| 1857年2月22日イギリス・ロンドン市内パディントンで生まれる。 |
| 1860年父が死亡。 |
| 父を称えて家族は姓をパウエルからベーデン=パウエルに改めた。 |
| B-Pの母は35歳にして6男(ワリントン、ジョージ、アウグスタス、フランシス、彼、ベーデン)1女(アグネス)の7人の子供達を養うことになる。。 |
| 1868年ローズ・ヒルスクールへ入学。 |
| 1870年サリー州ゴダルミングのチャーターハウス・スクールへ入学。 |
| 1876年俳優になりたいという夢を母親に反対されて受験したオックスフォード大学ベリオール・カレッジとクライストチャーチ・カレッジへの入学に失敗この時の数学の試験官はルイス・キャロルで、B-Pのテストの出来について酷評した記録が残っている。 |
| ウィリアム・ヒルコート著根岸眞太郎監修安齋忠恭監訳『ベーデン・パウエル英雄の2つの生涯』産調出版。 |
| 第13軽騎兵連隊と共にインド・ラクナウに駐在。 |
| 1877年中尉に昇進。 |
| 1878年健康状態の悪化のため帰国。 |
| 1880年第13軽騎兵連隊へ再任し、アフガニスタン・カンダハールへ移駐。 |
| 1881年連隊がムトラへ移動。 |
| 1884年最初の著書「偵察と斥候術」が出版される。 |
| 連隊は南アフリカ・ダーバンへ。 |
| 1885年ドラケンスバーグ山脈への独行偵察(3週間、600マイル)に成功。 |
| 連隊はイギリス・ノリッチへ帰還。 |
| 1886年ロシア陸軍・ドイツ陸軍の演習を個人的にスパイし、新型の機関銃やサーチライト、飛行船の情報を収集して持ち帰る。 |
| 1887年1月、ドイツ陸軍・フランス陸軍の演習をスパイ。 |
| 蝶の収集家に変装して偵察旅行を行い、蝶の羽根のスケッチに偽装して敵の軍事施設の見取り図を描いたエピソードは有名。 |
| 12月、ヘンリー・スミス将軍の副官として再びアフリカへ。 |
| 1888年ナタールにおけるズールー族との戦いで、ズールーの族長ディズニル(ディニズールー)が放棄した集落から戦利品として、木製(アカシア・イエロー製)のビーズ数千個に紐を通した3mを超える長さの首飾りを手に入れる(このビーズが後のウッドバッジトレーニング(ボーイスカウトのリーダー研修)の修了した証である「ウッドバッジ」となった)。 |
| 2008年現在では、当時のオリジナルビーズは、数か国でナショナルデレクターの証として使われており、英国連盟では6ビーズが制定されている。 |
| 1895年フランシス・スコット卿の副官としてナタール州に移駐。 |
| マタベルの反乱においてズールー族、アシャンティの諸部族との戦いに参加。 |
| 部族民たちは、B-Pの勇気、斥候技術、驚くべき追跡能力を見て、敵である彼を尊敬し、眠らないオオカミを意味する「インペーサ」の名を与えた。 |
| 彼は第5竜騎兵部隊を指揮するためインドに戻った。 |
| 彼がここで発揮した斥候技術と教育システムは上層部に強い感銘を与えた。 |
| 1899年ボーア戦争におけるマフェキングの包囲戦。 |
| 南アフリカ・マフェキングで8000人以上の敵軍に217日間(1899年10月13日-1900年5月17日)包囲され、これに対して極少ない手勢(2個大隊及びマフェキングの一般市民)で勇戦。 |
| この時、9歳以上の少年達をサー・エドワード・セシル少佐を司令官とした「マフェキング見習兵団」として組織。 |
| 軍事情報の伝達、普通郵便の配達などの伝令業務と、当番兵、見張り役などとして重用した。 |
| 少年達は徒歩、あるいは自転車を用いて任務を果たし、B-Pはその勇気と機知に感銘を受ける。 |
| 1900年5月16日深夜から17日早朝にかけて、救援部隊がボーア軍の包囲を突破し、マフェキングが解放される(この救援部隊にはB-Pの弟、ベーデン・ベーデン=パウエルも配属されていた)。 |
| この軍功により史上最年少の陸軍少将に昇任。 |
| 南アフリカ警察隊の創立に着手。 |
| 帰国後、“マフェキングの英雄”と呼ばれ、国中から賞賛される。 |
| その後、英国は同戦争で勝利する。 |
| 1903年陸軍監察長官に就任(1907年まで在職)。 |
| 1904年11月イートン校での講演で、ドイツの脅威と祖国防衛の必要性を訴え、日本の武士道への賞賛、中世騎士道の復活を提唱した。 |
| 1906年6月雑誌「ボーイズ・ブリゲード・ガゼット」に「スカウティング・フォア・ボーイズ」の第一回が掲載される。 |
| これは編集者による大幅なカットがされたダイジェスト版であったが、それでも少年達に大好評を博し、これに影響された彼らは自主的に班を作り、“パトロール”活動を始める。 |
| これがボーイスカウトの基礎となった。 |
| 7月、「シートン動物記」の作者アーネスト・トンプソン・シートンと知遇を得、互いの著書についての意見交換を行った(後にシートンは米国ボーイスカウト連盟の総長となる)。 |
| B-Pは、技能賞のバッジシステム、班名に動物の名前をつかうこと、各種のゲームなどについてをシートンの著作から採用している。 |
| 1907年6月新聞・雑誌界の大立者アーサー・ピアスンから資金的な協力を取り付ける。 |
| 8月1日ブラウンシー島にて様々な地域や階層出身の21名の少年と共にブラウンシー島でキャンプを行い、ボーイスカウトの実験を行う(スカウトの最初のキャンプ)。 |
| 1908年1月28日ロンドンに事務所を開設し、ボーイスカウト英国本部を設置。 |
| 隔週発行で1冊4ペンスの「スカウティング・フォア・ボーイズ」を六分冊として発刊。 |
| 1909年いわゆる「無名スカウトの善行」によりスカウト運動がアメリカ合衆国へ伝わる(但し、既に米国でもスカウティングそのものは行なわれていた)。 |
| 1910年5月7日陸軍を退役。 |
| その後、ボーイスカウト運動に専念する。 |
| 妹のアグネス・ベーデン=パウエルがガールガイド(ガールスカウト)を創設する。 |
| 1911年ジュリエット・ローと知り合う。 |
| 乃木希典大将と会見。 |
| 1912年1月国王ジョージ5世が法人設立国王勅許状に署名し、英国ボーイスカウト連盟が公認される。 |
| B-P、世界一周旅行に出発。 |
| アメリカ、パナマを経て日本を訪問する。 |
| ジュリエット・ローとの婚約を破棄、10月30日に当時23歳だったオレブ・セントクレア・ソームズと結婚(この時B-Pは55歳)。 |
| 結婚式は、お祭り騒ぎになるのを嫌った二人の意向により、ドーセット州パークストーンのセント・ピータース教会で、ごく親しい友人のみで執り行われた。 |
| 1919年自らの地所ギルウェル・パークに隊長訓練所を開設。 |
| これは後にギルウェルコース、現在のウッドバッジコースに発展する(諸外国におけるウッドバッジコースとは日本における実修所に相当する)。 |
| 1920年第1回世界ジャンボリーにおいて、参加しているスカウトから「世界の総長(チーフ・スカウト・オブ・ザ・ワールド)」に推挙される。 |
| 1921年5月17日ロンドンにおいて、イギリス訪問中の昭和天皇(当時は皇太子)に謁見し、英国ボーイスカウト連盟の最高功労章であるシルバー・ウルフ章を贈呈する。 |
| 1922年準男爵に叙任される。 |
| 1923年ビクトリア十字勲章を授与される。 |
| 1927年ノーベル平和賞の最終候補まで残るが、受賞を逃す。。 |
| 1929年イギリス国王ジョージ5世から男爵の位を与えられ、ロード・ベーデン=パウエル・オブ・ギルウェル(LordBaden-PowellofGilwell)となる。 |
| 1934年前立腺摘出の手術をうけ、一時危篤状態となる。 |
| 1935年国際委員会(当時、現在の世界スカウト委員会)によりブロンズ・ウルフ章が贈られる。 |
| 1937年8月9日、第5回世界ジャンボリー(オランダ・ハーグ)において、参加した2万7000人のスカウトに別れのスピーチを行う。 |
| 1938年ケニアのニエリにコテージを購入。 |
| 1939年ノーベル平和賞の受賞が決定されたが、第二次世界大戦のためノーベル平和賞自体が取り消される。。 |
| 1941年1月8日午前5時45分、激務で弱った心臓が鼓動を止めた。 |
| 遺体はケニア山の麓ニエリに葬られたが、墓碑はロンドンのウェストミンスター寺院にあり、現在もボーイスカウトとガールスカウトの旗で飾られている。 |