| 1813年、ザクセン王国・ライプツィヒに生まれる。 |
| 父カール・ワーグナーは下級官吏であったが、フランス語に堪能であったため、当時ザクセンに駐屯していたナポレオン率いるフランス軍との通訳としてたびたび駆り出された。 |
| カールはリヒャルトの生後まもなく死に、母ヨハンナはカールと親交があったルートヴィヒ・ガイヤー(ユダヤ人・実父説もあり)と再婚した。 |
| ワグナー一家は音楽好きで、家庭内で演奏会などをよく開くなど幼時から音楽に親しみ、リヒャルトの兄弟の多くも音楽で身を立てている。 |
| 特に一家とも親交があった作曲家ウェーバーから強い影響を受ける。 |
| ウェーバーは若きワーグナーにとって憧れの人で、生涯敬意を払い続けた数少ない人物であった。 |
| 15歳のころベートーヴェンに感動し、音楽家を志した。 |
| それと同時に劇作にも関心を持ち、のちに彼独自の芸術を生み出す原動力となる。 |
| 10代から盛んにピアノ作品を作曲しており、初期ロマン派の語法の積極的な摂取が幼いながらも認められる。 |
| 当初は絶対音楽の作曲家になろうと交響曲にも関心を示したが、すぐに放棄した。 |
| 1831年、18歳の時にライプツィヒ大学に入学。 |
| 哲学や音楽を学び、翌年1832年、交響曲第1番ハ長調を完成させた。 |
| 時を同じくして、最初の歌劇『婚礼』を作曲した。 |
| 1833年にヴュルツブルク市立歌劇場の合唱指揮者となった。 |
| その後指揮者に飽き足らず歌劇作曲家を目指したが芽が出ず、貧困と借金に苦しんだ。 |
| 1836年女優のミンナ・プラーナー(MinnaPlaner)と結婚した。 |
| 彼女とはのちに次第に不和となった。 |
| このころ「恋愛禁制」を作曲し、ケーニヒスベルクやリガ(当時の帝政ロシア、現在のラトビア)で劇場指揮者をしながら転々とした。 |
| 1839年パリへ夜逃げ同然に移ったが相変わらず貧しかった。 |
| このパリ時代には小説『ベートーヴェン詣で』、『パリ客死』を書き、またのちに有名となる歌劇『最後の護民官リエンツィ』、『さまよえるオランダ人』を書いた。 |
| しかし、パリでワーグナーが認められることはなく、ワーグナーはフランスに悪印象を抱くようになる。 |
| 失意の内、1842年ドイツに帰り、ドレスデンで上記2歌劇を上演してようやく注目された。 |
| 翌年ザクセン王国宮廷劇場指揮者に任命された。 |
| 1844年にはイギリスで客死したウェーバーの遺骨をドレスデンへ移葬する式典の演出を担当した。 |
| 葬送行進曲とウェーバーを讃える合唱曲を作詞作曲し、多才を発揮した。 |
| 1845年には『タンホイザー』、1848年には『ローエングリン』を作曲し、好評を博した。 |
| 1849年、ドレスデンで起こったドイツ三月革命の革命運動に参加。 |
| 当地に来ていたロシアの革命家のバクーニンの影響下に入る(ジークフリートのモデルはバクーニンと言われている)。 |
| マルクスの友人である社会主義者のゲオルク・ヘルヴェークとも親交を結ぶ。 |
| しかし運動は失敗したため全国で指名手配され、リストを頼りスイスへ逃れ、数年間を過ごす。 |
| この亡命中にも数々の作品を生み出す。 |
| 彼独自の「総合芸術論」に関する論文数編を書き、「楽劇」の理論を創り上げた。 |
| たとえば、匿名で『音楽におけるユダヤ性』を書いてメンデルスゾーンやマイアベーアらを金銭づくのユダヤ人だから真の芸術創造はできないとして非難し、この反ユダヤ的思想は、ヒトラーがワグネリアンであったことと相まって、はるか後にナチスに利用されることとなる。 |
| しかし、彼のユダヤ人嫌いは一貫したものではなく、晩年にユダヤ人の指揮者を起用したり、親交もあった。 |
| 超大作『ニーベルングの指環』を書き始め、また『トリスタンとイゾルデ』を1859年に完成した。 |
| この時期には数人の女性と交際していた。 |
| 特にチューリヒで援助を受けていた豪商ヴェーゼンドンクの妻マティルデ(MathildeWesendonck)と恋に落ち、ミンナとは別居した。 |
| この不倫の恋は『トリスタンとイゾルデ』のきっかけとなり、またマティルデの詩をもとに歌曲集『ヴェーゼンドンクの5つの詩』を作曲している。 |
| またこの頃、ウィーン音楽院の教壇にも立っている。 |
| 追放令が取り消された後の1864年、ワーグナーに心酔していたバイエルン国王ルートヴィヒ2世から突然招待を受ける。 |
| しかしそれを非難した宮廷勢力や、すでに噂となっていたリストの娘で指揮者ハンス・フォン・ビューローの妻だったコジマ(Cosima,1837年-1930年)との仲を王も快く思わなかったことから、翌年スイスへ退避し、ルツェルン郊外トリープシェンの邸宅に住んだ。 |
| コジマは少女時代からワーグナーの才能に感銘を受けていたが、ワーグナーの支持者であったビューローと結婚し、2人の子を儲けていた。 |
| ところがこのころワーグナーと深い仲となり、ついにワーグナーの娘イゾルデを産む(2人とも離婚していない)。 |
| ワーグナーの正妻ミンナが病死(1866年)したのち、コジマはビューローと離婚してワーグナーと再婚した(1870年)。 |
| そしてビューローはワーグナーと決別し、当時ワーグナー一派と敵対していたブラームス派に加わる。 |
| 1867年には『ニュルンベルクのマイスタージンガー』が完成した。 |
| 『ジークフリート牧歌』は、コジマと子供たちのために密かに作曲し、1870年のコジマの誕生日に演奏したものであるが、現在でも歌劇以外の作品として特に有名である。 |
| 1872年、バイロイトへ移住し、ルートヴィヒ2世の援助を受けて、ワーグナーが長く夢見てきた彼自身の作品のためのバイロイト祝祭劇場の建築を始める。 |
| 1874年に『ニーベルングの指環』を完成。 |
| 劇場は1876年に完成し、『指輪』が華々しく上演された。 |
| が、自身が演出したこの初演にはワーグナーはひどく失望して、再度の上演を強く望んだが、おもに多額の負債のため、生前には果しえなかった。 |
| 1882年、舞台神聖祝典劇『パルジファル』を完成。 |
| 最後の作品となった本作は、バイロイト祝祭劇場の特殊な音響への配慮が顕著で、作品の性格と合わせて、ワーグナーはバイロイト以外での上演を禁じている(詳しくは『パルジファル』)。 |
| このころには祝祭劇場と彼の楽劇はヨーロッパの知識人の間で一番の関心の的となる。 |
| 彼の言行はいろいろの形で流布され、反ユダヤ主義者としても有名となったが、その一方でユダヤ人指揮者ヘルマン・レーヴィ(HermannLevi)に『パルジファル』の指揮を任せたりしている。 |
| 1883年2月13日、ヴェネツィアへの旅行中、客死。 |
| 作品でも私生活でも女性による救済を求め続けたワーグナーらしく、最後に書いていた論文は「人間における女性的なるものについて」であり、その執筆中に以前から患っていた心臓発作が起きての死であった。 |