| フランス革命直前の1788年、若いルイ=フィリップは自由主義に同調し、モン・サン=ミシェルの監獄の扉を破壊して開放した。 |
| この時、ジャンリス夫人も同伴していた。 |
| 1788年10月から1789年10月の間、パリにあるオルレアン公爵邸は革命の会議場として使われた。 |
| その後ジャコバン・クラブに入り、フランス軍に入隊した。 |
| フランス革命戦争が始まると、1793年、シャルル・フランソワ・デュムーリエの下でオランダに出征した。 |
| デュムーリエ率いるフランス軍は、1792年のヴァルミーの戦いではプロイセン軍に勝利するが、1793年のネールウィンデンの戦いではフリードリヒ・ヨシアス・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト率いるオーストリア軍に敗北した。 |
| デュムーリエはオーストリア軍のカール・マック・フォン・ライベリヒとの交渉の末、敵軍に寝返って国民公会転覆のためにパリ進軍を謀り、これにルイ=フィリップも巻き込まれた。 |
| 4月4日、同じく従軍していたルイ=ニコラ・ダヴー中佐はこの裏切りに義憤し、オーストリア軍陣地に向けて発ったデュムーリエとルイ=フィリップに対して妨害と反撃を行った。 |
| 国民公会による逮捕から免れるために、ルイ=フィリップはデュムーリエと共にオーストリア軍に身を投じた。 |
| デュムーリエは再びパリ進軍を謀るが、ルイ=フィリップは同調しなかった。 |
| その後、父ルイ・フィリップ2世はデュムリーエの裏切りによってジャコバン派から共和国転覆の嫌疑をかけられて財産を没収され、パリの革命裁判所により処刑された。 |
| オルレアン公爵を継承したルイ=フィリップはスイスへ亡命し、地理学・数学・近代文学の教師として薄給で暮らし、1795年にハンブルク、1795年から1796年までスカンディナヴィア諸国、さらに1797年から1799年までアメリカ合衆国へと移り、1801年から1807年にはロンドン郊外のトゥイッケナムに住んだ。 |
| ナポレオン失脚後の1814年に、同じく亡命していた妹のアデライードとフランスに帰国した。 |
| 1830年の7月革命でブルボン朝の復古王政が倒れると、ラ・ファイエットら自由主義者や大資本家、銀行家をはじめとするブルジョワジーから擁されて国王となり、7月王政が成立した。 |
| ルイ=フィリップ1世は「フランスの王」()を称し、政治体制は正統主義を否定して立憲君主制が採られた。 |
| また、責任内閣制を導入してアドルフ・ティエールやフランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーらを首相に登用し、さらに国内の安定と繁栄をはかるために経済の奨励を行ってフランスに産業革命を現出した。 |
| 対外政策においては、後のフランス帝国主義政策の端緒を開いた。 |
| 北アフリカでは、1830年に始まるアルジェリア出兵を引き継ぎ、1834年にはアルジェリアを併合した。 |
| また、アルジェリア出兵による自国民の死傷者の軽減のため、今に続くフランス外人部隊の設立勅書を1831年に出した。 |
| ラテンアメリカでは、当時政情不安定であったメキシコに介入し、1838年に菓子戦争を起こして勝利した。 |
| 極東では、アヘン戦争で敗れた清に対して1844年に黄埔条約を自国に有利な形で締結し、海禁政策を採るインドシナの阮朝大南国に対して1847年にダナン港を砲撃して圧力をかけた。 |
| 一方、2度のエジプト・トルコ戦争でいずれもエジプトを支持して地中海地域への影響力の強化を狙ったが、1840年のロンドン条約で列強にこれを阻止されるなど、ヨーロッパでは東方問題をめぐって国際的に孤立した。 |
| 7月王政期のフランスは市民革命の成果として自由主義の確立と資本主義の発達を見たが、選挙権を上層ブルジョワジーに限る制限選挙が維持され、産業革命によって形成された小ブルジョアやプロレタリアートによる普通選挙実現の要求が高まるようになると、政府はこれを弾圧した。 |
| また、1846年以来の恐慌の影響もあって社会不安が高まった。 |
| このような状況の中、選挙法改正をはじめとする政治改革を謳う「改革宴会」と呼ばれる宴会が催されるようになったが、1848年2月22日開催予定の改革宴会が政府によって開催禁止処分を受けると、これに反発した民衆が蜂起し、2月革命に発展した。 |
| ルイ=フィリップ1世は2月23日にギゾーを首相から更迭するなどしてこれに対処したものの事態は収拾がつかず、2月24日に退位してイギリスに亡命した。 |
| 同日にパリでは共和主義者と社会主義者によって組織された臨時政府によって共和政が宣言され、第二共和政が成立した。 |
| 亡命先のイギリスではヴィクトリア女王からクレアモントの居館をあてがわれたが、同地で客死した。 |
| こうして7月王政は終わり、オルレアン朝は1代で終わった。 |
| 7月王政を打倒した2月革命は諸国民の春としてヨーロッパ諸国に波及し、ウィーン体制の崩壊を招いた。 |
| また、ユーグ・カペーに始まるカペー朝とその支流によるフランスの君主制は、900年余り続いてその幕を閉じた。 |