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プロフィール
- レオナルド・ナシメント・ジ・アラウージョとは
- 現役時代
- 現役引退後
- 指導者として
- フロント入り
- 所属クラブ
- 指導歴
- 代表歴
- 出場大会
- 関連書籍
- 関連項目
- 関連サイト
レオナルド・ナシメント・ジ・アラウージョ(LeonardoNascimentodeAraújo1969年9月5日-)はブラジル出身のサッカー選手、同指導者。現役時代のポジションはMFおよびDF。愛称はレオ。17歳でプロ契約を結び、フラメンゴ、鹿島アントラーズ、ACミランなどでプレー。ブラジル代表の一員として、1994年、1998年と2度のワールドカップに出場し、優勝と準優勝を1度ずつ経験した。2011年までインテル・ミラノの監督を務めた。端正なルックスと華麗なプレー、国際経験の豊富さから、ブラジル、日本、イタリア(特にACミランサポーター)で高い人気を誇る。ブラジルの英雄 アイルトン・セナに似ていることもあり、日本では貴公子、レ ...
現役時代
| 15歳でフラメンゴのユースに入団し、17歳でトップチームでデビューを果たした「南米あの人にいま」footballista、ソルメディア、2009年4月15日号、37頁。 |
| 当時のフラメンゴにはジーコ、レアンドロ、ベベット、レナト・ガウショなどの名選手が在籍しており、デビューイヤーのブラジル全国選手権で優勝した。 |
| 1990年、サンパウロFCに移籍すると、彼やライー、その他の若きタレントたちはテレ・サンタナ監督からesquadrãotricolorと呼ばれ、自身2度目の全国選手権制覇を果たした。 |
| 1991年にはスペインのバレンシアCFに移籍したが、2年後の1993年にサンパウロFCに復帰した。 |
| 同年のコパ・リベルタドーレスで優勝し、インターコンチネンタルカップではトニーニョ・セレーゾのゴールをアシストしてクラブ世界一に貢献した。 |
| 1990年にはブラジル代表デビューを果たした。 |
| 1994FIFAワールドカップメンバーには4歳年下のロベルト・カルロスを退けて左サイドバックとして選出された。 |
| 初戦は好プレーを見せたが、決勝トーナメント1回戦のアメリカ戦で、相手MFタブ・ラモスと競り合った際の動きが相手顔面への肘打ちと判定され、退場および4試合の出場停止処分を受けた。 |
| ラモスは頬骨を骨折し、3ヶ月半の間入院した。 |
| この大会ではマウロ・タソッティがルイス・エンリケの鼻の骨を折って8試合の出場停止処分を受けたが、レオナルドの4試合の出場停止処分は、それに次いでワールドカップの歴史の中で2番目に長い処分であった。 |
| 1994年、ジーコからの誘いを受けてJリーグの鹿島アントラーズに移籍。 |
| 3年間でリーグ戦通算49試合出場30得点という成績を残した。 |
| 1996年にはフランスの名門パリ・サンジェルマンFCから移籍のオファーが来たため、鹿島を離れ難い心境からジーコに相談したところ、ジーコはレオナルドの将来を考え移籍を勧めた。 |
| 同年7月に行われたカシマサッカースタジアムでの退団セレモニーでは自ら日本語で「感動をありがとう!」と涙ながらに言い残した。 |
| 1999年10月、ロベルト・バッジョと共に国立霞ヶ丘競技場で開催されたJOMOカップのゲストプレイヤーとして来日。 |
| 外国籍選手選抜チームである「ワールドドリームス」の一員として参加し、久しぶりに日本のファンの前でプレーした。 |
| なお、この試合はレオナルドが日本でプレーした最後の試合となっている。 |
| 鹿島時代、1995年のJリーグ・ニコスシリーズ第19節、vs横浜Fとの試合で、3回のリフティングでディフェンダーを振り切った末のダイレクトシュートは神業シュートと語り草となっており、テレビなどで「(Jリーグ)スーパーゴール集」特集では必ずと言っていいほど取り上げられる。 |
| 1996年夏、パリ・サンジェルマンFCに移籍し、UEFAカップウィナーズカップ準決勝のリヴァプールFC戦ではチームを勝利に導くゴールを決めた。 |
| ここでは左サイドバックではなく、左サイドハーフやプレーメーカーなど中盤のポジションでプレーすることが多かった。 |
| 1997年、ブラジル代表の背番号10を与えられ、同年のコパ・アメリカでは中心選手として優勝に貢献した。 |
| 1997年夏、イタリアのACミランに移籍金850万ユーロで移籍した。 |
| 卓越したプレーを見せ、1998-99シーズンでは股関節炎のためフル出場は少ないものの、27試合12得点を記録してリーグ制覇に大きく貢献した。 |
| 4シーズンで177試合に出場して22得点を決め、ブラジル帰国を決めた2001年、ミラノでのホーム最終戦では、選手全員に「ありがとう、レオ」のTシャツを着て送り出された。 |
| 去り際に残した「(移籍しても次は)イタリアでは絶対にプレーしない。 |
| マルディーニやバレージがいなかったとしても、ミラン相手に戦えない」という言葉は、ミラノ市民を大いに涙させた。 |
| 彼の人間性が評価された瞬間である。 |
| -->1998年のフランスワールドカップでは7試合すべてに出場したが、決勝で地元フランスに0-3の敗戦を喫した。 |
| グループリーグのモロッコ戦では彼のシュートがネットを揺らしたが、オフサイドの判定によりゴールは認められなかった。 |
| 日韓ワールドカップ予選を最後にブラジル代表を退き、通算60試合出場8得点という記録を残した。 |
| ACミラン退団後は母国のサンパウロFCやフラメンゴでプレーし、その後一度は現役を引退するものの、シルビオ・ベルルスコーニ会長、アドリアーノ・ガッリアーニ副会長からの強い要望により、2002年10月から短期間だけACミランでプレーして現役生活を終えた。 |
現役引退後
| 現役引退後は副会長補佐としてACミランに籍を残し、2003年にクラブの出資により設立された慈善財団ファンダツィオーネ・ミランのゼネラルセクレタリーを務めた |
| スカウトやエージェントとしても働き、カカやアレシャンドレ・パトの獲得に貢献した。 |
| 2005年頃、右腕に日本語で「全てに感動を」というタトゥーを入れ、「これで本当に日本とつながっている気がする」と語っている |
| 2006年のドイツワールドカップ時には、マルセル・デサイーとともにイギリスのBBCテレビの解説を務めた。 |
| 2007年6月1日には、ウェンブリー・スタジアムのこけら落としとなるイングランド対ブラジル戦でアラン・ハンセンやアラン・シアラーとともに解説を務めた。 |
| 2008年初頭、ACミランのテクニカル・ディレクターに就任した。 |
| 同年後半には12年間住んでいるイタリアの市民権を取得した。 |
指導者として
| 2009年6月1日、レオナルドはチェルシーFCに移ったカルロ・アンチェロッティの後任としてACミランの監督に就任 |
| 2009-10シーズン序盤はライバルのインテル・ミラノに0-4で大敗し、解任も噂された |
| 第8節のASローマ戦を迎えた時点で10位と低迷していたが、独特の4-2-1-3システム(4-2-ファンタスティック、4-2-ファンタジアとも表現される)を採用して徐々に成績を上げた。 |
| このシステムは従来のイタリアサッカーとはかけ離れており、ロナウジーニョ、アンドレア・ピルロ、クラレンス・セードルフらのクリエイティブなプレーが注目を集めた。 |
| UEFAチャンピオンズリーグではサンティアゴ・ベルナベウの地で初めてレアル・マドリードを破り、リーグ戦ではアウェーのユベントス戦に3-0で快勝した。 |
| UEFAチャンピオンズリーグは決勝トーナメント1回戦でマンチェスター・ユナイテッドFCに2試合合計2-7(2-3、0-4)で大敗を喫し、ベスト16に終わった。 |
| リーグ戦は前半戦を終えた時点で首位インテルから6ポイント差につけ、後半戦も安定してUEFAチャンピオンズリーグ出場権内の4位以内を維持していたが、2010年5月14日にシーズン限りでの監督退任が発表された |
| 2010年12月、シーズン途中で解任されたラファエル・ベニテスの後任としてインテル・ミラノの監督に就任、同シーズン最終戦となるコパ・イタリア決勝戦にて3-1でパレルモを破り監督としての初タイトルを手にした。 |
| 2011年東北地方太平洋沖地震に際し、{{Squote|「被害に見舞われた日本のみなさんとの団結や結束を表現するために、我々は喪章をつけてブレシア戦に臨むことを決意し、ブレシア側も我々の意向を快く受け入れてくれた。 |
| それは、とてもささやかな行為だし、問題の解決には結びつかないかもしれない。 |
| でも、我々はそうすべきであると判断したんだ」「我々はよく、サッカーが世界で最も重要なものであるかのような話をするけれど、今回のような悲劇、日本を襲った悲劇は、我々に現実の世界を、何が重要かを思い知らせる。 |
| もしかすると、私は今日の試合で采配を誤ったかもしれない。 |
| だが、日本で起こったことを考えると、すべてがささいなことに思えてしまう……」「残念ながら、今の気持ちをうまく説明するための言葉が思い浮かんでこないが、私にとってとても身近で、とても大切な日本を襲った悲劇が一日も早く終息することを心より願っている」}}といった激励のメッセージを発した。 |
フロント入り
| 2011年、インテル・ミラノの監督を退任し、パリ・サンジェルマンのスポーツディレクターに就任。 |
所属クラブ
| 1984年-1987年-フラメンゴユースチーム。 |
| 1987年-1989年-フラメンゴ。 |
| 1990年-1991年-サンパウロ。 |
| 1991年-1993年-バレンシア。 |
| 1993年-サンパウロ。 |
| 1994年-1996年-鹿島アントラーズ。 |
| 1996年-1997年-パリ・サンジェルマン。 |
| 1997年-2001年-ACミラン。 |
| 2001年-サンパウロ。 |
| 2001年-2002年-フラメンゴ。 |
| 2002年-2003年-ACミラン。 |
指導歴
| 2009年-2010年ACミラン。 |
| 2011年-インテル・ミラノ。 |
出場大会
| 1993年-トヨタヨーロッパ/サウスアメリカカップ(優勝)。 |
| 1994年-FIFAワールドカップアメリカ大会(優勝、背番号16)。 |
| 1997年-コパ・アメリカ1997(優勝)。 |
| 1997年-FIFAコンフェデレーションズカップ(優勝)。 |
| 1998年-FIFAワールドカップフランス大会(2位、背番号18)。 |
関連書籍
| 『レオナルド自伝-いつも感動とともに』、1999年、ビクターエンタテインメント、ISBN4893891596。 |
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1969年
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レオナルド・ナシメント・ジ・アラウージョ(... |
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1990年
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サンパウロFCに移籍すると、彼やライー、その... |
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