1895
2002
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- 管弦楽・協奏曲
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ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(,1685年3月31日(ユリウス暦1685年3月21日)-1750年7月28日)は、18世紀に活動したドイツの作曲家・器楽演奏家である。特に鍵盤楽器の演奏においては高名で、当時から即興演奏の大家として知られていた。西洋 音楽史上における存在の大きさから、「音楽の父」と称されることもある。ベートーヴェン、 ブラームスとともに“ドイツ三大B”と呼ばれる。バッハ一族は音楽家の家系で、その他のバッハとの混乱を避けるためにJ.S.バッハと略記することがある。また、 バッハ家でもっとも偉大であるという意味で大バッハとい ...
バッハ家
| バッハ家は、ドイツ中部テューリンゲン地方で代々音楽を職業とした一族であった。 |
| 約2世紀半の間にバッハ家が輩出した音楽家は約60人に達し、遺伝学の研究対象とされたこともある。 |
生涯
| アイゼナハの町楽師ヨハン・アンブロジウスの末子として生まれた。 |
| バッハが9歳の時に母が死去、10歳の時に父が死去し、オールドルフの兄ヨハン・クリストフの家に引き取られて勉学に励んだ。 |
| 1700年にリューネブルクに移り、修道院付属学校の給費生として生活した。 |
| 1703年にヴァイマルの宮廷楽団に就職し、まもなくアルンシュタットの新教会のオルガニストになった。 |
| すでにバッハの能力は高く評価されており、1707年、ミュールハウゼンの聖ブラジウス教会オルガニストに(教会付きオルガニストとしては)異例の好条件で招かれた。 |
| 同じ年、遠戚でひとつ歳上のマリア・バルバラ・バッハと結婚。 |
| 2人の間に生まれた7人の子供のうち、フリーデマンとエマヌエルは高名な音楽家になった。 |
| 1708年、再びヴァイマルに移って宮廷オルガニストとなった。 |
| 多くのオルガン曲はこの時期の作品である。 |
| 1714年には楽師長に昇進、一月に一曲のカンタータを作曲、上演した。 |
| しかし最終的には主家のお家騒動の余波を受けて投獄された後、ヴァイマルを追放された。 |
| 1717年、ケーテンの宮廷楽長となり、恵まれた環境の中で、数多くの世俗音楽の名作を作曲した。 |
| 1719年5月、ハレに帰郷し家族と共に過していたヘンデルに、そこから4マイル離れたケーテンにいたバッハが会いに訪れたが、到着した日にはヘンデルが出発した後だったため出会うことができなかった。 |
| 1720年夏、領主レオポルト侯に従っての旅行中に妻が急死する不幸に見舞われ、翌年、宮廷歌手のアンナ・マクダレーナ・ヴィルケと再婚した。 |
| 彼女は有能な音楽家であったと見られており、夫の仕事を助け、作品の写譜などもしている。 |
| 有名な『アンナ・マクダレーナ・バッハのためのクラヴィーア曲集』は彼女のためにバッハが贈った楽譜帳で、バッハの家庭で演奏された曲が折々に書き込まれていった。 |
| アンナ・マクダレーナとの間に生まれた13人の子供のうち、末子クリスティアンは兄弟の中では音楽家として最も社会的に成功し、イングランド王妃専属の音楽家となった他、モーツァルトに大きな影響を与えた。 |
| 彼らの他にも、バッハには成人した4人の息子がいるが、彼らはみな音楽家として活動した(下記)。 |
| 1723年、ライプツィヒの聖トーマス教会のカントル「トーマスカントル」に就任。 |
| 同時にライプツィヒ市の音楽監督にもなり、教会音楽を中心とした幅広い創作活動を続けた。 |
| ルター派の音楽家として活動していたが、王のカトリックへの宗旨変えに応じ、宮廷作曲家の職を求めてカトリックのミサ曲も作曲している。 |
| 1729年1月にはハレ滞在中のヘンデルに長男フリーデマンを派遣。 |
| ヘンデルのライプツィヒ招待を申し出たが断られた。 |
| これ以後、ヘンデルと出会う機会が訪れることはなかった。 |
| 1736年にはザクセンの宮廷作曲家に任命された。 |
| 1747年にはエマヌエルが仕えていたベルリンのフリードリヒ大王の宮廷を訪問、これは『音楽の捧げもの』が生まれるきっかけになった。 |
| 1749年頃には以前より患っていた内障眼が悪化し、1750年3月末と4月半ばにイギリスの眼科医ジョン・テイラーによる手術を2度にわたって受けたが回復せず、その後は病床に伏し、7月28日午後8時15分に65歳でこの世を去った。 |
| なお、後年にヘンデルも同医師による眼疾患の手術を受けたが失敗に終わっている。 |
| 生前のバッハは作曲家というよりもオルガンの演奏家・専門家として高く評価されていたが、彼の楽曲は息子や弟子たちによって細々と、しかし確実に受け継がれ、1829年のメンデルスゾーンによるマタイ受難曲のベルリン公演をきっかけに「再発見」されて高く評価されるようになった。 |
子ども
| ヴィルヘルム・フリーデマン(WilhelmFriedemann、1710-1784)長男。 |
| 通称「ハレのバッハ」。 |
| カール・フィリップ・エマヌエル(CarlPhilippEmanuelまたはC.P.E.、1714-1788)次男。 |
| 通称「ベルリンのバッハ」、「ハンブルクのバッハ」。 |
| ゴットフリート・ハインリヒ(GottfriedHeinrich、1724-1763)四男。 |
| ヨハン・クリストフ・フリードリヒ(JohannChristophFriedrich、1732-1795)五男。 |
| 通称「ビュッケンブルクのバッハ」。 |
| ヨハン・クリスティアン(JohannChristian、1735-1782)末子。 |
| 通称「ロンドンのバッハ」。 |
| また、架空の息子(?)も存在する。 |
| P. D. Q. バッハ(P.D.Q.、1807-1742)20世紀にアメリカの教授ピーター・シックリーがバッハの21番目の息子として捏造し、冗談音楽の作品を発表した。 |
作品
| バッハは幅広いジャンルにわたって作曲を行い、オペラ以外のあらゆる曲種を手がけた。 |
| その様式は、通奏低音による和声の充填を基礎とした対位法的音楽という、バロック音楽に共通して見られるものであるが、特に対位法的要素を重んじる傾向は強く、当時までに存在した音楽語法を集大成し、さらにそれを極限まで洗練進化させたものである。 |
| 従って、バロック時代以前に主流であった対位法的なポリフォニー音楽と古典派時代以降主流となった和声的なホモフォニー音楽という2つの音楽スタイルにまたがり、結果的には音楽史上の大きな分水嶺のような存在となっている平凡社 世界大百科事典(1974年版)24巻 バッハの項目。 |
| バッハはドイツを離れたことこそなかったが、勉強熱心で幅広い音楽を吸収した。 |
| ダングルベール、リュリ、クープランなどのフランス音楽からは細部の語法や優美さ、フレスコバルディ、コレッリ、ヴィヴァルディなどのイタリア音楽からは明朗な旋律やくっきりした形式感、南ドイツの音楽(フローベルガーやパッヘルベル)に見られる暖かな叙情性、北ドイツの音楽(スウェーリンク、ヴェックマン、ブクステフーデなど)からは深い幻想性や重厚な和声感、さらにはイギリス音楽の代表者パーセルや、ルネサンス時代後期のイタリアの作曲家パレストリーナに代表される「古様式」までもを研究した。 |
| ※独自研究的記述。 |
| 要出典-->とりわけ、古典派のソナタにも比すべき論理性と音楽性を持つフーガの巨匠として名高い。 |
| 現代においてもなお新鮮さを失うことなく、ポップスやジャズに至るまで、あらゆる分野の音楽に応用され、多くの人びとに刺激を与え続けている。 |
| バッハの作品はシュミーダー番号(BWV、「バッハ作品目録」''BachWerkeVerzeichnis''の略)によって整理されている。 |
| 「バッハ作品目録」は、1950年にヴォルフガング・シュミーダーによって編纂され、バッハの全ての作品が分野別に配列されている。 |
| また1951年からドイツのヨハン・ゼバスティアン・バッハ研究所(ゲッティンゲン)で「新バッハ全集」の編纂が開始され、1953年にバッハアルヒーフ(ライプツィヒ)もこの編纂に参加するが、10年で終わると予想されていた編纂作業がドイツの東西分断などの事情で難航し2007年に「新バッハ全集」103巻が完成した。 |
| 「新バッハ全集」には1100の作品が収められている。 |
| 現在も作品の整理が継続中である。 |
管弦楽・協奏曲
| 器楽だけによる合奏曲では、ブランデンブルク協奏曲、管弦楽組曲、複数のヴァイオリン協奏曲、チェンバロ協奏曲などがある。 |
| 特にブランデンブルク協奏曲や管弦楽組曲には、G線上のアリアのもととなる楽章など、広く親しまれている作品が多い。 |
| なお、4台のチェンバロのための協奏曲BWV1065は、アントニオ・ヴィヴァルディの協奏曲協奏曲集『調和の霊感』Op.3の10、4つのヴァイオリンとチェロのための協奏曲」の編曲である。 |
室内楽曲
| 室内楽曲作品はそれまで伴奏として扱われてきたチェンバロの右手パートを作曲することによって、旋律楽器と同等、もしくはそれを上回る重要性を与え、古典派の二重奏ソナタへの道を開いたヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ、フルートとチェンバロのためのソナタ、ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタなどは特に重要である。 |
| なお、バッハの場合の「ソナタ」とはいわゆるバロック・ソナタ(大部分が緩・急・緩・急の4楽章からなる教会ソナタのスタイルをとる)であり、古典派以後の「ソナタ」より簡潔な形である。 |
オルガン曲
| バッハの器楽曲の中でもオルガン曲は歴史的に重要である平凡社 世界大百科事典(1974年版)4巻 オルガンの項目(バッハ以降)。 |
| 生前のバッハはオルガンの名手として著名で、その構造にも精通していた。 |
| また聴覚に優れ、教会やホールの音響効果を精緻に判別できた。 |
| そのため、各地でオルガンが新造されたり、改造された際にはたびたび楽器の鑑定に招かれ、的確なアドバイスとあわせて即興演奏をはじめとした名技を披露し、聴衆に圧倒的な印象を与えたと伝えられている。 |
| 『故人略伝』が伝える有名な逸話として、1717年、ドレスデンにおいてフランスの神童と謳われたルイ・マルシャンと対戦することになった際、マルシャンはバッハの余りに卓越した演奏に恐れを為して対戦当日に逃げ出し、バッハの不戦勝となったというルイ・マルシャンを参照。 |
| バッハのオルガン作品は、コラールに基づいた「コラール編曲」と、コラールに基づかない「自由作品」(前奏曲、トッカータやフーガなど)の2つに分類される。 |
| 現存する主要作品は、30曲余りの自由作品と、コラール前奏曲の4つの集成(オルガン小曲集を含む)、いくつかのコラール変奏曲である。 |
クラヴィーア曲
| バッハの時代には、ピアノはまだ普及するにいたっておらず、彼のクラヴィーア(オルガン以外の鍵盤楽器の総称)作品は、概ねチェンバロやクラヴィコードのために書かれたものとされている。 |
| その多くはケーテンの宮廷楽長時代に何らかの起源を持ち、息子や弟子の教育に対する配慮もうかがえるものとなっている。 |
| 平均律クラヴィーア曲集(DaswohltemperierteKlavier独)(全2巻、第1巻BWV846‐BWV869、第2巻BWV870‐BWV893)-長短24調による48の前奏曲とフーガ。 |
| ベートーヴェンのソナタがピアノの新約聖書と称されるが、このバッハの平均律クラヴィーア曲集はピアノの旧約聖書と称される。 |
| クラヴィーア練習曲集(全4巻、第1巻「パルティータ」BWV825‐BWV830、第2巻「フランス風序曲」BWV831及び「イタリア協奏曲」BWV971、第3巻「前奏曲とフーガ変ホ長調」BWV552、コラール編曲BWV669‐689及び「デュエット」BWV802‐805、第4巻「ゴルトベルク変奏曲」BWV988)-バッハが生前に出版した鍵盤作品集。 |
| 第1巻、第2巻及び第4巻は手鍵盤のための作品だが、第3巻には足鍵盤つきのオルガン曲が多く含まれている。 |
その他器楽曲
| 旋律楽器のための無伴奏作品集には無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ、無伴奏チェロ組曲の2つがある(この他、無伴奏フルートのためのパルティータが1曲ある)。 |
| これらは、それぞれの楽器の能力の限界に迫って多声的に書かれた作品群であり、それぞれの楽器の演奏者にとっては聖典的な存在となっている。 |
| 特に、無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番の終曲にあたる「シャコンヌ」は人気の高い作品で、オーケストラ用やピアノ用など、19世紀以降様々な編曲が行われている。 |
| また、バッハは当時廃れつつあったリュートにも強い関心を示し、複数の楽曲(BWV995-1000、1006a)を残した。 |
| ただし、近年の研究では、BWV996など幾つかの作品は、ガット弦を張った鍵盤楽器ラウテンヴェルクのために書かれたと推定されている。 |
| これらの作品は、今日、20世紀に復活したバロックリュートで弾かれるほか、クラシックギター向けの編曲作品も広く演奏されている。 |
声楽曲
| バッハはその音楽的経歴の大部分を教会音楽家として送り、宗教的声楽曲は彼の作品群の中でも重要な位置を占める。 |
| 特に、ライプツィヒ時代の初期数年間においては、毎日曜日の礼拝にあわせて年間50~60曲ほど必要となるカンタータをほぼ毎週作曲、上演するという、驚異的な活動を行った。 |
| ちなみに、彼は、宗教曲の清書自筆譜の冒頭に「JJ」(羅:Jesujuva!=イエスよ、助けたまえ)と、最後に「SDG」(羅:SoliDeoGloria!=ただ神のみに栄光を)と書き込むことを常としていた。 |
| 今日残されているのは、ドイツ語による約200曲の教会カンタータ(本来は5年分:約250曲で約50曲が既に紛失)、2つの受難曲(3番目のマルコ受難曲のレチタティーヴォが紛失)と3つのオラトリオ、6曲のモテット、ラテン語によるマニフィカト1曲、小ミサ曲(ルーテルミサ)4曲と大ミサ曲1曲が主要なものである(ドイツ語作品では、ルター派の伝統に立脚したコラールが音楽的な基礎となっていることが多い)。 |
| 目的は様々で、領主への表敬、結婚式や誕生日祝い、さらにコーヒー店での演奏会用の作品と見られるもの(『コーヒー・カンタータ』、BWV.211)もある。 |
| 1727年にライプツィヒにて初演された。 |
| 後世、メンデルスゾーンによって取り上げられ、バッハを一般に再認識させるきっかけとなったと言われている。 |
| 最初の2つの部分、キリエ(''Kyrie'')及びグローリア(''Gloria'')は1733年に、サンクトゥス(''Sanctus'')が1724年に書かれ、残り大半は1747年から49年にかけて既存作品を利用しつつ作曲された。 |
特殊作品
| 音楽の捧げものBWV1079やフーガの技法BWV1080に代表される。 |
| この2つの作品は、いずれも1つの主題に基づいて作られており、フーガあるいはカノンの様々な様式が用いられている。 |
| カノン風変奏曲「高き御空より」BWV769もここに含まれるべきであるが、楽器指定が明確であるためオルガン曲として分類されている。 |
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1700年
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リューネブルクに移り、修道院付属学校の給費... |
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ヴァイマルの宮廷楽団に就職し、まもなくアル... |
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