチップ・ダグラスとメンバー自身によるプロデュース、楽曲も自分たちの選曲と自作曲を収録、演奏もホーン・セクションを除いては全て自分自身で行ったこのアルバムはテクニックが稚拙なためにガレージパンクのような荒さがあり、レコーディング中のお遊び等も収められ当時4人の等身大の作品に仕上がるが売り上げは前作を若干下回った。 |
| なおこのアルバムの次にチャート・トップに立ったのは『サージェント・ペパー』。 |
| その後撮影、レコーディング、ツアー等の時間的な制約から演奏はスタジオミュージシャンを使用する方法に戻った。 |
| 1967年4月頃からカナダ、全米ツアーをスタート。 |
| メンバーはその合間にレコーディング、TV撮影という殺人的なスケジュールをこなす。 |
| なお、この67年8月のライブレコーディングが20年後の1987年に『Live1967』としてリリースされた。 |
| 1967年11月、『スター・コレクター(Pisces,Aquarius,Capricorn&JonesLtd)』をリリース。 |
| なお、この頃から次作のレコーディングに取り掛かる。 |
| 1968年3月TVシリーズ終了。 |
| その直後の4月に『小鳥と蜂とモンキーズ(TheBirds,TheBeesandTheMonkees)』がリリースされた。 |
| この作品と前作の『スター・コレクター』でモンキーズは作品的にひとつの頂点を極めたが、前作ほどのわかりやすさはなく、直後にTVシリーズが終了したこともあり売上げは前作の『スター・コレクター』に及ばなかった。 |
| なお、モンキーズのアルバムで初めてアルバムチャートの1位を逃した作品でもある。 |
| また1968年2月から5月まで映画『HEAD』の撮影が行われた。 |
| 「これまでに作り上げたアイドルしてのモンキーズをぶち壊す」というボブ・ラフェルソンの意図により、出来上がった作品は細切れのシーンをつなげたパッチワークのような難解な作品となり、同年11月に公開されたが興行的には失敗に終わる。 |
| なお、この作品の脚本はジャック・ニコルソンが手がけ、デニス・ホッパーが出演している。 |
| 1968年9月から10月にかけて太平洋ツアー開始。 |
| 9月中オーストラリアで7公演後、来日。 |
| 羽田空港にファンの少女達が殺到し大騒ぎになる。 |
| 1968年10月3日、4日、日本武道館、10月5日、京都会館、10月7日、8日大阪フェスティバルホールにて公演を行った。 |
| なお、武道館公演の模様は当時日本で放送されていたモンキーズ・ショーの特別版として放送された。 |
| (この回はマスターが紛失しその後の再放送では放送されていない)。 |
| 太平洋ツアーの後、1968年11月に放送されたNBCのスペシャル番組『331/3レボリューションズ・パー・モンキー』の出演後、ピーター・トークがグループを脱退。 |
| その後モンキーズは3人で活動を行う。 |
| 1969年2月、ピーター・トーク在籍時に録音済みだった未発表曲の寄せ集め的なアルバム『インスタント・リプレイ(InstantReplay)』をリリース。 |
| この時点でTVシリーズが終わってからほぼ1年が経っており、その後CBS、ABCでTVシリーズの再放送はされてはいたがアルバムチャートは最高32位止まりとなる。 |
| このあとも3人でのツアー及びTVでのゲスト出演、レコーディングをこなして行く。 |
| 1969年10月、マイク・ネスミスが得意とするカントリー色の強いアルバム『プレゼント(Present)』をリリースするものの前作よりも更にセールスは悪化、この作品が3人での最後の作品となる。 |
| この後マイク・ネスミスは莫大な違約金を払ってモンキーズを脱退しファースト・ナショナル・バンドを結成しソロ活動へと移る。 |
| なお現在ではマイク・ネスミスはグラム・パーソンズらと並んでカントリー・ロックのパイオニアとしての評価が定着している。 |
| 1970年6月『チェンジズ(Changes)』をリリースするも話題にすらならなかった。 |
| この頃はパートリッジ・ファミリーやボビー・シャーマンといった新たなるアイドルが躍進中で既にモンキーズは過去の存在と化していた。 |
| 最終的にミッキー・ドレンツとデイヴィー・ジョーンズの2人だけになってしまったモンキーズ最後のアルバム。 |
| この発表と機をほぼ同じくしてモンキーズは解散。 |