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プロフィール
- ランス・アームストロングとは
- 生い立ち~プロデビューまで
- 競技生活前半
- 癌
- 競技生活後半
- 現役復帰
- 成功の理由
- 人物
- ツール・ド・フランスに関するもの
- その他
- 機材
- ドーピング疑惑
ランス・アームストロング(LanceArmstrong,1971年9月18日-)、本名ランス・エドワード・アームストロング(LanceEdwardArmstrong)は、アメリカ合衆国テキサス州プラーノ出身の自転車プロロードレース選手。精巣腫瘍との闘病の後、ツール・ド・フランスで前人未到の7年連続総合優勝(1999年から2005年)を達成した。その活躍は世界的に広く知られ、2002年にはスポーツ・イラストレイテッド誌の年間最優秀スポーツマン(SportsmanoftheYear)に輝き、2002年・2003年のAP通信年間最優秀男性アスリート、2003年・2004年のESPNのESPY賞最優秀男性アスリート、2003年のBBC年間最優秀スポーツ選手賞海外選手部門の各賞を受賞 ...
生い立ち~プロデビューまで
| ランスの誕生時、父親はおらず、彼は母によって育てられた(母の自立の精神は、自分にも強い影響を与えたと彼自身しばしば言及している)。 |
| 3歳の時、母の再婚により現在の姓であるアームストロングを名乗ることになった。 |
| しかし継父との関係は良好とはいかなかった。 |
| 子どものころはアメリカンフットボールが人気だったが、自分にはその才能がないと悟ったランスは水泳、そして母が多忙なため送り迎えが出来ず、ジムとの行き帰りに使用していた自転車、それらを複合させたトライアスロンを最終的に始めることとなる。 |
| その身体能力は非常に高く、12歳のときから一般カテゴリーに参戦していたほどであり、16歳でプロに転向。 |
| 1987~88年は19歳以下のトライアスリートのランキング1位に輝き、1989~90年にはアメリカ選手権のスプリント部門で2連覇を果たした。 |
| この後ほどなくして自転車競技に専念することを決め、アマチュアサイクリストとして1991年のアメリカ合衆国チャンピオンとなったほか、バルセロナオリンピックのロードレースでも14位に食い込んだ。 |
| ちなみにこの時金メダルを獲得したのがファビオ・カサルテッリである。 |
競技生活前半
| これらの実績をひっさげて1992年にプロに転向。 |
| 翌1993年、アメリカチャンピオンになりスターズ&ストライプのジャージに身を包みツールドフランスを迎えた。 |
| 第8ステージで、ラウル・アルカラらと数人での逃げを決め、ゴールスプリントで区間優勝。 |
| 数日後に監督の指令によりリタイアしたものの、プロ転向2年目にして早くもグランツールでの勝利を収め、大器の片鱗をのぞかせた。 |
| そして、同年オスロで行われた世界選手権のロードレース種目では単独の逃げを決め、ミゲル・インドゥライン、オラフ・ルードヴィッヒ、ヨハン・ムセウといった並み居る強豪を抑えて優勝。 |
| 弱冠21歳史上最年少での優勝とされることがあるが、史上最年少での優勝は1934年のカレル・カールスの20歳46日で、ランスは史上3番目の年少記録での優勝である。 |
| で世界選手権という大舞台を制した快挙により、一躍世間から注目を浴びるようになる。 |
| ちなみにこの年のアマチュア部門のロードレースの優勝が後に好敵手となるヤンウルリッヒである。 |
| 1995年は前年2位に入っていたツアー・デュポンで優勝したほか、クラシカ・サンセバスティアンでも優勝。 |
| クラシックスペシャリストとしての地位を高めた後、ツール・ド・フランスへ出場。 |
| 途中チームメイトのファビオ・カサルテッリをレース中の落車事故で失うという悲劇に見舞われながらも、その3日後にファビオが一番取りたいと語っていたリモージュステージにて優勝を遂げた。 |
| そして翌1996年もツアー・デュポン連覇をはじめ、パリ~ニース総合2位、フレッシュ・ワロンヌ優勝などの好成績をおさめ、一時は世界ランク1位を記録するなど成功は続いた。 |
| しかしシーズン中盤以降はツール・ド・フランスを途中棄権したほか、アトランタオリンピックでも12位と期待はずれの結果に終わるなど目立った活躍ができなかった。 |
癌
| 身体の不調を感じ、診断を受けたランスは1996年10月2日、医師から自分が精巣腫瘍に侵され、既に肺と脳にも転移しており、生存確率は50%であることを告げられる(ナイキによって2005年から発売されている彼のブランド「10//2」やトレック社「1/2Series」はこれが由来)。 |
| 精巣腫瘍には化学療法を施すのが一般的だが、治療薬のブレオマイシンには肺毒性があり、間質性肺炎を引き起こすなど、心肺機能を低減してしまう副作用があるため、プロの自転車選手として復帰することは不可能になると判断したランスはこれを拒否。 |
| 結局インディアナ大学医学部で心肺機能へのダメージは少ないが、より過酷な化学療法を施し、さらに脳の浸潤部を切除することとなった。 |
| その後、幸運にも治療は成功し、小康状態となったという診断を受けてトレーニングを再開。 |
| しかし所属していたコフィデスからは、再起不能とみなされて事務的に解雇された。 |
競技生活後半
| その後もリハビリとトレーニングを続け、デビュー時に所属していたモトローラが、1997年に解散したのに伴い、新たに結成されたUSポスタル・サービスと契約し、翌年にプロとして復帰。 |
| 初戦となったパリ~ニースで以前のように動かない自分の体に苛立ち途中リタイア、一時はそのまま自転車人生もリタイアしかかる。 |
| 妻やヨハン・ブリュイネールらの説得により全米選手権をラストランとすることにしたが、そこで好成績をあげた事で本人のやる気も復活し、同年のブエルタ・ア・エスパーニャで総合4位、世界選手権タイムトライアル 同ロードレースでもそれぞれ4位に入り、復活をアピールした。 |
| 山岳ステージの厳しさではツール・ド・フランスを上回るとされる同レースで、上位入賞を果たしたことにより、彼はステージレースを戦い抜く自信を抱いたといわれている。 |
| そして1999年、ドーフィネ・リベレを総合8位(ステージ1勝)で終え、好調のままツール・ド・フランスに出場したランスはプロローグステージの個人タイムトライアルで優勝。 |
| そのままステージ4勝をあげて総合2位のアレックス・ツェーレに7分以上の差をつけて圧勝。 |
| ツール・ド・フランス7連覇へ第一歩を記した。 |
| 2000年も最大のライバルとみなされていたヤン・ウルリッヒに6分以上の差をつけてツール・ド・フランス2連覇。 |
| さらにシドニーオリンピックでは個人タイムトライアルで銅メダルを獲得した。 |
| また同年5月には癌との闘いと復活を綴った『It'sNotAbouttheBike(日本語題:ただマイヨ・ジョーヌのためでなく)』を出版。 |
| アメリカをはじめ各国でベストセラーとなった。 |
| 2001年はツール・ド・スイスで総合優勝。 |
| ツール・ド・フランスでは第8ステージで大逃げが決まり、一時は総合で35分差をつけられたが、逆転して3連覇を達成。 |
| 続く2002年もドーフィネ・リベレで総合優勝を達成し、ツール・ド・フランス4連覇も果たした。 |
| 2003年もドーフィネ・リベレを連覇し、ミゲル・インデュラインに並ぶ5連覇の期待がかかるなかでツール・ド・フランスに出場。 |
| しかしこの年はヤン・ウルリッヒが絶好調で、第12ステージの個人タイムトライアルでは補給ミスからの脱水症状に襲われ1分以上もタイムを詰められてしまう。 |
| さらに次の第13ステージではウルリッヒのアタックにランスが付いていけずに遅れるという事態が発生。 |
| マイヨ・ジョーヌこそ守ったものの、第14ステージ終了時点で両者の差は15秒、さらに3位のアレクサンドル・ヴィノクロフとも18秒差というかつてない危機をランスは迎えることになった。 |
| そして次の第15ステージでウルリッヒたちとアタック合戦を繰り広げていたゴール手前9.5km地点で、ランスのハンドルに沿道の観客の持っていた袋が絡み付いて落車してしまう。 |
| ウルリッヒをはじめとする集団は紳士協定にのっとり落車したランスを待った。 |
| レースに復帰したランスは待っていた集団に追い付いたあと、そのままアタックを決め、そのままウルリッヒらを置き去りにする。 |
| 先頭を走っていたシルヴァン・シャヴァネルをも追い越しステージ優勝を飾り、ウルリッヒに40秒差をつけることに成功。 |
| 個人タイムトライアルの第19ステージでは雨の中必死に走るウルリッヒがロータリーで落車しタイム差を離し勝負が決まった。 |
| 2004年は、天候不順や落車でライバルたちが次々脱落していくなか手堅くタイムを刻んでいき、後半の山岳ステージで勝利を量産。 |
| チームタイムトライアルでの1勝を含む5勝をあげて見事総合優勝を果たし、インデュラインを超える6連覇を達成した。 |
| そして2005年4月、同年のツール・ド・フランスを最後に現役を引退することを発表。 |
現役復帰
| その後、トレック社のアドバイザーを務めたり、チャリティー活動の一環でニューヨークシティマラソンに参加するなどしていたが、2008年9月に現役復帰することを表明。 |
| 「家族や親しい友人と話した結果、がんの苦しみに対する世界の人々の意識を高めるため、プロとしての自転車競技への復帰を決めたことを、喜んで発表する」というコメントを発表し、9月25日にアスタナ・チームへの加入が正式に発表された。 |
| 2009年1月、ツアー・ダウンアンダーに出場して現役復帰を果たした。 |
| 同年5月にはジロ・デ・イタリアに初出場。 |
| しかし、3月に出場したスペインのレース、ブエルタ・ア・カスティーリャ・イ・レオンで落車し鎖骨を骨折した影響か序盤は調子が上がらず、第5ステージで大きく遅れてマリア・ローザ争いから脱落。 |
| その後はチームのエースであるリーヴァイ・ライプハイマーのアシストに徹する形となり、自身は総合12位となった。 |
| なお、落車した時の集団復帰にはエースのライプハイマーがパンクした時の倍近い人数のアシストたちが、集団から下りてきてサポートしていた。 |
| 7月にはツール・ド・フランスに4年ぶりに出場。 |
| 第4ステージのチームタイムトライアルでは通算25勝目となるステージ優勝を飾り、アンドレ・ルデュックと並ぶ歴代3位タイとなった。 |
| その後は総合優勝したチームメイトのアルベルト・コンタドールのアシストを努め、アンディ・シュレクやブラッドリー・ウィギンスらライバル達を徹底マーク。 |
| 2009年の10月には、バドワイザーを製造するアンハイザー・ブッシュ・インベブ社と3年間の個人契約を結んだと報じられた。 |
| 2010年、自ら立ち上げたチーム・レディオシャックから出場したツール・ド・スイスで総合2位に入るが、ツール・ドフランスでは全盛期と違って序盤から何度か落車に巻き込まれ、その際に受けたダメージもあってか山岳ステージの第8ステージで大きく後退。 |
成功の理由
| ツール・ド・フランス7連覇において、2位との差は2003年にヤン・ウルリッヒと1分01秒差であったのを除けば、いずれの年も6分を超えている。 |
| これほど圧倒的な差がついた理由としては、トライアスリート時代の成績が証明するように、肉体的にずば抜けた素質を持っていたことに加え、生い立ちや、ガンとの闘病で得た強靭な精神力を兼ね備えていたことも大きい。 |
| それまでの主流だった、重いギアをゆっくり踏んでいくという走り方に対し、ランスは当時としては極めて小さなギア(フロント51T/リア12-23等)を選択し、ケイデンスを上げるという正反対の走り方でステージ優勝を量産した。 |
| この走り方は、後にエネルギー効率や筋肉への負担軽減の点などからも良い事が証明され、コンパクトクランクが普及するきっかけとなったが、たとえ同じ機材を使っていても、ランスが上り坂で勝負に出れば誰もついていくことは出来なかった。 |
| この他に所属していたUSポスタルやディスカバリーチャンネルチームが、ヨハン・ブリュイネール監督の元、ランスがツール・ド・フランスで総合優勝することに専念できるようなチーム体制を作り、維持していたことも要素として挙げられる。 |
| ケビン・リビングストン、マヌエル・ベルトランをはじめ、ロベルト・エラスやパオロ・サヴォルデッリといった実力者が山岳での牽引役を務め、石畳などパンクが懸念されるコースでは、クラシックでの経験が豊富なジョージ・ヒンカピーが先頭を走る、という具合に全ての環境に対応できる重厚な布陣が敷れており、2004年のツールでもライバルと目されたイバン・マヨが、石畳のコースでアシストを受けられずに大きく遅れてしまい、優勝争いから脱落したのとは対照的であった。 |
人物
| 例としては、プロデビュー直後に出場した地中海一周レースにおいて、アームストロングの名前を別のアメリカ人選手(アンディ・ビショップ)と混同して声をかけたモレノ・アルゼンティンに対してわざと別の名前(マウリツィオ・フォンドリエスト)で呼び返し、「くそったれ、俺の名前はアームストロングだ。 |
| しかし、癌の闘いとその克服、レースへの復帰、そしてツール・ド・フランス連覇を経験していく中で、彼は精神的にも大きく成長し、選手生活の晩年は、無茶なアタックをすることもなく、計算し尽くされた老練な戦略のもと、集団内でライバルの様子をうかがいながら走るクレバーなタイプの選手となっていた。 |
| また2000年のツール・ド・フランスでマルコ・パンターニに僅差で敗れた際に「(ドーピング騒動からの復帰に)敬意を表して最後は手を抜いたんだ」と発言してパンターニを激怒させたり(著書では「先に行けよ」と慣れないイタリア語で声をかけたが、「のろま!」と聞かれてしまった。 |
| とも書かれている、2004年のツール・ド・フランスの第12ステージで、死の今際にいる母のためにツール・ド・フランスでの初勝利を渇望していたイヴァン・バッソと一騎打ちになったとき勝利を譲って、王者の貫禄を見せたかと思いきや、次の第13ステージで再び一騎打ちになった時は容赦なくスプリントしてステージ優勝したり、ドーピングを自白しランスの薬物使用を示唆したフィリッポ・シメオーニのアタックを大差の付いた状態にもかかわらず即座に潰しに掛かるなど、かつての攻撃的な性格の一端を垣間見ることが出来るエピソードは多い。 |
その他
| もともとトライアスロン出身のため、プロデビュー当時は自転車競技に疎かったらしく、所属していたモトローラ・チームに供給されていた自転車のロゴを指して「エディ・マークス(エディ・メルクスの英語読み)って誰だい?」と発言し、「“カンピオニッシモ”メルクスを知らないとは」と周囲を驚かせたことがある。 |
| 一見クライマーのような細身の体型をしているが、プロデビュー時はまるで正反対の、がっしりした筋肉質なスプリンター体型だった。 |
機材
| ペダルについては、LOOKペダルをシマノがパテント購入して開発したPD-7401パテント品であるためか、デュラエース系の7000番台がついていながら、同シリーズではない。 |
| シマノはランスがトライアスロン選手時代から機材を供給しており、シマノ製品でツール・ド・フランスを制したのは、ランスが初めてだった(ランスが引退した後、残った選手の多数とブリュイネール監督が合流したアスタナは、引き続きトレック社のバイクを使用しているが、コンポーネントはSRAMに切り替えた)。 |
| 山岳ステージでは、STIレバーの左側をブレーキレバーに交換し、フロントディレイラーの変速には、ダウンチューブに装着した伝統的なシフター(Wレバー)を使って変速していた。 |
ドーピング疑惑
| 2010年5月、元チームメイトだったフロイド・ランディスの証言によると、2002年のUSポスタル在籍時代に、当時同チーム監督のヨハン・ブリュイネールとアームストロングの手ほどきを受けてドーピングを行ったことがきっかけとなり、その後常習するようになったという。 |
| またランディスは、2003年にスペイン・ジローナにあるアームストロングのアパートで血液ドーピングに使用するための採血法をアームストロングに指導され、そのクローゼットにある冷蔵庫にはアームストロングとジョージ・ヒンカピーの血液が保管されていたと主張している |
| スポーツ・イラストレイテッドの2011年1月24日号http://sportsillustrated.cnn.com/vault/article/magazine/MAG1180944/1/index.htmTheCaseAgainstLanceArmstrongにおいて、フロイド・ランディスとステファン・スチュアートの証言に基づき、アームストロングがヤロスラフ・ポポヴィッチと共謀して、イタリアで長年に亘ってドーピング行為を行っていたとされる5700文字以上からなる文書を入手したことや、アンチドーピングの権威である、ドン・キャトリン博士の調べによると、当人の尿から、テストステロン及びエピテストステロンの異常値が出ていたとする詳細なレポートを入手し公表 |
| 2011年5月22日、アメリカのCBSテレビのドキュメンタリー番組である60Minutesが放送され、1999年から2000年まで、当時ランス・アームストロングとUSポスタルでチームメイトだったフランキー・アンドリューの妻が、アームストロングの薬物使用疑惑についての話を赤裸々に語った |
| またタイラー・ハミルトンは60Minutesの中で、アームストロングが総合優勝を果たした2001年のツール・ド・スイスにおいて、国際自転車競技連合(UCI)が、当時USポスタル監督のヨハン・ブリュイネールと共謀し、アームストロングのEPO使用を隠蔽したと告白。 |
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1971年
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ランス・アームストロング(Lance Armstrong ... |
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