| 1977年4月、20歳で来日し入団鈴木洋史(1998),p63。 |
| 当時のニックネームはラモスの細い肉体にちなんで名づけられた渾名は「エンピツ」鈴木洋史(1998),p69。 |
| 読売サッカークラブへの加入動機は「なんとしてでもサッカーで金を得る」ためであったが、来日早々よみうりランドのホテルでホームシックを患い、郷に帰りたいと涙するもカルバリオとマリーニョが赤坂や六本木にラモス''(とカルロス・ニコトラ:ラモスの従兄弟)''を連れ出したところ「日本に来て良かった、もう帰る気は失せた」と大喜びする。 |
| MFとして有名だが、ブラジル時代はDF(スイーパー)としてプレイしていた鈴木洋史(1998),p48。 |
| そして来日からしばらくはFWとしてプレイした鈴木洋史(1998),p72。 |
| 初めは若さと日本語もわからなかったためトラブルを起こす。 |
| 1978年1月14日の対日産自動車サッカー部戦で、退場処分を受けた後に相手選手が笑っているのを見て激怒し、その相手選手をグラウンドで追い掛け回したことで、異例ともいえる1年間の出場停止処分を受けた鈴木洋史(1998),p73-79。 |
| 1年間の出場停止が解け復帰した直後の試合から1979年2試合連続ハットトリックを含む14得点7アシストを記録。 |
| 得点王・アシスト王の二冠を獲得した。 |
| これは日本サッカーリーグ史上、釜本邦茂とラモスしか達成していない鈴木洋史(1998),p93(Jリーグではアシストの個人表彰を行っていない)。 |
| この頃、後に結婚する事となる、当時美大生だった清水初音がサッカー好きの男友達の仲介でラモスと対面し初音が一目惚れ。 |
| 初音の母同伴の3人でデートをし、母も娘に影響されてラモスに関する情報や記事を収集するようになる。 |
| 1981年8月2日にバイク事故を起こし、左足のすねを複雑骨折し選手生命の危機に陥る。 |
| このときの取り乱し方は尋常ではなく、病院に駆け付けた初音が手をつけられない程、ポルトガル語で喚き散らし周囲にあたり散らしてした。 |
| 入院生活を送る中、病室に日参する初音に対し「二度と来るな!顔も見たくない。 |
| 帰れ!!」と怒りをぶつけるも、翌日また看病に訪れた初音に「(内心)降参した」とラモスの方が折れ、この献身的な看病に感激して結婚を決意鈴木洋史(1998),p104-109ラモス瑠偉(1999),p124-126病室内で二人がキスをしていたという目撃談があるが、本人は完全否定している。 |
| 1983年には復活し、10得点で得点王を獲得。 |
| 1984年2月、初音とブラジルサンパウロにて挙式、結婚。 |
| 同年11月3日、対古河電気工業サッカー部戦で、(プロ野球ほど派手ではないものの)両軍入り乱れての乱闘騒ぎを起こした鈴木洋史(1998),p141-143。 |
| その後、ほかの選手は2試合の出場停止だったのにもかかわらず、ラモスに対しては翌年3月末までの出場停止という重い処分が下された。 |
| これらの背景には、プロ志向の強い読売クラブに対して日本サッカー協会や実業団チームからの妬みや反発が強く、読売クラブを代表してラモスが被害を受けたという面もある鈴木洋史(1998),p144。 |
| 1985年、サントスFC、ウルグアイ代表、マレーシア代表を招いたキリンカップでは日本代表と並んで読売クラブが参加した。 |
| この大会でも読売クラブは単独チームとして世界のプロ相手に善戦、ラモス自身もテクニックが高いことを十分に証明し、日本国外クラブに勝てないどころか、対読売クラブ戦にすら惨敗した日本代表とは対照的であった(当時日本代表レギュラーの約半分が読売クラブ出身)。 |
| この頃より日系ブラジル人の元選手であるセルジオ越後らと共に全国で少年サッカー教室を開き、後のJリーグ世代となる多くの子供たちの憧れの選手となる。 |
| 日本サッカーが低迷する時代、読売サッカークラブ(現東京ヴェルディ)対日産自動車サッカー部(現横浜F・マリノス)だけはラモスの活躍もあり「黄金カード」として注目の的であり続けた。 |
| 敵チームながら木村和司らと不遇の日本リーグ時代を支え、Jリーグ開幕、W杯出場へと日本サッカーを発展させた功労者の一人。 |
| 当時のラモスを木村和司は「非常に汚い選手だった…うまいけどね」と振り返る。 |
| 当時、外国人出場枠3人に対して4人の外国人選手を抱えていた読売クラブはこの問題を解消するため日本国籍の取得条件(滞在年数、日本人配偶者)を満たしていたラモスに日本への帰化を勧める。 |
| 漠然とではあるがいずれは妻の初音を連れてブラジルで所帯を構えようと初音夫人はポルトガル語の日常会話程度を習得し、子供の一男一女もポルトガル語名を命名されている考えていたラモスであったが、この帰化話を聞いてあまり良い顔をしなかったがよくよく考えて「妻の両親は快く一人娘をガイジンの俺にくれた、俺はとんでもない馬鹿野郎だった。 |
| 何かの形で日本に恩返ししないとこれでは筋が通らない。 |
| 」と猛省して日本国籍取得の申請を届け出て1989年に日本国籍取得。 |
| 本名の「Rui」の当て字「瑠偉」は初音夫人の考案によるもの。 |