| 党内での昇進を経て、ソ連の最高指導者(国家元首に就任したことはない)となってからは、レーニン主義の原理を基礎とした政治を確立し、一国社会主義論に立脚した統治を行うようになった。 |
| 批評家は、スターリンの統治が独裁者特有のものであり、その政治形態をスターリニズムと呼ぶ。 |
| Bullock,p.548,"bothdictators".。 |
| Ulam,p.xiv,"thedictatornotonlydeprived".。 |
| Davies,Harris,p.108,"Stalinasdictator".。 |
| Mawdsley,p.1,"effectivelyadictator".。 |
| Overy,p.17,"and,later,asdictator"。 |
| 一方で、これらの非難は曲解や誇張であると否定する者もおり、現在でも未だに論争が続いている人物の1人である。 |
| ウラジーミル・レーニンの死後、レフ・トロツキーら他の党員との権力闘争に勝利しトロツキーを共産党から除名し、さらに国外追放した(トロツキーは後に亡命先のメキシコで暗殺された)。 |
| 党員名簿と経理を掌握することで実権を握り、のちの強大な権力の地盤を築いた。 |
| 1921年に施行された新経済政策(ネップ)を、1928年に第一次五ヶ年計画に替えたことでソ連は急速な工業化と経済成長を見せた。 |
| しかしながら、スターリンはおよそ同時期の集団農場促進の取り組みや、一部が完全な失敗に終わったと論ぜられる新しい農業政策に乗り出し、ソ連内で続いた干ばつと飢饉によって数百万人の死者を出した。 |
| この飢饉と数多くの犠牲者が出たことについて、反共主義者が書いた共産主義黒書(TheBlackBookofCommunism)では、犠牲者は1000万人を超えると見ているが、スターリンを信奉するベルギーの歴史学者ルド・マルタン(LudoMartens)とStefanMerlは、犠牲者は30万人と推定しているなど、依然として歴史的・政治的論争の議題となっている。 |
| 主流の歴史学者からは、この重大な飢饉(Sovietfamineof1932-1933)でソビエト人民約600万人が死亡したと信じられているDaviesandWheatcroft''TheYearsofHunger:SovietAgriculture,1931-1933'',p.401.Forareview,see |
| 1930年代の終わり頃には、党内の反対派や「反革命的」とみなした者を排除するために大粛清を実行。 |
| 数多くの批評家が、スターリンは政敵の排除のために不当な逮捕や処刑を行い、政治的理由によって人民を強制収容所のグラグに収容したと述べている。 |
| ほかに「人民の敵」とみなした者を「粛清」と称して弾圧し、さらに無実の人間も含めて多数の人間を虐殺するなど過酷な抑圧政策を取ったことでも知られており、『赤いツァーリ』の称号で呼ばれることも多い。 |
| 反対する者や政敵の粛清を経て実質的な最高指導者となり、独裁的な権力を振るった。 |
| 同時代のアドルフ・ヒトラーや後年の毛沢東と並び、独裁者の典型例とされる平凡社『世界大百科事典』第二版。 |
| スターリン政権下のソ連は、第二次世界大戦でナチス・ドイツによる侵攻の矢面に立たされた。 |
| スターリンはナチス撃破のために大きく果断な処置を取った。 |
| 旧ソ連ではスターリンのことを、五カ年計画の成功でソビエトをアメリカに次ぐ世界第二番目の経済大国へと躍進させ、ナチス・ドイツの侵略から祖国を守った英雄と認識している人々も少なくない。 |
| スターリンの統率は、強力な個人崇拝やプロパガンダによって強固なものとなり、結果として(犯罪者と「なった」者も含めて)ソ連の大多数の人々によって英雄とみなされた |
| 彼が存命の頃のソ連は、プロパガンダによって共産主義の希望の星として憧憬の目が注がれていた。 |
| スターリンは自身への個人崇拝を助長させたが、その死後、ニキータ・フルシチョフによるスターリン批判が起こり、スターリンの残した負の遺産は非難され、ソ連国内で非スターリン化が推進された。 |
| これにより、スターリンによる独裁の時代の政治体制・主張・理論は、右翼陣営だけでなく左翼陣営からも否定されるようになり、多くの共産主義者から批判・敵視されることとなった。 |