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プロフィール
- ユスティニアヌス1世とは
- 出生から即位
- 治世初期とニカの乱
- 再征服
- 晩年
- 法制上の業績
- サーサーン朝との戦争(527年~532年)
- 北アフリカ征服(533年~534年)
- イタリア戦役第一段階(535年~540年)
- イタリア戦役第二段階(541年~554年)
- 宗教上の業績
- 宗教政策
- ローマとの宗教的関係
- 異教徒迫害
- 正式称号
- 関連サイト
ユスティニアヌス1世(,483年-565年11月13日または14日)は、東ローマ帝国ユスティニアヌス王朝の第2代皇帝(在位:527年-565年)。正式名は、フラウィウス・ペトルス・サッバティウス・ユスティニアヌス()。後世「大帝」とも呼ばれたように、古代末期における最も重要な人物の一人である。その治世は東ローマ帝国史における画期的な時代をなし、当時の帝国の版図を押し広げた。これは、野心的だが最終的には失敗した「帝国の再建」(renovatioimperii)に特徴づけられる。この野望はローマを含む西ローマ帝国の領土を部分的に回復したことに表される。しかしその栄光の時代も、540年代前半の黒死病(ユスティニアヌス ...
出生から即位
| のちに皇帝ユスティニアヌス1世となるペトルス・サッバティウスは、483年にダルダニア属州タウレシウム(現マケドニア共和国スコピエ近傍)で農民の子として生まれたM.Meier,''Justinian'',29:"481or482";Moorhead(1994),p.17:"about482";Maas(2005),p.5:"around483".。 |
| ラテン語を話す彼の家族はトラキア系ローマ人またはイリュリア系ローマ人であると考えられているJustinianreferredtoLatinasbeinghisnativetongueinseveralofhislaws.SeeMoorhead(1994),p.18. |
| のちに彼が用いるコグノーメンのIustinianusは叔父のユスティヌス1世の養子となったことを意味するThesolesourceforJustinian'sfullname'',FlaviusPetrusSabbatiusIustinianus''(sometimescalled''FlaviusAniciusJustinianus''),areconsulardiptychsoftheyear521bearinghisname.。 |
| 彼の治世中に出身地から遠くない場所にユスティニア・プリマを建設している |
| 母ウィギランティアはユスティヌスの姉だった。 |
| 叔父のユスティヌスは近衛隊(''Excubitores'')に属しており、ユスティニアヌスを養子とし、コンスタンティノープルへ招き寄せて養育した。 |
| このため、ユスティニアヌスは法学と神学そしてローマ史について高い知識を持っていた。 |
| 彼はしばらく近衛隊に勤務していたが、経歴の詳細については分かっていない。 |
| ユスティニアヌスと同時代の年代記編者ヨハネス・マララスはユスティニアヌスの外見について背が低く、色白で、巻き毛、丸顔の美男子だったと述べている。 |
| もう一人の同時代の年代記編者プロコピオスは(おそらく中傷だが)ユスティニアヌスの外見を暴君ドミティアヌスに喩えているCambridgeAncientHistoryp.65。 |
| 518年にアナスタシウス1世が死去すると、ユスティヌスはユスティニアヌスの大きな助けを受けて新帝即位を宣言した。 |
| ユスティヌス1世の治世(518年~527年)においてユスティニアヌスは皇帝の腹心となった。 |
| ユスティニアヌスは大望を抱き、共同皇帝になる以前から事実上の摂政の役割を果たしていたとされるが、それを確認する証拠はないMoorhead(1994),pp.21-22,withareferencetoProcopius,:en:SecretHistory8.3.。 |
| 治世の末期にユスティヌスが老衰するとユスティニアヌスは事実上の統治者となった。 |
| 521年にユスティニアヌスは執政官に任命され、後に東方軍司令官ともなっているこの役職は名義上のものとみられる。 |
| ユスティニアヌスが軍務経験をした証拠はない。 |
| A.D.Lee,"TheEmpireatWar",in:MichaelMaas(ed.),''TheCambridgeCompaniontotheAgeofJustinian''(Cambridge2005),pp.113-133(pp.113-114)参照。 |
| 525年頃にユスティニアヌスは20歳年下の踊り子テオドラと結婚した。 |
| 当初、ユスティニアヌスは階級の違いのために彼女と結婚できなかったが、叔父の皇帝ユスティヌス1世が異なる階級間の結婚を認める法律を制定したM.Meier,''Justinian'',p.57.。 |
| テオドラは帝国の政治に大きな影響を与えるようになり、ユスティニアヌスの後の皇帝たちも貴族階級以外から妻を娶るようになった。 |
| この結婚は醜聞となったものの、テオドラは非常に知的で、抜け目なく、公正な性格を示してユスティニアヌスの偉大な後援者となった。 |
| ユスティヌス1世の死が迫る527年4月1日にユスティニアヌスはカエサル(副帝)に就任し、同年8月1日のユスティヌス1世の崩御により単独統治者となった。 |
治世初期とニカの乱
| 統治者としてのユスティニアヌスは非常な精励さを示した。 |
| その働きぶりから、彼は「眠らぬ皇帝」として知られたが、一方で人付きがよく、忠告を受け入れる人物でもあったSeeProcopius,''Secrethistory'',ch.13.。 |
| ユスティニアヌスは地方の下層階層出身であったため、コンスタンティノープルの伝統的な貴族階層に権力基盤を持たなかった。 |
| その代わり、彼は生まれではなく功績によって選ばれた非常に才能のある男女に取り巻かれていた。 |
| 有能な臣下には司法長官のトリボニアヌス、外交官で長きにわたり宮内長官を務めたペトロ・パトリキウス、財務長官カッパドキのヨハネスそしてかつてなく効果的に徴税を行い、これによってユスティニアヌスの一連の戦役の財源を賄ったペトロ・バルシャメス、そして最後に偉大な名将ベリサリウスがいた。 |
| 528年、ユスティニアヌスはトリボリアヌスらに古代ローマ法の集大成である『ローマ法大全』(''CorpusIurisCivilis'')の編纂を命じる。 |
| 529年、古代からの伝統的多神教(異教)を弾圧。 |
| アテネのアカデメイアを閉鎖し、学者を追放した。 |
| ユスティニアヌスの有能ではあるが人気のない助言者を登用する傾向はその治世の初期に危うく帝位を失わせかけている。 |
| 532年1月、コンスタンティノープルの戦車競走の支持者の党派が団結して後にニカの乱の名で知られる暴動を起こした。 |
| 彼らはトリボニアヌス他2名の大臣の罷免を要求し、更にはユスティニアヌス自身を打倒してアナスタシウス1世の甥である元老院議員ヒュパティオスに替えさせようとした。 |
| 群衆が市街で暴動を起こしている間、ユスティニアヌスは首都からの逃亡を考えたが、皇后テオドラの叱咤によって街に留まった。 |
| 続く2日間に彼はベリサリウスとムンドゥスの二人の将軍に容赦ない鎮圧を命じた。 |
| 歴史家プロコピオスは競技場で30,000人J.Norwich,''Byzantium:TheEarlyCenturies'',200の非武装の市民が殺害されたと述べている。 |
| テオドラの主張により(ユスティニアヌス自身の判断に反して,Diehl,Charles.''Theodora,EmpressofByzantium''((c)1972byFrederickUngarPublishing,Inc.,transl.byS.R.RosenbaumfromtheoriginalFrench''Theodora,ImperaticedeByzance''),89.)、アナスタシウス1世の甥たちは処刑されたVasiliev(1958),p.157.。 |
再征服
| ''詳細は「軍事上の業績」の節で後述する''。 |
| 青色と緑色部分はトラヤヌス時代のローマ帝国。 |
| 赤線は東西ローマの分割線。 |
| 国内の危機を乗り切ったユスティニアヌスは再征服に乗り出すことになる。 |
| 532年6月にサーサーン朝ペルシアとの間に「永久平和条約」を結んで東方国境を安定させると、翌533年、ベリサリウス将軍を北アフリカへ派遣してゲルマン人国家ヴァンダル王国を征服させた。 |
| 535年、ゲルマン人国家東ゴート王国の内紛に乗じてベリサリウスをイタリアへ派遣した。 |
| 翌年末にローマを奪回したものの、東ゴート側の強固な抵抗に遭い戦争は長期化する。 |
| 537年、ニカの乱で焼失したハギア・ソフィア大聖堂(現アヤソフィア博物館)の再建が完了。 |
| ビザンティン建築の最高峰として、現代まで伝えられることに。 |
| 完成時の奉献式で、古代イスラエル王国のソロモン王の大神殿を凌駕する聖堂を建てたという思いから「我にかかる事業をなさせ給うた神に栄光あれ!ソロモンよ、我は汝に勝てり!」と叫んだと伝えられる。 |
| 540年にベリサリウスが東ゴート王国の首都ラヴェンナを攻略し、東ゴート王ウィティギスを捕らえてコンスタンティノープルへ帰還したものの、イタリアでは依然として東ゴートの残党が勢力を保っていた。 |
| 541年、共和制ローマ以来の執政官制度を廃止する。 |
| 542年、黒死病が大流行し多くの死者が出て政府も機能不全に陥る(ユスティニアヌスのペスト)。 |
| これにより東ローマ帝国の人的資源は大打撃を受け、ユスティニアヌスのローマ帝国再興事業は衰退に向かうことになる。 |
晩年
| ユスティニアヌスは皇后よりおよそ20年間長生きしており、神学上の問題に関心を寄せてカトリック教義についての議論に積極的に参加しTheologicaltreatisesauthoredbyJustiniancanbefoundinMigne's'':en:PatrologiaGraeca'',Vol.86.、553年には第2コンスタンティノポリス公会議を主宰している。 |
| 552年にベリサリウスと交代したナルセス将軍がイタリアで抵抗を続けていた東ゴート王トティラを戦死させ、次いでテヤ王を破って東ゴート残党をせん滅し、554年末までにイタリア半島の平定を完了した。 |
| しかし、長い戦いでイタリアは荒廃し、ローマ市の人口は500人にまで減少したとも言われる「世界の歴史 第11巻 ビザンツとスラヴ」p48。 |
| 565年11月13日から14日にかけての夜にユスティニアヌスは崩御した。 |
法制上の業績
| 2世紀以降の帝国諸法を成文化した勅法彙纂の最初の草案は529年5月7日に発布された。 |
| 『ローマ法大全』はラテン法哲学(教会法典を含む)の基礎を形作り、歴史家に後期ローマ帝国の関心と活動に関する価値ある見通しを提供している。 |
| 編纂物としてこれは正式な法律、元老院の協議(senatusconsulta)、勅令、判例そして法学者の意見と解釈(responsaprudentum)といった著述または発布された法(leges)と、その他の規則からなる多くの資料を集積したものである。 |
| バシレイオス1世とレオーン6世の時代に編纂された『バシリカ法典』()で述べられているように、これは東ローマの法律の基礎となった。 |
| 西部の地方でユスティニアヌス法が導入されたのはイタリアだけだったが(征服後の554年に出された国本勅諚によるKunkel,W.(translatedbyJ.M.Kelly)''AnintroductiontoRomanlegalandconstitutionalhistory.''Oxford,ClarendonPress,1966;168)、ここから12世紀に西ヨーロッパへ伝わり、多くのヨーロッパ諸国の法典の基礎となった。 |
サーサーン朝との戦争(527年~532年)
| 530年、ペルシャ軍はダラの戦いで撃破されたが、その翌年には今度はベリサリウス率いるローマ軍がカリニクムの戦いで敗れている。 |
| 531年9月にペルシャ王カワード1世が死去すると、ユスティニアヌスは後継者のホスロー1世に金11,000ポンドJ.Norwich,''Byzantium:TheEarlyCenturies'',195.を支払って「永久平和条約」を締結した(532年)。 |
北アフリカ征服(533年~534年)
| 533年、92隻のデュロモイ(戦艦)に守られた500隻の輸送船で出征したベリサリウスは兵15,000と蛮族兵数部隊を率いて現在のチュニジアのヴァダ岬(現在のカプララ岬)に上陸した。 |
| ベリサリウスは9月14日のデキムムの戦いそして12月のトリカマルムの戦いでヴァンダル軍に奇襲をかけて破り、カルタゴを占領した。 |
イタリア戦役第一段階(535年~540年)
| 534年10月2日まだ年少のアタラリック王が死去すると簒奪者テオダハドは女王アマラスンタ(初代国王テオドリックの娘でアタラリックの母)をボルセーナ湖のマルターナ島へ幽閉し、翌535年に暗殺してしまった。 |
| そこで直ちに兵7,500J.Norwich,''Byzantium:TheEarlyCenturies'',215を率いたベリサリウスがシチリア島へ侵攻してイタリア半島へ進軍、ナポリを略奪し、536年12月9日にローマを占領した。 |
イタリア戦役第二段階(541年~554年)
| イルディバルド王、エラリーコ王(両人とも541年に殺害)そしてとりわけトティラ王のもとで東ゴートは急速に領土を拡大した。 |
| 554年にはフランク族の大規模な侵攻をウォルトゥルヌスで撃退して帝国はイタリアを確保したものの、ナルセスは東ゴート残党の完全な平定になお数年を要している。 |
宗教上の業績
| 単性論の教義は451年のカルケドン公会議で異端として非難されており、皇帝ゼノンとアナスタシウス1世の単性論に対する寛容政策はローマ司教との緊張状態の原因となっていた。 |
宗教政策
| 治世の初めから、彼は三位一体と受肉を法によって広めることが適切であるとみなし、そして全ての異端に適当な処罰を加えることにより威嚇し''Cod.'',I.,i.5.、故にその後に彼は適法手続きによって正統的信仰へのすべての妨害者から犯罪の機会を奪うつもりであると宣言した''MPG'',lxxxvi.1,p.993.。 |
ローマとの宗教的関係
| コンスタンディヌーポリ総主教フラヴィアノスへのローマ教皇レオ1世の教書は東方では悪魔の仕業であると考えられており、そのため誰もローマの教会について聞くことを望まなかった。 |
異教徒迫害
| ドン川流域に居住するヘルリ族:en:Procopius,''BellumGothicum'',ii.14;Evagrius,''Hist.eccl.'',iv.20、フン族Procopius,iv.4;Evagrius,iv.23.、カフカスProcopius,''BellumPersicum'',i.15.のアブハジア族Procopius,iv.3;Evagrius,iv.22.、タザニ族といった多くの人々もキリスト教を受け入れた。 |
| リビア砂漠のアウギリアにおけるアメン神崇拝は廃止されProcopius,''DeAedificiis'',vi.2.、そして同じことがナイル川第一瀑布のフィラエ島でのイシス神崇拝の残滓でも起こったProcopius,''BellumPersicum'',i.19.。 |
正式称号
| アラマンニ人の、ゴート人の、フランク人の、ゲルマン人の、アント人の、アラン人の、ヴァンダル人の、アフリカ人の、敬虔な、幸いある、輝かしい、勝利者、凱旋者、永遠のアウグストゥス。 |
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1453年
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オスマン帝国によって東ローマ帝国が滅亡した... |
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2010年
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島崎晋『名言でたどる世界の歴史』PHP研究所... |
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