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プロフィール
- ロナルド・レーガンとは
- 概要
- 生い立ち
- 映画俳優
- 結婚と離婚
- 保守主義者
- カリフォルニア州知事
- 大統領選
- 第40代大統領
- 暗殺未遂事件
- 人種差別対策
- 冷戦の終結
- 対中南米政策
- イラン・コントラ事件
- 各国首脳との関係
- 日本との関係
- 関連サイト
ロナルド・ウィルソン・レーガン(,1911年2月6日–2004年6月5日)は、アメリカ合衆国の俳優、政治家。第40代アメリカ合衆国大統領。最年長で選出された大統領(69歳349日)であり、唯一離婚歴を有する大統領である。身長185cm。
概要
| 1期目はアメリカ経済の回復を政策目標に掲げ、「レーガノミックス」に代表される大幅減税と積極的財政政策でアメリカに長期の好景気をもたらした。 |
| 外交面では、ジミー・カーター前大統領時代にイラン革命やニカラグアでのサンディニスタ政権成立によって親米独裁政権が失われており、この失地を挽回すべく、レーガンは外交に関しては殊、強硬策を貫き、ベトナム戦争以来の本格的な外国への武力侵攻をグレナダに対して行う等、「強いアメリカ」を印象づけた。 |
| しかし2期目はイラン・コントラ事件に代表される数々のスキャンダルに見舞われ、レーガン政権の体質に対して各方面から辛辣な批判が目立った。 |
| レーガンはデタントを否定し、ソビエト連邦を「悪の帝国」と批判。 |
| 「力による平和」戦略によってソ連及び共産主義陣営に対抗する一方、「レーガン・ドクトリン」を標榜し世界中の反共主義運動を支援した。 |
| 前者はソ連の解体、後者はベルリンの壁崩壊に代表される東側諸国の民主化に繋がり、レーガンは冷戦の平和的な終結に貢献した。 |
| 大統領退任から5年後、自らのアルツハイマー病を告白。 |
| 公の場には出ず、闘病に専念するようになった。 |
| 2004年6月5日、長い闘病の末、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス市の私邸で死去()。 |
生い立ち
| 220px|thumb|兄(左)と。 |
| イリノイ州タンピコで、父ジョン・レーガンと母ネル・ウィルソンの間の2人の息子の2番目として生まれた。 |
| 数年間にわたり町から町へ引っ越した後、1920年に一家はイリノイ州ディクソンに定住した。 |
| アイルランド系の父親はカトリック教会に属していたが、スコットランド系の母親はプロテスタント「主流派」のディサイプル教会の熱心な信徒で、母の影響を受けたロナルドは11歳のときに同教会で洗礼を受け、プロテスタントとなる。 |
| なお兄のニールは父と同じカトリックを選んだ。 |
| 父はアルコール依存で、母の属する教派は禁酒派だった。 |
| 幼少の頃のレーガンは教会によく通い、やがて信徒を前に説教をするようになり、後年の彼の演説力が培われた。 |
| 1924年にディクソンのディクソン高校に入学した。 |
| 1926年、ディクソンの北5kmにあるローウェル公園に沿って流れるロックリバーでのライフガードが初めての仕事だった。 |
| 7年間の夏季勤務中、77人を溺死から救ったとのことである。 |
| 後年レーガンは、「(救助した)彼らのうち9人は私に有難うを言わなかった」とジョークを話したという。 |
| イリノイ州のユーリカ大学に1928年に入学し、経済学と社会学を専攻し、1932年に卒業した。 |
映画俳優
| 220px|thumb|ラジオアナウンサー時代。 |
| 220px|thumb|『CowboyFromBrooklyn』の予告編より(1938年)。 |
| 幼い頃より話術と演技に才能があり、後にそれをさらに発展させ、シカゴの大リーグチーム・シカゴ・カブスのラジオアナウンサーになった。 |
| ティッカー(ニュースなどを紙テープに印字する自動受信機)の紙テープからわかる試合の輪郭だけをもとに、自らの想像と話し方の才能をつかって実況放送を行った。 |
| 1934年のセントルイス・カーディナルス戦において、カブスの9回の攻撃時に放送回線が故障したが、機器が回復するまで架空の実況放送を即興で滑らかに行った。 |
| レーガンはハリウッドで準トップ級の主役として成功した経歴を持っている。 |
| 映画初出演は『LoveisOntheAir』(1937年)、1939年末までに19本の映画に出演した。 |
| 1940年には『KnuteRockneAllAmerican』で、大学フットボールのスター選手で25歳で早世したジョージ・ギップ(愛称:ギッパー)の役を演じ、そこから彼はギッパーという愛称を得た。 |
| レーガン本人によると、自己最高の作品は『KingsRow』(1942年)であるという。 |
| そのほかの代表作には、『HellcatsoftheNavy』『ThisIstheArmy』『BedtimeforBonzo』などがある。 |
| 一連の映画出演を顕彰してロサンゼルスのハリウッド大通り6374番のハリウッド・ウォーク・オブ・フェームには、彼の名前が刻まれた星形の敷石がある。 |
| ちなみに最初の代理人はユニバーサル・スタジオの元社長、名誉会長のルー・ワッサーマンである。 |
| 1935年にアメリカ陸軍の予備役将校になっている。 |
| 第二次世界大戦時には、1941年12月8日の日本海軍による真珠湾攻撃の後に招集され、視力が弱かったためアメリカ陸軍航空軍の中の第一映画部隊に配属され、訓練用・教育用の映画やプロパガンダ映画の制作・ナレーションに携わった。 |
| 終戦までハリウッドに残り大尉まで昇進した。 |
| その後、1950年代の終わり頃には映画に出ることは少なくなり、テレビショー『GeneralElectricTheater』の司会など、当時最新のメディアとして人気を集めていたテレビへとその活動の場を移していった。 |
| 『DeathValleyDays』の司会が、彼の俳優としての最後の仕事である。 |
結婚と離婚
| 220px|thumb|家族とともに(1960年)。 |
| 1940年に女優のジェーン・ワイマンと結婚した。 |
| ワイマンとの間には長女モーリーン(1941年生)と養子に迎えた長男マイケル(1945年生)がいる。 |
| 1947年にも娘が生まれたが4ヵ月の早産で翌日に死去している。 |
| しかしレーガンの政治への指向が増すと、あくまでも女優であり続けたいとするワイマンとの間がうまくゆかなくなり、1948年に離婚した。 |
| なお、レーガンは離婚歴のある唯一のアメリカ大統領である。 |
| 1952年には女優のナンシー・デイビスと再婚し、カリフォルニア州のパシフィック・パリセーズに住居を構えた。 |
| ナンシー夫人との間には次女パトリシア・アン(1952年生)と次男ロン(1958年生)がいる。 |
保守主義者
| 1950年代アメリカの反共・反ソ機運はレーガンの政治的なイメージを増強した。 |
| レーガンはフランクリン・ルーズベルトと彼のニューディール政策を支持して、リベラル派としてキャリアを始めたが、のちに保守主義者に転じた。 |
| レーガンは、映画俳優組合(SAG)の委員長の立場でありながら上院議員ジョセフ・マッカーシーやリチャード・ニクソン率いる下院非米活動委員会に協力し、「ハリウッドの赤狩り」(=マッカーシズム)に手を貸した。 |
| 彼は多くの反共主義者と異なりアメリカ共産党の非合法化に強く反対した。 |
| 政府と取引が多い電機メーカーのゼネラル・エレクトリック(GE)社に雇われたのは、反共産主義のスピーチをラジオ放送上で行ったからであると言われる。 |
| その後行われた1964年の大統領選挙では、レーガンは小さな政府を唱えるアリゾナ州選出の上院議員バリー・ゴールドウォーターの熱烈な支持者だった。 |
| 彼はGEがタービンを納めているテネシー川流域開発公社に反対してテレビ番組ジェネラル・エレクトリック・シアターのパーソナリティーをクビになった。 |
カリフォルニア州知事
| レーガンの自由主義者としての顔は、カリフォルニア州知事時代に行った政策にも如実に現れている。 |
| 例えば、州議会を「バイクに乗る際、ヘルメットの着用を義務付ける」という法案が通過した際、レーガンは州知事権限でこれを取り消した。 |
| その理由は「バイクに乗る者は、バイクに乗るという行為がどれだけ危険かわかって乗っているはずだ。 |
| ならば、ヘルメットの着用などということは個人に任せるべきであって、それに州政府が関与する必要はない」というものだった。 |
| また当時激戦を極めていたベトナム戦争に関して「ベトナムを焼き払って駐車場にすればいい」と発言して批判を浴びたこともある。 |
大統領選
| レーガンは1968年に大統領選に初出馬したが、ニクソン元副大統領相手に予備選の段階で票が伸びず敗退した。 |
| 1976年に再出馬、この時は現職のフォード大統領に肉薄する勢いで善戦したが、夏の全国共和党大会における代議員投票で、フォード1187票に対し、レーガン1070票で惜敗した。 |
| 満を持して臨んだ続く1980年の大統領選では難なく党大統領候補指名を獲得した。 |
| 選挙活動は、民主党選出で現職の大統領でもあるジミー・カーター政権下で起きたイランアメリカ大使館人質事件への対応で特徴づけられた。 |
| 海外のマスコミは、選挙後まで人質を拘束させ続けるためにレーガン陣営が秘密の取り引きを結んだと非難した。 |
| 最終的にレーガンは、1980年に行われた大統領選挙で現職のカーターを破って当選した。 |
| その後ほとんどのアナリストは、カーターのイラン大使館人質事件解決に対する無力さと優柔不断さが、カーターの敗北およびレーガンの勝利に大きな役割を果たしたと考えた。 |
| また、俳優時代に培われた演技力、演出力もレーガンの有力な武器の一つだった。 |
第40代大統領
| 220px|thumb|就任式(中央はナンシー夫人)。 |
| 1981年1月21日に大統領に就任したレーガンは、1984年の再選をかけた大統領選挙でも民主党候補のモンデール前副大統領に空前の地滑り的大勝を果たした。 |
| なお就任当日に、イランのアメリカ大使館人質事件において人質となっていた大使館員らが、444日間ぶりに解放された。 |
| 1989年まで在任、アイゼンハウアー(在任1953年–1961年)以来久々に2期8年の任期を満了した大統領となった。 |
暗殺未遂事件
| レーガン政権の船出は暗殺未遂事件に見舞われるという衝撃的なものだった。 |
| 大統領に就任して69日後の1981年3月30日、講演先のワシントンD.C.のヒルトンホテルを裏口から退出した際に、レーガンはジョン・ヒンクリーによって狙撃される。 |
| 3秒間で6発の弾丸が発射され、レーガンの脇にいた大統領報道官のジェイムズ・ブレイディ、シークレットサービスのティモシー・マッカーシー、ワシントン市警警官のトーマス・デラハンティーの三人が被弾してその場に倒れた。 |
| 護衛官が盾となって要人を救うというシーンは後に、クリント・イーストウッド主演の「シークレットサービス」、ブルース・ウィリス主演の「ラスト・ボーイスカウト」等で主人公の過去の英雄的エピソードとして用いられている。 |
| ファイル:Reaganassassinationattempt3.jpg|220px|thumb|暗殺未遂事件の決定的瞬間。 |
| 被弾して倒れる報道官とシークレットサービス、ヒンクリーを押さえ込む人垣、大統領が押し込まれた専用車の扉はまだ半開のままである。 |
| レーガンは別のシークレットサービスのジェリー・パーによって大統領専用車に押し込まれたが、そのとき胸に痛みが走った。 |
| これを見たパーは、大統領は被弾しており、しかも銃弾は肺に穴を開けているととっさに判断、運転手に最寄りの病院へ大至急直行するよう指示した。 |
人種差別対策
| 人種差別問題の解消に対しては積極的な態度を取り続け、1988年には戦後長らく懸案の課題だった第2次世界大戦中の日系人の強制収容に対して謝罪と1人当たり20,000ドルの損害賠償を行っている。 |
冷戦の終結
| 1983年にソ連のことを「悪の帝国」と言い切ったときも、1987年にベルリンの壁の前で数万人のベルリン市民に向かって「ゴルバチョフさん、この壁を壊しなさい!(“Mr.Gorbachev,teardownthiswall!")」とアピールしたときも、これが単なる演説の一節に終わらず、社会の変革を引き起こす要因の一つとなるほど人々の脳裏に深く刻みこまれたのも、こうしたレーガンの天賦の才があったことがその大きな要因の一つだった。 |
| 220px|thumb|中距離核戦力全廃条約|中距離核戦力全廃条約(INF条約)に調印する米ソ両首脳(1987年12月8日、ホワイトハウス)。 |
| レーガン政権は、米ソ両超大国の力の均衡を維持することに役立っただけで、冷戦そのものの解決にはまったくならなかったばかりか、いたずらにこれを長期化させる原因になっていたデタントを否定し、ソ連を「悪の帝国」と名指しで非難。 |
| レーガンはゴルバチョフと、ジュネーヴ(1985年11月)、レイキャビク(1986年10月)、ワシントンD.C.(1987年12月)、モスクワ(1988年6月)と四度にわたって首脳会談を行っている。 |
| 「レーガン・ドクトリン」によって地道に支援されてきた東欧の反共産主義運動は、モスクワの屋台骨が揺らぎ始めると、1989年8月、ハンガリー政府当局が約1000人の東ドイツ国民を自国経由でオーストリアに脱出する手助けをするという「ピクニック事件」が起きたのを皮切りに、11月にはドイツでベルリンの壁が崩壊し、チェコスロバキアではビロード革命が共産党による一党独裁を廃止、12月にはブルガリアの共産党政権が崩壊し、ルーマニアではチャウシェスク独裁政権を血祭りにあげるなど、東欧諸国は雪崩を打って民主化を果たし、ここに冷戦は事実上終結した。 |
対中南米政策
| 「エルサルバドル死守」を中米外交の基本政策に掲げ、中米紛争ではニカラグアのコントラやエルサルバドル軍、グアテマラ軍、及び極右民兵組織を支援し、CIAを使って各国軍の死の部隊による「汚い戦争」を支え、結果的にニカラグア内戦、エルサルバドル内戦、グアテマラ内戦を激化させて当該地域で何十万人という犠牲者と、何百万人もの亡命者を出す要因を作った。 |
| レーガンはグレナダのみならず、「西半球の癌」と呼んでいた容共的なニカラグアのサンディニスタ政権に対して、駐ホンジュラスアメリカ陸軍を増強し、ニカラグア直接介入(侵攻)をも狙っていたようだが、1984年のレバノン介入の失敗によってニカラグア侵攻は不可能になった。 |
| またレーガンは、1973年にアメリカが支援したチリ・クーデターによって大統領になり、以降軍事独裁政権を保っていたチリのアウグスト・ピノチェト将軍を「友人の中の友人」と呼び、カーター政権時代に人権問題のためになされていた対チリ経済制裁を解除し、ピノチェト政権の延命を支えた。 |
イラン・コントラ事件
| 国家安全保障担当補佐官ジョン・ポインデクスターおよび国家安全保障会議軍政部次長オリバー・ノース中佐が、イラン政府に武器を売却し、その代金を第二次ニカラグア内戦を戦っていた、アメリカが組織した旧ソモサ王朝派の反共産主義傭兵軍コントラに対する支援に流用するための精巧な計画を企てた。 |
| この二つの行為は明らかに法律に反しており、レーガンは計画を知らなかったことを公言したが、武器の売却が、レバノンでイランが支持するテロリスト・グループ、ヒズボラによって人質にとられているアメリカ人の釈放を安全に行うことを支援することになっていたという理由で、イランへの武器の売却を支援したと認めた。 |
日本との関係
| 最初の訪日では昭和天皇や中曾根総理と会談したほか、キャンプ・デービッドへ招待された答礼として中曾根が、11月11日に東京都西多摩郡日の出町の別荘「日の出山荘」に招き、蔦子夫人手作りの昼食を共にしたことが大きな話題となった。 |
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1920年
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一家はイリノイ州ディクソンに定住した |
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1924年
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ディクソンのディクソン高校に入学した |
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