| 1875年にフランス南西部、スペインにほど近いバスク地方のシブールで生まれる。 |
| 生家は、オランダの建築家により17世紀に建てられたもので、アムステルダムの運河に面している建物のように完全にオランダ様式を呈して、サン=ジャン=ド=リュズの港に面して建っている。 |
| 母マリーはバスク人であった。 |
| 一方、父ジョゼフはスイス出身の発明家兼実業家であった。 |
| 家族がパリへ移住した後、弟エドゥアールが生まれた。 |
| 音楽好きの父の影響で、7歳でピアノを始め、12歳で作曲の基礎を学んだ。 |
| 両親はラヴェルが音楽の道へ進むことを激励し、パリ音楽院へ送り出した。 |
| 音楽院に在籍した14年の間、ガブリエル・フォーレやエミール・ペサールらの下で学んだラヴェルは、多くの若く革新的な芸術家と行動を共にし、影響と薫陶を受ける1900年頃には、ラヴェルらを中心とした音楽家や詩人たちによる芸術グループ、「アパッシュ」が結成された。 |
| 1898年3月5日の国民音楽協会第266回演奏会において作曲家として公式デビューを果たしたマルト・ドロンとリカルド・ビニェスのピアノにより『耳で聴く風景』が演奏された。 |
| ラヴェルは、1900年から5回にわたって、有名なローマ大賞を勝ち取ろうと試みる。 |
| 2回目の挑戦となった1901年にはカンタータ『ミルラ』で3位に入賞したものの、大賞は獲得できなかった(この時の大賞はアンドレ・カプレ、2位はガブリエル・デュポン)。 |
| 1902年、1903年は本選において入賞を逃し(1902年の大賞はエメ・キュンク、1903年はラウル・ラパラ)、1904年はエントリーを見送った。 |
| 翌1905年は、年齢制限によりラヴェルにとって最後の挑戦となったが、大賞どころか予選段階で落選してしまった。 |
| すでに『亡き王女のためのパヴァーヌ』、『水の戯れ』などの作品を発表していたラヴェルが予選落ちしたことは音楽批評家の間に大きな波紋を呼び、フォーレをはじめ、ロマン・ロランらも抗議を表明した。 |
| さらに、この時の本選通過者6名全てがパリ音楽院作曲家教授であり審査員シャルル・ルヌヴーの門下生であったことはコンクールの公正さの点からも問題視された。 |
| この「ラヴェル事件」により、パリ音楽院院長のテオドール・デュボワ(ThéodoreDubois)は辞職に追い込まれ、後任院長となったフォーレがパリ音楽院のカリキュラム改革に乗り出す結果となったアービー・オレンシュタイン、井上さつき訳『ラヴェル生涯と作品』(音楽之友社、2006年、第2章)。 |
| 1907年、歌曲集『博物誌』の初演後、エドゥアール・ラロの息子ピエール・ラロはこの作品をドビュッシーの盗作として非難し、論争が起こった。 |
| しかし、『スペイン狂詩曲』が高い評価で受け入れられると、すぐに批判はおさまった。 |
| そしてラヴェルは、バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の主宰者セルゲイ・ディアギレフからの委嘱により『ダフニスとクロエ』を作曲した。 |
| 『ダフニスとクロエ』作曲中の1909年にはラヴェルは国民音楽協会と決別し、シャルル・ケックランらと現代的な音楽を新しい音楽の創造を目指す団体、独立音楽協会を旗揚げした。 |
| 第一次世界大戦中、ラヴェルは年齢とその虚弱体質からパイロットとして志願したが、その希望は叶わず、1915年に3月にトラック輸送兵として兵籍登録されたラヴェルが運転するトラックは「アデライード号」と命名された(オレンシュタイン、前掲書、97ページ)。 |
| 当初の手記では、彼が戦時中に運転したトラックは「砲トラック」か総括的なトラックとの言及がほとんどで、救急車を運転するとの言及はないという。 |
| -->ラヴェルの任務は砲弾の下をかいくぐって資材を輸送するような危険なものであったオレンシュタイン、前掲書、97ページ。 |
| 大戦中の1917年1月15日、最愛の母親が76歳でこの世を去る。 |
| 生涯最大の悲しみに直面したラヴェルの創作意欲は極度に衰え、1914年にある程度作曲されていた組曲『クープランの墓』世界大戦で亡くなった友人たちの思い出に捧げられた。 |
| を完成(1917年11月)させた以外は、3年間にわたって実質的な新曲を生み出せず、1920年の『ラ・ヴァルス』以降も創作ペースは年1曲程度と極端に落ちてしまったオレンシュタイン、前掲書、99ページ。 |
| 母の死から3年経とうとした1919年末にラヴェルがイダ・ゴデブスカに宛てた手紙には、「日ごとに絶望が深くなっていく」と、痛切な心情が綴られているオレンシュタイン、前掲書、100ページ。 |
| 1920年1月、ラヴェルはレジオンドヌール勲章叙勲者にノミネートされたが、これを拒否したために物議を醸し、結果的に4月に公教育大臣と大統領によってラヴェルへの叙勲は撤回された。 |
| 1920年代のフランスでは、エリック・サティを盟主とする「フランス6人組」の登場や、複調、無調、アメリカのジャズなど、新しい音楽のイディオムの広まりによって、もはやラヴェルの音楽は時代の最先端ではなくなった。 |
| さかんに演奏旅行を行う一方、ラヴェルの創作活動は低調になり、そのピークである1923年にはヴァイオリンソナタのスケッチしか残せていないオレンンシュタイン、前掲書、113ページ。 |
| 1928年、ラヴェルは初めてアメリカに渡り、4ヶ月に及ぶ演奏旅行を行った。 |
| ニューヨークでは満員の聴衆のスタンディングオベーションを受ける一方、ラヴェルは黒人霊歌やジャズ、摩天楼の立ち並ぶ町並みに大きな感銘を受けた。 |
| この演奏旅行の成功により、ラヴェルの名声は世界に鳴り響いた。 |
| 同年、オックスフォード大学の名誉博士号を授与される。 |
| アメリカからの帰国後、ラヴェルが生涯に残せた楽曲は、『ボレロ』(1928年)、『左手のためのピアノ協奏曲』(1930年)、『ピアノ協奏曲ト長調』(1931年)、『ドゥルシネア姫に心を寄せるドン・キホーテ』(1933年)の、わずか4曲である。 |
| ラヴェルは1927年頃から軽度の記憶障害や言語障害に悩まされていたが、1932年、パリでタクシーに乗っている時、交通事故に遭い、これを機に症状が徐々に進行していった。 |
| タクシー事故にあった同年に、最後の楽曲『ドルシネア姫に想いを寄せるドン・キホーテ』の作曲に取り掛かるが、楽譜や署名を頻繁にスペルミスをするようになり、完成が長引いている。 |
| 字を書くときに文字が震え、筆記体は活字体になり、わずか50語程度の手紙を1通仕上げるのに辞書を使って1週間も費やした。 |
| 動作が次第に緩慢になり、手足をうまく動かせなくなり、それまで得意だった水泳ができなくなった。 |
| 言葉もスムーズに出なくなったことからたびたび癇癪を起した。 |
| また渡されたナイフの刃を握ろうとして周囲を慌てさせたが、自身の曲の練習に立ち会った際には演奏者のミスを明確に指摘しているどんな病気にかかっていたか、またその原因が交通事故によるものなのかどうかは諸説あるピック病、ウェルニッケ失語症、アルツハイマー型認知症の説があった。 |
| 行動に支障をきたしながらも、正確な知覚を示す数々の記録から、全般的痴呆を伴わない緩徐進行性失語症slowlyprogressiveaphasiawithoutglobaldementiaが有力な候補として挙がっている。 |
| 参考文献:岩田誠『脳と音楽』メディカルレビュー社2001年ISBN4896003764。 |
| 1933年11月、パリで最後のコンサートを行い、代表作『ボレロ』などを指揮するが、この頃にはお手本がないと自分のサインも満足にできない状態にまで病状が悪化しており、コンサート終了後、ファンからサインを求められたラヴェルは、「サインができないので、後日弟にサインさせて送る」と告げたという。 |
| 1934年には周囲の勧めでスイスのモンペルランで保養に入ったが、いっこうに健康が回復せず、病状は悪化の一途をたどった。 |
| 1936年になると、周囲との接触を避けるようになり、小さな家の庭で一日中椅子に座ってボーっとしていることが多くなった。 |
| たまにコンサートなどで外出しても、無感動な反応に終始するか、突発的に癇癪を爆発させたりで、周囲を困惑させた。 |
| 病床にあって彼はいくつかの曲の着想を得、それを書き留めようとしたがついに一文字も書き進める事が出来なくなったと伝えられる。 |
| ある時、友人に泣きながら「私の頭の中にはたくさんの音楽が豊かに流れている。 |
| それをもっとみんなに聴かせたいのに、もう一文字も曲が書けなくなってしまった」と呟いた。 |
| 同時期、ラヴェルは神経学者T・アラジョアニヌ博士の診察を受け、博士の勧めで1937年12月17日にヴァンサン教授の執刀のもとで手術を受けた。 |
| この手術は彼が一縷の望みをかけたものだったが、左半球の症状であるにもかかわらず、右半球を開頭し、萎縮した脳を膨らまそうとして水を注入するなど、ほとんど無意味なものだった。 |
| 手術後、一時的に容体が改善したが、まもなく昏睡状態に陥り、意識が戻らぬまま12月28日に息を引き取った。 |
| 会葬にはダリウス・ミヨー、フランシス・プーランク、イーゴリ・ストラヴィンスキーらが立会い、遺体はルヴァロワ=ペレ(パリ西北郊)に埋葬された。 |
| 晩年を過ごしたイヴリーヌ県モンフォール・ラモリ(Montfort-l'Amaury)にあるラヴェルの最後の家は、現在ラヴェル博物館( |
| 浮世絵を含む絵画や玩具のコレクション、作曲に用いられたピアノなどが展示されている。 |
| ラヴェルは一生独身を貫き、弟のエドゥワールも晩婚で子供をもうけなかったため、ラヴェル家の血筋はエドゥワールの死(1960年)をもって永遠に途絶えた。 |