| この頃までのシュトラウスの作品は父親の教育に忠実で、シューマンやメンデルスゾーン風のかなり保守的なものであった。 |
| モーツァルトを崇敬しており、「ジュピター交響曲は私が聴いた音楽の中で最も偉大なものである。 |
| 終曲のフーガを聞いたとき、私は天国にいる思いがした」渡辺護CD「モーツァルト交響曲第40番・第41番」()に付属の解説書よりと語ったという。 |
| シュトラウスが当時の新しい音楽に興味を持つきっかけとなったのは、優れたヴァイオリン奏者で、ワーグナーの姪の1人と結婚したアレクサンダー・リッターと出会ったときからである。 |
| シュトラウスが革新的音楽に真剣に向き合うようになったのは、リッターによるところが大きい。 |
| この革新的傾向はシュトラウスに決定的な影響を与え、1889年に初演され、彼の出世作として最初に成功した作品、交響詩『ドン・ファン』(''DonJuan'')が生まれた。 |
| この作品に対する聴衆の反応は、半数は喝采したものの、残り半数からは野次が飛んだ。 |
| シュトラウスは彼の内なる音楽の声を聞いたことを知って、「多数の仲間から気違い扱いされていない芸術家など誰もいなかったことを十分に意識すれば、私は今や私が辿りたいと思う道を進みつつあると知って満足している」と話した。 |
| シュトラウスは他にも一連の交響詩の作曲を続けた。 |
| その中には『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』(''TillEulenspiegelsLustigeStreiche'',1895年)、シュトラウスの死後に映画『2001年宇宙の旅』で使われ有名になった『ツァラトゥストラはかく語りき』(''AlsosprachZarathustra'',1896年)がある。 |
| 1894年、シュトラウスはバイロイト音楽祭で『タンホイザー』を指揮する。 |
| 彼はこの時エリザベートを歌っていたソプラノ歌手とたちまち恋に落ち結婚した。 |
| シュトラウス夫人となったパウリーネはその激しい性格により、恐妻家シュトラウスの「悪妻」として数々の悪評を残したが、その叱咤激励のおかげで作曲家シュトラウスの作品が多くが生まれたのも事実であろう。 |
| ちなみに後に書かれた歌劇『インテルメッツォ』と『家庭交響曲』はこの夫人との家庭生活に想を得た作品であり、『影のない女』の染物師の妻もパウリーネがモデルと言われる。 |
| パウリーネがどのような人物であったかは、マーラーが妻アルマに送った1907年1月の手紙で書き残している。 |
| マーラーがベルリンに住んでいたシュトラウスの家を訪ねた際、以下マーラーの文章「パウリーネは私を出迎えると自分の部屋に私を引っ張り込み、ありとあらゆるつまらぬ話を豪雨のように浴びせかけ、私に質問の矢を放つのだが、私に口を出す暇を与えないのだ。 |
| それから疲れて寝ているシュトラウスの部屋へ、私を両手で掴んで有無を言わせず引っ張って行き、金切り声で“起きてちょうだい、グスタフが来たのよ!”。 |
| シュトラウスは受難者めいた顔つきで苦笑しながら起きると、今度は3人で先程の話の蒸し返し。 |
| それからお茶を飲み、パウリーネに土曜日の昼食を一緒にすることを約束されられて、2人に宿泊先のホテルまで送ってもらった。 |
| 」Mahler,Alma:ErinnerungenundBriefe.Bermann;FischerVerlag,1949(酒田健一訳,白水社,1973)。 |
| 1898年、最後の交響詩『英雄の生涯』(''EinHeldenleben'')を書き上げたシュトラウスは、関心をオペラに向けるようになった。 |
| このジャンルでの最初の試みである『グントラム』(1894年作曲)は主に自作の台本の拙さのせいで酷評され失敗に終る。 |
| 続く『火の危機』(1901年作曲)もミュンヘン方言のオペラということもあり、一定の評価を収めたにとどまった。 |
| しかし、1905年にオスカー・ワイルドの戯曲のドイツ語訳に作曲した『サロメ』(''Salome'')を初演すると、空前の反響を呼んだ。 |
| ただし、聖書を題材にしていることや、エロティックな内容が反社会的とされ、ウィーンを始め上演禁止になったところも多い。 |
| ニューヨークのメトロポリタン歌劇場がこの作品を上演した時などは、終演後の聴衆の怒号の余りの激しさにたった1回で公演中止になったほどであった。 |
| マーラーら、当時の作曲家達はその音楽の前衛性に深く共感し、シュトラウスはオペラ作曲家としての輝かしい第一歩を踏み出した。 |
| シュトラウスの次のオペラは『エレクトラ』で、前衛的手法をさらに徹底的に推し進めた。 |
| 多調の多用、不協和音の躊躇なき使用などを行い、調性音楽の限界を超えて無調音楽の一歩手前までに至った。 |
| この作品はシュトラウスが詩人フーゴ・フォン・ホーフマンスタールと協力した最初のオペラでもある。 |
| この2人はホーフマンスタールが亡くなるまで、音楽史上も稀に見る実り豊かな共作を続けていくことになる。 |
| そのホフマンスタールとの共同作業第2作目になる『ばらの騎士』(''DerRosenkavalier'',1910年)で、大成功をおさめ作曲家として不動の地位を獲得する。 |
| シュトラウスは『ばらの騎士』を境に前衛的手法の追求を控え、当時興隆しつつあった新ウィーン楽派や新古典主義音楽などとは一線を画して後期ロマン主義音楽の様式に留まり続けたため、結果的にその後に時代においては穏健な保守派の立場に立つ事となる。 |
| その後も最後のオペラ作品となる『カプリッチョ』に至るまで精力的にオペラを作曲した。 |
| 喜劇の比率が高く(特に中期以降)、ロマン派以降、ワーグナー、ヴェルディ、プッチーニら大物オペラ作家の仕事がほとんど悲劇で占められている中で異彩を放っている。 |
| 晩年の保守派というマイナスイメージは死後は相対的に拭い去られ、今日ではロマン派最末期の巨星として多くの作品が演奏、上演され続けている。 |
| さすがに最後の十年は創作ペースが衰えたとはいえ、それでも『カプリッチョ』『最後の四つの歌』など重要な作品があり、『ドン・ファン』から数えると、代表作が実に60年におよんでいる。 |
| これは音楽以外の創作分野でも史上類例が少ない息の長さである。 |
| また、器楽作品とオペラの両方に多くの代表作を残したという点では、モーツァルト以来の存在となった。 |