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プロフィール
- リチャード・ニクソンとは
- 生い立ち
- 弁護士
- 海軍時代
- 下院議員・上院議員
- 副大統領時代
- 「チェッカーズ・スピーチ」
- 副大統領就任
- 「キッチン討論」
- アイゼンハワーとの確執
- 予備選挙
- テレビ討論
- ケネディの選挙不正への対応
- 大統領選挙落選後
- 1968年の大統領選挙
- 予備選
- 選挙戦
- 第37代合衆国大統領
- デタント推進
- ニクソン・ドクトリンと秘密和平交渉
- 電撃訪問
- 大統領選挙の大勝利
- ウォーターゲート事件と辞任
- 支持基盤
- 評価
- 関連サイト
リチャード・ミルハウス・ニクソン(RichardMilhousNixon,1913年1月9日-1994年4月22日)は、アメリカ合衆国の第36代副大統領および第37代大統領。デタント政策を推進し、ソビエト連邦との核兵力の削減やベトナム戦争の終結、中華人民共和国との 国交成立など平和主義に尽力し、また、環境保護局の設置などを通じ公害の抑制や環境保護にも力を注いだ。しかし、「ウォーターゲート事件」により任期中に辞任した唯一のアメリカ大統領となった。
生い立ち
| 1913年にカリフォルニア州南部、ロサンゼルス近郊のヨーバリンダ(YorbaLinda)に生まれたニクソンは、ギリシア系の父フランシスと、ドイツ系の裕福な家の出身で熱心なクエーカー教徒の母ハンナ・ミルハウス(メルハウゼン)によって、福音主義のクエーカー教徒として育てられた。 |
| なお果樹園を経営する父親は元々クェーカー教徒でなかった『ニクソンわが生涯の戦い』P.117(福島正光訳、文藝春秋、1991年)上、1922年に母の実家の近くのウィッティアに移ってからは、父親は油田で技術者として働き、その後食料品およびガソリン販売店に専念したこともあり、それほど宗教活動には熱心ではなかったデイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ1950年代アメリカの光と影第2部』(金子宣子訳、新潮文庫、2002年)元版は新潮社で上下巻、1997年。 |
| 実家はクエーカー教の経典を順守し贅沢を避け、裕福でもない中産階級といった感じの質素な暮らしをしており、ニクソンの幼少時のしつけは、飲酒やダンス、罵り言葉を差し控えるような保守的な福音主義の遵守に特徴づけられる。 |
| なおニクソンは幼少時の事を「貧しかったが幸せだった」と回顧録などで記述しているが、父親が経営するガソリン販売店の経営が軌道に乗っていた上に、ピアノやバイオリンを習う余裕があったことから、決して貧しいものではなかった「戦略家ニクソン」P.20田久保忠衛著中公新書。 |
| しかし4男のアーサーや長男のハロルドが肺病で闘病生活を続け、医療費がかかったこともあり、ニクソンは青年期に多くのアルバイトを体験している。 |
| その後ニクソンは地元のウィッティア高校を卒業し、奨学金を受けてハーヴァード大学への進学が決まっていたものの、兄弟の多額の医療費の負担から、実家が東海岸での1人暮らしの資金を負担できないこともあり、母親の実家が奨学金を設けていた地元のウィッティア大学(WhittierCollege-クエーカー教徒の学校)に入学、1934年に2番目の成績で卒業し、奨学金を受けデューク大学法学大学院で法律を学んだ。 |
弁護士
| デューク大学法学大学院を三番目の成績で1937年に卒業し、同年にカリフォルニア州の司法試験に合格した。 |
| ニューヨーク州の大手弁護士事務所への就職を希望したが、東部の人間との人脈に恵まれなかったこともあり、希望していた東部の法律事務所での就職をあきらめ、カリフォルニアに戻って地元のウィンガード・アンド・ビウリー弁護士事務所に就職した。 |
| 1939年には自らの弁護士事務所を開業したリチャード・ニクソン『ニクソンわが生涯の戦い』略年譜より(福島正光訳、文藝春秋1991年)。 |
| 弁護士として活動中の1940年6月11日に、ネバダ州出身の高等学校教師で、演劇サークルで知り合ったセルマ・キャサリン・ライアンと結婚した。 |
| その後1941年12月に物価統制局に転職し、夫婦でワシントンD.C.に移転することとなった。 |
海軍時代
| 110px|thumb|アメリカ海軍時代のニクソン。 |
| 1941年12月よりアメリカも参戦した第二次世界大戦中は、1942年8月に士官募集に応募してアメリカ海軍に入隊し、補給士官に任命され1943年5月より南太平洋戦線のニューヘブリデス諸島、さらにはニューカレドニアなどへ配属された。 |
| 海軍にいる間にポーカーを覚えたニクソンは、「アメリカ海軍きってのポーカーの名手」としてつとに知られ、前線時代を中心に1945年8月15日の終戦までに賭けポーカーで1万ドル以上を稼いだといわれている。 |
| 1944年7月にはブーゲンビル島の前線より帰還し、カリフォルニア州アラメダの海軍基地で勤務した。 |
| その後1945年1月にはアメリカ東部の基地への移転を命じられ、そこで終戦を迎えた。 |
| 海軍時代には後に国務長官になるウィリアムズ・P・ロジャーズと知り合っている。 |
下院議員・上院議員
| 1945年8月の第二次世界大戦の終結に伴う海軍除隊後にペプシコ社の弁護士になり、ペプシコーラの世界進出に協力。 |
| 各国の炭酸市場の切り崩しというロビー活動のもたらす「アメリカの産業を保護する」という大義名分は満足感を生み、さらに国際的な弁護士の看板はヨーロッパや日本で人脈を築くのにも役立ったが、この仕事を通じて知り合ったアメリカをはじめとする各国の政治家の倫理観の低さに本気で呆れていたという。 |
| しかしその本人が、母校であるウィッティア大学の総長や、ニクソンの母の知人のバンク・オブ・アメリカのウィッティア支店長らの地元有力者からの依頼を受け、1946年に地元のカリフォルニア州の第12下院選挙区から共和党候補として立候補した。 |
| このニクソンの立候補に対して妻のパットは当初反対したものの、その後女性票を獲得するために自ら集会であいさつ回りをするなどの献身的な支えもあり、民主党選出で、労働組合をその主な支持基盤とする現職のジェリー・ヴーァリスを破り下院議員に選出された「戦略家ニクソン」P.54田久保忠衛著中公新書。 |
| 同じ年の選挙では、ニクソンの将来のライバルとなるマサチューセッツ州のジョン・F・ケネディも初当選し、同じ南太平洋地域で従軍した海軍の退役軍人出身と言う点でも共通していたこともあり、友好的な関係を築いた。 |
| その後ニクソンは、東西冷戦の激化を受けて設けられた下院の非米活動調査委員会のメンバーになり、ジョン・フォスター・ダレス国務省顧問やウィリアム・P・ロジャースなどの協力を受けて、反共主義で高名な共和党選出の上院議員のジョセフ・マッカーシーとともに、前政府高官アルジャー・ヒスの偽証罪の裁判に協力したことで、「反共の闘士」としてその名が全米に知れ渡った。 |
| 1950年には上院への鞍替えを試み、女優であり民主党選出議員のヘレン・ギャーギャン・ダグラスと争った。 |
| 地元の油田開発に反対するなどのダグラスのリベラルな言動が有権者に嫌われたうえに、選挙の活動期間中に朝鮮戦争が勃発し反共的な風潮が強まったことも追い風となり、ダグラスに大差をつけて当選し上院議員に選出されたが、この選挙の際のニクソンの言動が後々まで尾を引く。 |
| ニクソンは、夫が左翼シンパとして有名であったものの、自らは「単なるリベラル派」との評価をそれまで受けていたダグラスハルバースタム『ザ・フィフティーズ第2部』に対して「国家社会主義者」のレッテルを貼ったが、そのことが多くのリベラル派を自認するジャーナリストの反感を呼び、後の副大統領選挙の際に執拗な攻撃を受けるきっかけとなる。 |
副大統領時代
| しかし、これらの活動が共和党内の保守派を中心に高い評価を受け、1952年に行われた大統領選挙において、わずか39歳でドワイト・D・アイゼンハワーの副大統領候補に選ばれた。 |
| 大統領選での顕著な出来事の1つは、当時普及が進んでいたテレビの革新的な使用だった。 |
「チェッカーズ・スピーチ」
| 220px|thumb|「チェッカーズ・スピーチ」を行うニクソン。 |
| 副大統領候補選定前よりニクソンは、ニクソンが金銭的に余裕がないことを知った地元の支持者たちが作った支援基金団体から、政治活動資金のための資金援助を受けていた。 |
| 民主党の大統領候補のアドレー・スティーブンソンも同様の資金援助を受けていたにもかかわらず、リベラル派であったニューヨーク・ポスト紙は、副大統領候補選定後の9月にニクソンの資金援助の事のみを「ニクソンの秘密信託基金」と批判し「ザ・フィフティーズ」P.267デイビッド・ハルバースタム著新潮社、さらに「物品の提供も受けた」とも批判した。 |
| その後アイゼンハワーの選対本部はこの記事が大統領選に与える影響を憂慮し、選対本部の一部はニクソンを副大統領候補から降ろすことや、議員辞職をさせることまでを画策しはじめた「戦略家ニクソン」P.66田久保忠衛著中公新書。 |
| これに対してニクソンは、「候補を降りることや議員辞職すれば、これらの疑惑を認めてしまうことになる」と言って候補から下りることを拒否した上で、その後有名になるスピーチ「チェッカーズ・スピーチ」を行い、自らに対する攻撃に対して反論した。 |
| その中でニクソンは、個人資産の詳細を事細かく説明したほか、民主党のハリー・トルーマン政権の閣僚の妻達の中に、「院外活動をする人々から高価な毛皮のコートを受け取った」と告発されている者がいた事を受け、横に座る妻のパットが「ミンクのコートを持ってはいないが、尊敬すべき共和党員に相応しい布で出来た質素なコートを着用している」といいトルーマン政権の閣僚を皮肉るとともに、提供された資金を私的に使用したことを明確に否定した。 |
| 併せて、「物品の提供を受けたことはないが、子供たちが犬を飼いたいと言っていることを耳にしたテキサス州の支援者からコッカースパニエルをもらった。 |
| しかし、娘が『チェッカーズ』と名付けて可愛がっているので返すつもりはない」と述べ、さらに「自分が副大統領候補を辞退するべきか否かについての意見を、共和党全国委員会に伝えてほしい」と訴えた「ザ・フィフティーズ」P.270デイビッド・ハルバースタム著新潮社。 |
| この放送は、その後「チェッカーズ・スピーチ」と呼ばれるほどの大きな反響を視聴者に与えるとともに、「提供された資金を私的に流用した」という批判を払しょくし、いわれのない攻撃を受けるニクソンに対する同情と支持を集めることに成功した。 |
| さらに、ニクソンを引き続き副大統領候補としてとどめることを要求する視聴者からの連絡が共和党全国委員会に殺到したことで、副大統領候補の辞退さえ迫られていたニクソンは、引き続き副大統領候補としてとどまることになった。 |
| しかし、家族だけでなく愛犬までを持ち出したスピーチに対して、一部のジャーナリストから「愚衆政治的」との批判を受けることとなった「ザ・フィフティーズ」P.272デイビッド・ハルバースタム著新潮社。 |
副大統領就任
| 220px|thumb|リビア王国|リビアのイドリース1世国王とともに。 |
| 220px|thumb|フルシチョフとともに。 |
| 220px|thumb|サウジアラビアのサウード・ビン・アブドゥルアズィーズ国王とアイゼンハワーとともに。 |
| このような逆風にあったものの、その後アイゼンハワーとニクソンのコンビは、大統領選本選で一般投票の55%、48州のうち39州を制して、民主党のアドレー・スティーブンソンとジョン・スパークマンのコンビを破り、ニクソンは1953年1月20日にアイゼンハワー政権の副大統領となった。 |
| その後ニクソンは初の外国への公式訪問として、キューバやベネズエラをはじめとする南アメリカ諸国を訪問した。 |
| ベネズエラの首都のカラカスを訪問した際の、暴徒化し地元国の警察でさえコントロールできなくなった反米デモ隊に対する、沈着冷静かつ毅然とした態度は国際的な賞賛を受けた。 |
| またその後も、この頃旧宗主国からの独立が相次いでいたアフリカ諸国への訪問(アメリカの副大統領として史上初のアフリカ大陸への訪問であった)をはじめとする、諸外国への外遊を積極的に行った他、同年の10月から11月にかけて、日本や中華民国、韓国などの北東アジアからフィリピンやラオス、カンボジアなどの東南アジア、インドやパキスタン、イランなどの西アジア、オーストラリアやニュージーランドなどのオセアニア諸国までを一気に回るなど、積極的に外遊を行った。 |
「キッチン討論」
| この様な外遊の一環として、1959年7月24日には「アメリカ産業博覧会」の開会式に出席するために、ソビエト連邦の首都のモスクワを初めて公式訪問した。 |
| その際に、博覧会会場で、ソ連の指導者であるニキータ・フルシチョフと、展示してあるアメリカ製のキッチンおよび電化製品を前にして、アメリカにおける冷蔵庫の普及と宇宙開発の遅れ、ソ連の人工衛星「スプートニク」の開発成功と国民生活における窮乏を対比し、資本主義と共産主義のそれぞれの長所と短所について討論した。 |
| この際にニクソンは、感情的に自国の宇宙および軍事分野における成功をまくしたてるフルシチョフと対照的に、自由経済と国民生活の充実の重要さを堂々かつ理路整然と語った。 |
| その討論内容は、冷戦下のアメリカ国民のみならず自由諸国の国民に強い印象を残し、後に「キッチン討論」として有名になった。 |
アイゼンハワーとの確執
| アイゼンハワーの下で副大統領を務めた期間のニクソンは、1954年3月にアドレー・スティーブンソンが共和党を「半分アイゼンハワー、半分マッカーシーの党」と攻撃した時に反撃役を押し付けられるなど、アイゼンハワー政権においていわば「汚れ役」を押し付けられることが多かったものの、この役割を忠実にこなした。 |
| しかしながら、1955年9月24日のアイゼンハワーの心臓発作、1956年6月の回腸炎に伴う入院、また1957年11月の発作の際の3度にわたって臨時に大統領府を指揮監督したが、通常行われる正式な大統領権限の委譲は行われなかった。 |
| その上、1956年の再選時には、アイゼンハワー直々の指示により副大統領の座を降ろされそうになったものの、ニクソンに対する国民からの支持が強いことを知ったレン・ホール共和党全国委員長らによって、この指示が取り消されたということもあった。 |
| これらのアイゼンハワーによる冷遇を感じていたニクソンは「元々アイゼンハワーは私のことを嫌っていた」と漏らすこともあった。 |
| また、この頃はアメリカにおいて出自による差別がまだ根強く残っていたこともあり、アイゼンハワーの妻のメイミーも、貧しいブルーカラー出身のパットのことを、陰で「貧乏人」と嘲っていたと言われている。 |
予備選挙
| 1951年のアメリカ合衆国憲法修正第22条の批准完了によって、アイゼンハワー大統領は再度大統領職を求めて出馬することができなかった。 |
| 1952年と1956年の2度選出されていた。 |
| 1959年に行われた共和党予備選挙においてニクソンは、共和党中道左派の指導者で、ニューヨーク州知事で大富豪のネルソン・ロックフェラーから、あたかも共和党の指名争いで重大な挑戦を受けたような形になった。 |
| しかし、ロックフェラーは全国遊説を行った後で共和党の大半がニクソンを支持していることが分かったので、大統領候補にはならないと表明した。 |
| シカゴで開催された1960年共和党全国大会では、アリゾナ州選出の上院議員のバリー・ゴールドウォーターが10票の代議員票を獲得しただけで、ニクソンは圧倒的な支持を得て共和党の大統領候補に指名された。 |
テレビ討論
| 220px|thumb|ケネディとのテレビ討論。 |
| 大統領選挙の本選において、ケネディ陣営による大規模な選挙不正が行われた事が明らかになっているにもかかわらず、現在でも多くの人々によって「ニクソンの敗北の最も重大な要因は最初のテレビ討論だった」と喧伝されている。 |
| テレビ討論前には完全に優勢であったニクソンは、その勢いを保ったまま、外交政策への専門知識を持った思慮深い投票者を勝ち取るつもりでいた。 |
| しかし当時のアメリカでは白黒のテレビしか普及しておらず、多くの視聴者には、「背景に溶け込んではっきりしない灰色のスーツを着用した、病弱に見える人が多くの汗をかいている」ようにしか見えなかった。 |
| なお、前述のようにこの時ニクソンは膝を怪我しており、そのことがニクソンの表情をひときわ気難しく見せる結果になった上、テレビ用のメイクアップを拒否したことも外観を貧弱に見せることになった。 |
| 討論をラジオで聞いた人々は「討論の内容はニクソンが勝った」と考えたが、結果的には、討論内容には劣るものの、テレビ的な見栄えに勝るケネディに引き込まれたテレビ視聴者の票がニクソンからケネディに動き、選挙不正もあり最終的にケネディに僅差での勝利を与えたと言われる。 |
ケネディの選挙不正への対応
| この時の選挙において、ケネディが予備選挙中に友人のフランク・シナトラから紹介してもらったシナトラの元恋人のジュディス・キャンベルを経由して、イリノイ州シカゴのマフィアの大ボスのサム・ジアンカーナを紹介してもらい、ウェスト・ヴァージニア州における選挙への協力を直接要請した他、FBIの盗聴により、シナトラが同州のマフィアからケネディのために寄付金を募り、ケネディの選対関係者にばらまいたことが明らかになっている『ピーター・ローフォード―ケネディ兄弟とモンローの秘密を握っていた男』P.344ジェイムズスパダ著、広瀬順弘訳読売新聞社刊 1992年。 |
| さらに、禁酒法時代に密造酒の生産と販売を行っていた関係からマフィアと関係の深いジョセフ・ケネディ・シニアも、マフィアの協力の下、マフィアやマフィアと関係の深い労働組合、非合法組織を巻き込んだ大規模な選挙不正を行っていたことが現在では明らかになっている『マフィアとケネディ一族』朝日新聞刊1994年ジョン・H.デイヴィス著、市雄貴訳『アメリカを葬った男―マフィア激白!ケネディ兄弟、モンロー死の真相』サムジアンカーナ、チャックジアンカーナ著、落合信彦訳光文社刊1992年。 |
| これらのケネディ陣営に対するマフィアによる選挙協力のみならず、選挙終盤におけるケネディ陣営のイリノイ州などの大票田における大規模な不正に気づいたニクソン陣営は正式に告発を行おうとしたが、アイゼンハワー元大統領から「告発を行い、泥仕合になると国家の名誉を汚すことになる」と説得されて告発を取りやめている「戦略家ニクソン」田久保忠衛著 中公新書。 |
| ただしニクソンは、ニクソンが過去に精神科のカウンセリングを受けた過去がある証拠をケネディ陣営がつかんでいた(現在ではこのような経歴が問題視されることはない)ものの「切り札」として公開していなかったことをつかんでおり、「やぶへびになることを恐れ告発に踏み切れなかった」という意見もあるが、いずれにしてもこの際のニクソンの潔い行動は、ニクソンに批判的な人々からも称賛を受けている。 |
大統領選挙落選後
| 大統領選挙落選の2年後の1962年11月には、政治家としての存在感を引き続き示すためもあり、生まれ故郷であるカリフォルニア州知事選挙に出馬するが、その思いも空しく対立候補のエドムンド・“パット”・ブラウンに大差で敗れ落選した。 |
| 選挙後にビバリーヒルズのビバリー・ヒルトンホテルで行われた敗北記者会見でニクソンは焦りのあまり、詰め掛けたマスコミの記者団を痛烈に批判したあげく「もう二度と記者会見をしない」と口走る始末であった。 |
1968年の大統領選挙
| その後アメリカは、ケネディ政権下で軍事介入が拡大され、その後を継いだリンドン・B・ジョンソン政権下で正規軍の地上部隊が参戦するなど、軍事介入が本格化したベトナム戦争をめぐり国内の世論は分裂し、反戦運動が暴徒化するなど混乱状態に陥った。 |
| ニクソンはカリフォルニア州知事選挙での敗北で、親共和党の保守派を含む多くのマスコミから「再起不可能」とまで言われていたものの、そのような状況を打開すべく、再び第一線の政治家への復帰を目指し1968年の大統領選挙に出馬する。 |
予備選
| 220px|thumb|1968年の大統領選挙時のニクソン。 |
| 共和党の予備選挙ではニューヨーク州知事のネルソン・ロックフェラーや、カリフォルニア州知事のロナルド・レーガン(のちの大統領)などと争い終始リードを保ち、1968年8月5日から8日にかけてフロリダ州のマイアミビーチで開かれた党大会において、ニクソンは1回の投票で候補者に指名され復活を遂げた。 |
選挙戦
| ウォレスは北ベトナムへの無差別爆撃の継続を訴えるカーチス・ルメイ空軍大将を副大統領候補に据え、ベトナム戦争における北ベトナムに対しての強硬な政策の実施を主張した。 |
第37代合衆国大統領
| 就任後は、冷戦下で対立関係にあった東側諸国に対して硬直的な態度を取り続ける国務省を遠ざけ、官僚排除、現実主義・秘密主義外交を主とするホワイトハウス主導の融和外交を展開し、国家安全保障担当大統領補佐官のヘンリー・キッシンジャーとともに、ハリー・トルーマン政権下より長年にわたり継承されていた「封じ込め政策」に代えて、融和的な「デタント政策」を推進する。 |
| ウォーターゲート事件の責任を取り辞任したこともあり、辞任後から1980年代頃まではその功績が過小評価された傾向にあるものの、1973年に実現にこぎつけたベトナム戦争における南ベトナムからのアメリカ軍の完全撤退や、冷戦当時ソ連と対立していた中国共産党率いる中華人民共和国の承認など、主に外交面で行った施策がその後高い評価を受けている。 |
デタント推進
| これを受けて、1969年よりフィンランドのヘルシンキでソ連との間で第一次戦略兵器制限交渉(SALT-Ⅰ)が開始され、1972年5月に交渉は妥結し、ニクソン出席のもとでモスクワで調印が行われた。 |
ニクソン・ドクトリンと秘密和平交渉
| 大統領に就任したニクソンは、1969年7月30日に南ベトナムへ予定外の訪問をし、グエン・バン・チュー大統領およびアメリカ軍司令官と会談を行った。 |
| ニクソンはキッシンジャーを使い南ベトナム政府内の強硬派と、戦線の拡大と縮小を巧みにコントロールした上に、1972年には北ベトナムへの強い影響力を持つ中華人民共和国を訪問し北ベトナム政府に揺さぶりをかけるなど、様々な手段を使いながら、秘密交渉開始から4年8ヶ月経った1973年1月23日に北ベトナムのレ・ドク・ト特別顧問の間で和平協定案の仮調印にこぎつけた。 |
電撃訪問
| 1949年の国家成立後、長年の間対立関係にあった中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国と和解し、国家として承認することで、冷戦下でアメリカと中華人民共和国の両国と対立を続けていたソ連を牽制すると同時に、北東アジアにおける覇権を樹立することを狙い、1971年7月にキッシンジャー大統領特別補佐官を、秘密裡にパキスタンのイスラマバード経由で中華人民共和国に派遣した。 |
大統領選挙の大勝利
| 民主党は上院院内幹事のテッド・ケネディが民主党候補としての指名を得る有力候補とされていたが、ケネディの大統領候補としての将来は、1969年にケネディが起こした飲酒運転の上での人身事故を伴う女性スキャンダル、いわゆる「チャパキディック事件」によって頓挫した。 |
ウォーターゲート事件と辞任
| 外交と内政で大きな成果をおさめ、内外からその手腕が高い評価を受け、中間選挙で大勝利し大統領再選を果たしたニクソンを、アメリカ史上初めての大統領任期中の辞任に追い込んだのが、中間選挙の予備選真っ只中の1972年6月に起きた民主党全国委員会オフィスへの不法侵入・盗聴事件、いわゆる「ウォーターゲート事件」である。 |
| 1972年6月17日に、ワシントンD.C.のウォーターゲート・ビル内にある民主党全国委員会オフィスへの不法侵入と盗聴器の設置容疑で逮捕された5人のうちの1人であるジェームズ・W・マッコード・ジュニアの所持品から、ニクソン大統領再選委員会のスタッフであるエドワード・ハワード・ハントのホワイトハウス内の連絡先電話番号が見つかった。 |
支持基盤
| また経済界では、自らが顧問弁護士を務めていたペプシコやカリフォリニアに油田を多く持っていた石油業界、さらに連邦議員時代から副大統領時代にかけては、地元のヨーバリンダの近隣のアナハイムで大規模遊園地の「ディズニーランド」を経営していた他、映画界でも高い影響力を持っていた保守派の実業家のウォルト・ディズニーなどと特に密接な関係を保っていた。 |
評価
| さらに、冷戦下におけるニクソンの外交手腕に高い評価を与える外国の有識者も多く、フランスの元外務大臣で、1960年代後半にシャルル・ド・ゴール大統領の下で首相を務めたモーリス・クーヴ・ド・ミュルヴィルは、1986年1月に行われたニューヨーク・タイムズ紙のインタビューの中でニクソンの外交政策とその手腕を絶賛している。 |
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リチャード・ニクソンさんについてのひとこと紹介
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