3701
3820
52568
%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88
%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88
%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88
%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88
%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88
0
|
他の画像検索結果
他人の画像が選択されている・混じっている場合
画像候補は人物名で顔画像を検索したものです。
人物として適切でない画像も含まれてしまう可能性があります。
適切な画像になるよう ロバート・スコットの画像検索結果ページで修正できます
|
|
ネットワーク
|
タグ
キーワード
|
|
|
|
|
|
プロフィール
- ロバート・スコットとは
- 生涯
- 探検隊
- 南極点到達競争の勃発
- 南極大陸上陸
- 南極点到達
- パーティーの遭難
- 南極到達レースの敗因・遭難の原因の分析
- 防寒服
- 輸送手段
- 移動コース
- 学術調査
- リーダーシップ
- 関連項目
- 関連サイト
ロバート・ファルコン・スコット(RobertFalconScott,1868年6月6日-1912年3月29日)はイギリス海軍の軍人。南極探検家としても知られ、1912年に南極点到達を果たすが、帰途遭難し、死亡した。
生涯
| 1868年、醸造業を営むジョン・エドワード・スコットの長男として、誕生。 |
| 武人の家系であり、13歳で海軍兵学校に入学する。 |
| 15歳で士官候補生となる。 |
| 1888年、海軍大学を卒業。 |
| 1899年、少佐だったスコットは、王立地理学協会による南極探検計画を知り、隊長として参加する事を熱望する。 |
| 翌年中佐に昇進し、その任にあたった。 |
| 1901年から1904年にかけて、第1回南極探検(ディスカバリー号の探検)が行われた。 |
| この際、アーネスト・シャクルトンらと共に南極点到達を目指し、残り733kmの地点まで迫っている。 |
| また、ペンギン生態観察等を行い、南極に関する多くの科学的知見を得て、高い評価を得、帰国と同時に大佐に昇進する。 |
| 1908年に、彫刻家のキャサリン・ブルースと結婚。 |
| 1909年9月、彼の南極探検計画が発表され、同年12月には自ら予備役に転じ資金調達に奔走する。 |
| 前回の南極探検は、国家的プロジェクトだったが、今回の探検はその立案からスコット個人によるところが大きい。 |
| 1910年から1912年にかけて、南極探検(テラ・ノヴァ号の探検)が行われた。 |
| 学術調査だけでなく、ノルウェーと人類史上初の南極点到達を競うことになる(後述)が、2着に終わり、さらに帰路1912年3月29日、死去した。 |
| 同年10月に救援隊により遺体が確認され、遺品の一部が回収されたが、遺体は現在も回収されていない。 |
| ロンドンのウォータールー・プレイスには、北極探検の半ばに死亡した、ジョン・フランクリンの銅像と並び立つように、スコットの像が建てられている。 |
| この銅像は、キャサリン夫人が製作したものである。 |
探検隊
| 隊長:ロバート・スコット海軍大佐。 |
| 副隊長:エドワード・エヴァンズ海軍少佐。 |
| 他海軍士官7名。 |
| 他普通隊員12名。 |
| ウーズレー社製モーター雪上車3台。 |
| 矮馬(ポニー)19頭。 |
南極点到達競争の勃発
| 1910年6月1日、スコットはテラ・ノヴァ号にて第2回南極探検に出発する。 |
| この探検には8,000名の希望者から選抜された33名の上陸隊員が参加し、南極の科学的探査を行うと共に、世界初の南極点到達を目標としていた。 |
| 同年ロアール・アムンセン率いるノルウェー隊は、北極点到達がロバート・ピアリーの米国隊により達成された事を知り、目標を南極に変更。 |
| 10月12日、オーストラリアのメルボルンに、10月27日にはニュージーランドのウェリントンに到着。 |
| ここで、ノルウェーのアムンセン隊も南極点到達を目指すことを知る。 |
| なお、スコット本人は資金調達のため別行動を取った。 |
| 両隊とも、1911年1月には南極大陸に上陸し、翌夏の南極点到達を目指し、デポ(前進基地)の建設等準備を進めた。 |
| この冬の段階で、すでに馬は10頭まで減っている。 |
| また、ウィルソンやキャンベルを中心に学術調査も行われた。 |
南極大陸上陸
| 1911年10月、マクマード湾での越冬を終えたスコット隊は、エヴァンス岬(ロス棚氷)から南極点に向け出発する。 |
| 雪上車2台による先発隊が10月24日、そしてロバート・スコットが率いる馬ソリの本隊が11月1日に出発した。 |
| しかし、これに先立つ10月19日には、より南極点に近いクジラ湾からアムンセンの犬ぞリ隊も南極点を目指し出発していた。 |
| 出発前にアムンセンはスコット隊の隊員と会見した時、そり犬を譲ろうと申し出ているのだが、イギリス側はその申し出を断っている。 |
| スコット隊は投入した2台の雪上車が、スコットの期待に反し1週間足らずで両方とも故障し修復不可能になる等、南下は困難を極める。 |
| 主力の馬も、11月21日に1頭、寒さと疲労、餌の欠乏で次々と失い、南下のペースが鈍ってゆく。 |
| 12月2日、ついに食料節約のため最後の一頭も射殺せざるを得ない状況に追い込まれた。 |
| ついに人力でソリを曳かざるを得なくなった。 |
| この時点で、4人一組で曳引するソリが3台、犬ゾリが2台となる。 |
| 12月11日、まず犬ゾリ隊が帰還。 |
| 同月22日に、4名が帰還した。 |
南極点到達
| 180px|thumb|南極点到達メンバー(後列左から)ウィルソン、スコット、エヴァンズ(前列左から)バウアーズ、オーツ。 |
| 1912年1月4日に南緯87度32分の地点でグループは分かれ、エヴァンス少佐ら3名が帰還した。 |
| 最終的に南極点を目指すのはスコット、エドワード・ウィルソン、ヘンリー・バウアーズ、ローレンス・オーツ大尉、エドガー・エヴァンスの5人に絞られた。 |
| スコットが直前になってバウアーズを加え、当初の予定より1名多い。 |
| 1月9日、かつてシャクルトンが到達した南緯88度23分を越える。 |
| 翌10日、最後のデポを建設。 |
| 1月17日18時30分頃、スコット達は遂に南極点に到達した。 |
| しかしその時は、アムンセン隊が南極点に到達してから既に約1ヶ月も経っており、極点にはノルウェーの国旗が立てられていた。 |
| 極点から3km程離れた場所にテントが設営され、食料・防寒具・手紙が置かれていた。 |
| 映画などでは劇的効果を高めるために南極点到達時にアムンセン隊に先を越されたことが初めて判明したように描写されることが多い。 |
| しかしスコット達はそれ以前にアムンセン隊のソリの滑走痕を視認しており、遅くとも1月16日には彼等に先を越されたことはほぼ確実であると認識していた。 |
パーティーの遭難
| 失望に覆われたパーティーは帰途、3月29日までに全員が死亡した。 |
| E・エヴァンズの衰弱と凍傷は激しく、2月16日、最初に死亡した。 |
| しかし、このような状況にあっても、ウィルソンを中心に標本採集を継続していた。 |
| 続いてオーツが足に重度の凍傷を負い、自らを見捨てるよう嘆願するようになった。 |
| 彼が重体となった3月14日、スコットは日記に、携行していた阿片・モルヒネの使用をウィルソンに相談した事を記した。 |
| 3月17日の朝、オーツは「Iamjustgoingoutsideandmaybesometime」と言葉を残してブリザードの中テントから出て行方不明となる。 |
| 3月21日、食料を置いたデポまであと20kmのところで猛吹雪に見舞われ、テントでの一時待機を余儀なくされる。 |
| 吹雪は10日間も吹き荒れテントに閉じ込められたが、スコット隊の持っていた食料はたったの2日分だけだった。 |
| スコットは日記に1912年3月29日付で「もはや力尽きてしまった」と書き残し、寝袋に入ったまま3人ともテント内で息を引き取った。 |
| 救難隊により3人が発見されたのは、次の夏を迎えた6ヵ月後のことだった。 |
| スコットは親友でもあったウィルソンの胸に手をかけ、もう一方の手にはブラウニングの詩集が握られていた。 |
| テント内では、遺品の他、死の直前まで書かれた日記・地質標本等も遺されていた。 |
| 特筆すべきは、南極点でアムンセン隊から委託されていた南極点に設営されたテント内に、スコット隊への手紙・食料が置かれていた手紙である。 |
| スコット隊が持ち帰った事によりアムンセン隊の南極点先達は証明され、またスコット隊の名声を高めた。 |
| スコット本人の遺書(スコットの遺族・隊員の遺族らに計12通)はイギリスの名誉に対する隊員の働きを称え、遺族への保護を訴え、キャサリン夫人に対しては、相応しい男性と出会えば再婚を勧めるという内容のものであった。 |
| 探検隊は翌1913年1月22日に南極を離れ、帰国の途についた。 |
南極到達レースの敗因・遭難の原因の分析
| スコット隊がロアール・アムンセン隊に敗れ、遭難死した理由については、その当時から数多くの者が分析を行っている。 |
| 中でも、スコット率いる南極探検隊に参加し、スコット達の捜索隊にも参加した、アスプレイ・チェリー=ガラードらは、スコットがアムンセンに遅れをとった事や遭難死に至ったその敗因について、以下の様な分析を残している。 |
| アムンセン隊は犬ゾリとスキーによる移動で極点に到達したが、スコット隊は当初使用した雪上車、主力とした馬による曳行が悉く失敗し、人力でソリを引かざるを得ず、いたずらに体力の消耗を招いた。 |
| 寒冷な気候に強いとされる品種の馬を用意していたものの、馬そのものの体重が重いため雪に足をとられたり、クレバスに転落した事などに加え、馬が生存できる耐寒温度を遥かに下回っており、馬は体力の低下とともに次々に死んでいった。 |
| アムンセン隊が南極点到達を最優先していたのに対し、スコットは地質調査等の学術調査も重視しており、精力を分散させる結果となった。 |
| アムンセン隊は南極点への最短距離にあたるクジラ湾より出発したが、スコット隊は学術的調査の継続のため、より遠いマクマード湾より出発せざるを得なかった。 |
| また隊員はクロスカントリースキーが盛んなノルウェー出身だったため、スキーによる長時間の滑走にも慣れていたが、スコット隊はそのような技術や知識を持つ人間がいなかったことも要因とされる。 |
防寒服
| アムンセン隊はアザラシの毛皮などで作られた伝統的な防寒服を用いたが、スコット隊の服は牛革を重ねた形状の防寒服であり、汗などの体から出る水蒸気を吸い込みそれが次第に逆に体温を奪う結果となり、最後は保温の役目を殆ど果たしていなかったとも考えられている。 |
輸送手段
| 南極の最深部の気候はスコットの想定を遥かに超えており、1トンの荷物を曳ける大型馬に至ってはデポ(前進基地)を設置する為の往路の段階で次々に喪失しているなど、彼の用意した装備は南極の気候に耐えられるものではなかった。 |
| 前回1901年の南極探検の折、スコットは訓練不足の犬が使い物にならなかった実際には、イギリスから南極までの航海途上、熱帯を通過したときに、犬の餌となる干し魚が変質するか腐ったことが原因と考えられているが、スコットにはそれがわからず、西堀栄三郎はこれを「あわて者の過誤」と指摘している。 |
| 反省として、荷物の移動手段を馬と機械に頼ったのが仇となり、両方とも途中で使い物にならなくなってしまい、最終的に人力が主体となってしまった。 |
| ただし、人力を主体とすることが必ず失敗につながるわけではなく、事例としてノルウェーのナンセンは、グリーンランド横断の時、二ヶ月間人力で橇を引き、5人の隊員を一人として欠くことなく探検を成功させている。 |
| 当初、南極点到達隊は4人の予定で資材・食料などを計画していたが、スコット自身の判断で土壇場で5人にした事が影響を与えたのは否めない。 |
| 一人の増加とはいえ、4人用テントでの十分な休息は困難となり、荷物の増加に伴い移動時間も増大する等、探検の末期にはその悪影響は甚大なものとなっていた。 |
移動コース
| スコット隊のルートは約1,500kmと若干長距離であるものの、大部分がシャクルトンなどこれまで数次のイギリス探検隊により踏破済みのルートで、地形やコースコンディションなどはほぼ把握されており、未知の部分は全体の約1割の155kmに過ぎず、リスクは比較的低いと見られていた。 |
| 結果としてアムンセン隊のコースは比較的平坦なコースとなったが、スタート時点ではその事実は判明しておらず、コースの状況如何によっては大回りもしくは探検中止を余儀なくされていた、あるいはスコット隊と同じく何らかのアクシデントにより遭難していた可能性すらあった。 |
学術調査
| スコット隊は、学術的に大きな価値を持つもの(南極がかつてゴンドワナ大陸の一部だったことの証拠であるグロッソプテリスの化石など)が含まれていたとはいえ、35ポンド(約16kg)におよぶ標本を最期まで手放さずに持ち帰ろうとしていた。 |
リーダーシップ
| まず、アムンセンが少年の頃から極地探検家(当初は北極だった)になることを夢見て必要となる準備を進めてきたことに対し、スコットは、南極探検を計画し隊長となる人物を探していた王立地理学協会のクレメンツ=マーカム卿の従兄弟が隊長をしていた海軍部隊にいたために目にとまって抜擢されたという経緯もあり、いうなれば極地探検はマーカム卿によりお膳立てされていたものであった。 |
南極のスコット
- 「近代デジタルライブラリー」より。中野好夫著『南極のスコット』(小山書店、1949年)全文のデジタル画像を閲覧できる。
|
1868年
|
醸造業を営むジョン・エドワード・スコットの... |
|
1899年
|
少佐だったスコットは、王立地理学協会による... |
|
投票数
0
| ふりがな |
|
| 性別 |
|
| 出身地 |
|
| 生年月日 |
|
| 血液型 |
|
| 職業 |
|
| 所属 |
|
| Twitter |
|
|
|
|
|
|
|
|
つながりの強いひと
|
|
アーネスト・シャクルトン
アーネスト・シャクルトン(SirErnestHenryShackleton,1874年2月15日-1922年1月5日)はアイルランド生まれの探検家である。1914年、南極を目指す航海の途上で... |
|
|
ロアール・アムンセン
ノルウェーの探検家。日本では「ロアルト・アムンセン」、または英語での発音による「ロアルド・アムンゼン」とも表記される。主に極地に挑んだ探検家として... |
|
|
新田次郎
日本の小説家、気象学者。妻は作家の藤原てい。数学者でエッセイストの藤原正彦は次男。 |
|
|
トーマス・マン
パウル・トーマス・マン(PaulThomasMann、1875年6月6日-1955年8月12日)はドイツの小説家。リューベックの富裕な商家に生まれる。当初は実科を学んだが処女... |
|
|
大滝秀治
東京都出身の日本の俳優。劇団民藝所属、奈良岡朋子と共に劇団代表。本名は同じだが、姓の漢字表記は「大瀧」とする場合が多い。個性派俳優として評価が高い... |
|
|
ロバート・ピアリー
アメリカの探検家。ペンシルベニア州クレソン出身。西洋人として最初に北極点に到達したとされているが、探検の後援者には当時のナショナルジオグラフィック... |
|
|
根本要
埼玉県行田市出身の日本のシンガーソングライター、スターダストレビューのボーカル・ギター。埼玉県立不動岡高等学校卒。日本大学芸術学部放送学科中退。血... |
|
|
スカイマックス
購入用IDの取得(無料)が必要となります。 詳しく見る ページ上部へ戻る HOME 馬情報 レース 生産牧場 市場取引 ランキング お楽しみ |
|
|
テラ・ノバ
南極第2基地、テラ・ノバ・ベイに建設確定(聯合ニュース)よりH22.03.18紹介 そうなんだ@為五郎
【ソウル17日聯合ニュース】南極の東南端に位置するテラ・ノ... |
|
|
巌谷小波
明治、大正期の作家、児童文学者。本名は季雄(すえお)。別号に漣山人(さざなみさんじん)。東京麹町生まれ。 |
|
|
フェルディナント・ブラウン
ドイツの物理学者、発明家。電位計やオシログラフ、そしてブラウン管の発明など電磁気学および無線通信の分野に業績を残した。1909年には、ノーベル物理学賞... |
|
|
杉山隆一
日本の元サッカー選手、サッカー指導者。静岡県清水市(現・静岡市)出身。現役時代は強烈な左足のシュート、クロスを武器とする俊足の左ウイングとして活躍... |
|
|
釜本邦茂
日本の元サッカー選手、元サッカー指導者、元参議院議員、実業家。現日本サッカー協会顧問。京都府京都市右京区出身。現役時代のポジションはFW。 |
|
|
本因坊秀策
本因坊秀策(ほんいんぼうしゅうさく、文政12年5月5日(1829年6月6日)-文久2年8月10日(1862年9月3日))は江戸時代の囲碁棋士である。備後国因島(現・広島... |
|
|
山田太一
その発言に深い説得力を持つ。 それでいて軽快なマシンガントーク、瞬時に空気を読む洞察力。 スポーツの話題から政治の話題まで、何でもこなす器用なトーク... |
|
|
宮尾すすむ
日本のタレント。本名は山口進(やまぐちすすむ)。 |
|
|
高杉晋作
日本の武士(長州藩藩士)。幕末に長州藩の尊王攘夷の志士として活躍した。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた。諱は春風。通称は晋作、東一... |
|
|
板垣退助
日本の武士(土佐藩士)、政治家。幼名は猪之助。退助は元は通称。諱は初め正躬(まさみ)、のち正形(まさかた)。号は無形(むけい)。位階勲等爵位は従一... |
|
|
ロバート・スコットさんについてのひとこと紹介
|
|
|
|