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プロフィール
- ヴィルヘルム・カイテルとは
- 生い立ち
- ドイツ帝国軍時代
- ヴァイマル共和国軍時代
- ナチス・ドイツ軍時代
- 第二次世界大戦
- ニュルンベルク裁判
- 処刑
- 人物
- 関連サイト
ヴィルヘルム・ボーデヴィン・ヨハン・グスタフ・カイテル(WilhelmBodewinJohannGustavKeitel,1882年9月22日-1946年10月16日)は、ドイツの軍人。第二次世界大戦中に国防軍最高司令部(OKW)総長を務めた。軍における最終階級は元帥。
生い立ち
| 1882年、ブラウンシュヴァイク公国ハルツ山地ヘルムシェローデ(:de:Helmscherode、現在はバート・ガンダースハイムに併合されている)に生まれる |
| 父は小規模な農場を所持していた地主カール・カイテル(CarlKeitel)。 |
| 母はその妻アポロニア(Apollonia)(旧姓ヴィゼーリンク(Vissering))。 |
| 弟にボーデヴィン・カイテル(:de:BodewinKeitel)がいる。 |
| 弟ものちに軍人となり、カイテルの引き立てで1938年から1942年までドイツ陸軍人事部長を務めることになる。 |
| 少年時代のカイテルは家族から離れてゲッティンゲンのギムナジウムに学んだ。 |
ドイツ帝国軍時代
| 同校を卒業後、父親の命令で軍人の道を進むこととなったクノップ、p.109。 |
| 士官学校を経ずしてクノップ、109頁ゴールデンソーン、p.53、1901年3月にヴォルフェンビュッテル(:de:Wolfenbüttel)の第46野戦砲兵隊に士官候補生(Fahnenjunker)として入隊した |
| 1902年8月に少尉(Leutnant)に昇進するとともに、公国の首都ブラウンシュヴァイクの勤務となる。 |
| 同地で摂政の宮廷舞踏会などに招かれるようになり、将来を約束された軍人となっていく。 |
| 非常にまじめで「ギャンブルもせず、浮いた噂の一つもない」と言われていた。 |
| 野戦砲兵学校や軍事乗馬学校を出た後、1908年には所属する第46野戦砲兵連隊の連隊長副官となった。 |
| 1909年にハノーファーの資産家の地主の娘リーザ・フォンテーン(LisaFontaine)と結婚クノップ、p.110。 |
| カイテル夫妻は6児をもうけた。 |
| 第一次世界大戦が開戦した際には第46砲兵連隊長副官の中尉だった。 |
| カイテルの連隊は西部戦線に動員された。 |
| カイテルは榴弾の破片で戦傷を負い、二級鉄十字章と一級鉄十字章、そして戦傷章黒章を受章した。 |
| この第一次世界大戦初期の戦闘の参加はカイテルの生涯で唯一の実戦経験である。 |
| 病院を退院した後、1915年3月から参謀本部に配属となる。 |
| 本部内では事務能力を高く認められて、1917年にはドイツ陸軍の歴史の中で最年少の参謀本部首席将校となったクノップ、p.112。 |
| またこの参謀本務勤務時代に四歳年長のヴェルナー・フォン・ブロンベルク少佐(当時)と親しくなった。 |
ヴァイマル共和国軍時代
| 第一次世界大戦の敗戦後、義勇軍(フライコール)の活動に参加ヴィストリヒ、p.36。 |
| またヴェルサイユ条約によって総人員10万人、将校は4000人にまで制限されたヴァイマル共和国軍(Reichswehr)の将校に選び残された。 |
| 彼の事務能力の高さがうかがわれるクノップ、p.114-116。 |
| ヴァイマル共和国軍ではまず第10旅団参謀、ついで1920年から1922年までハノーファーの騎兵学校の戦術教官となる。 |
| さらに1922年から1925年にかけてヴォルフェンビュッテルで第6砲兵連隊隷下の第7中隊長を務めた。 |
| ヴァイマル共和国軍はヴェルサイユ条約で参謀本部を置く事を禁止されていたが、「兵務局(Truppenamt)」と名前を偽装して事実上参謀本部を復活させた。 |
| カイテルもこの兵務局に配属となり、1925年から1927年には兵務局の部署のひとつ教育部(T4部)に配属され、「東部国境守備隊」の教育と軍備を担当したクノップ、p.116。 |
| ついで1927年から1929年にかけてミンデンで第6砲兵連隊隷下の第2大隊長を務めた。 |
| 1929年10月には兵務局に戻り、陸軍編成部長に就任したクノップ、p.117。 |
| カイテルはヴェルサイユ条約により様々な制限が課せられていたドイツ軍の軍拡の逃げ道を模索した。 |
| 武装民兵集団の「国境警備隊」に大量の武器を提供して名目上軍の武器にならぬようにしたり、スペイン・オランダ・スウェーデン・日本など比較的中立的かつ生産設備が整った外国で航空機や戦車やUボートの建造を行った。 |
| ソ連とも関係を深めようとした。 |
| ソ連で軍事演習を行わせ、また1931年にはカイテル自身がソ連を訪問している。 |
| 「共産主義の偉大さ」を見せつけるためにソ連側が一方的に設定したコルホーズなどのツアーコースを回されるだけであったが、カイテルは共産主義に感化されたところがかなりあったらしく、後に「もう少しでボルシェヴィキになって帰ってくるところだった」などと語っているクノップ、p.117-118。 |
ナチス・ドイツ軍時代
| カイテルは国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が1933年に政権を獲得するまではそれに一切関わっていない。 |
| むしろ増長著しいナチスの突撃隊(SA)をいまいましくさえ思い、アドルフ・ヒトラーを「大ぼら吹き野郎」と呼んで馬鹿にしていたクノップ、p.118-119。 |
| しかし1933年1月30日にヒトラー内閣が成立し、カイテルの親友ブロンベルクがヒトラー内閣の国防相に任命され、さらに1933年7月にはバート・ライヘンヒルで開かれた「突撃隊指導者大会」でカイテル自身がヒトラーと会見をもつ機会があり、徐々にヒトラーに心酔するようになったクノップ、p.119。 |
| ただしナチ党には最後まで入党していない。 |
| 1933年10月に編成部長の職を離職し、1934年4月に少将に昇進するとともにポツダムの師団の師団長代理となったクノップ、p.120。 |
| 1934年10月にはブレーメンに派遣され第22師団の編成にあたった。 |
| ドイツがヴェルサイユ条約を一方的に破棄して再軍備を始めた年である1935年10月1日には国防軍部(Wehrmachtamt)の部長に就任した。 |
| 国防軍部は国土防衛・対外防諜・軍需経済の各課を保有する国防省の最重要部署であった。 |
| カイテルのメモによるとこの人事は陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュのブロンベルクへの推挙によるというゲルリッツ(文庫版)、下巻p.132。 |
| 以降ヒトラーとブロンベルクの下で急速に昇進する。 |
| 1936年1月には中将に昇進し、1937年には砲兵大将となった。 |
| ブロンベルクとカイテルはゲシュタポとも連携して「政治的に信用できない者」を国防軍から次々と追放していき、軍のナチ化をすすめたクノップ、p.125。 |
| テーブル奥右からカイテル大将、ズデーテン・ドイツ人党党首コンラート・ヘンライン、総統アドルフ・ヒトラー、第10軍司令官ヴァルター・フォン・ライヒェナウ大将、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラー、第16装甲軍団長ハインツ・グデーリアン中将。 |
| 1938年1月、カイテルの息子カール・ハインツ・カイテルとブロンベルクの娘ドロテー・フォン・ブロンベルクが結婚することとなったが、2月にはヒトラーはスキャンダルを利用してブロンベルク国防相と陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュを解任した(ブロンベルク罷免事件)。 |
| さらに後継の国防大臣を任命せず、直接国防三軍を指揮すると宣言した。 |
| このために国防軍最高司令部(OKW)を設けられ、国防軍最高司令部総長にカイテルを任じた。 |
| 国防軍最高司令部は旧国防省の任務をほぼ受け継いでおり、カイテルの職位は国務大臣に同位ではあるが、軍指揮権は持たない事務職であったゲルリッツ(文庫版)、下巻p.169クノップ、p.133。 |
| また併せて国防軍最高司令部の陸軍への支配力を高める意味からカイテルの弟であるボーデウィン・カイテル少将が陸軍人事部長に任命されているゲルリッツ(文庫版)、下巻p.168。 |
| 1938年11月には上級大将に昇進している。 |
| ドイツ国防軍に国家社会主義思想を徹底させる事に励むカイテルは、かつて皇帝の軍隊の参謀本部将校だったにもかかわらず、皇帝への忠誠心をあっさり放り捨て、1939年1月27日の旧ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の誕生日記念式典にも軍部は一切参加してはならないと厳命したクノップ、p.138。 |
| 1939年4月にはナチ党員でないにもかかわらず、チェコスロバキア併合の際の進軍の褒賞として黄金ナチ党員バッジを授与されたパーシコ、上巻p.42。 |
| カイテルは、同僚からドイツ語のおべっか使い(Lakai)をもじった「ラカイテル」と呼ばれたりクノップ、p.137パーシコ、上巻p.126フランス語で下僕を意味するlaquaisを変じ、laquai-tel即ち、ラ・カイ・テル(La-Kei-tel)と揶揄されたとする説もある(ジャック・ドラリュ『ゲシュタポ・狂気の歴史』片岡啓治訳、講談社、2000年、ISBN4-06-159433-8、p.249)。 |
| ヒトラーは後年カイテルについて「映画館の案内係程度の頭の持ち主」と評し、これを聞いたある将校が「ではなぜそのような人物をドイツ国防軍の最高位に任じたのですか」と聞くと、ヒトラーは「それはあの男が犬のように忠実だからだ」と答えたというパーシコ、下巻p.9。 |
| 当時カイテルの副官だった将校の証言によると、ヒトラーを交えた作戦会議では、常に「総統閣下の仰る通り」「総統閣下、あなたは史上最高の軍事指導者です」「総統が過ちを犯されるはずはない」などと、口癖のように話していたという。 |
| ちなみに、国防軍最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードル上級大将は、カイテルの軍事センスの無さを見抜き、作戦上の詳細は一切伝えず、大枠のみ伝えていたという。 |
第二次世界大戦
| right|thumb|250px|1939年9月、占領したポーランド・ウッチを走るカイテル上級大将の自動車。 |
| 1939年9月1日にドイツ国防軍によるポーランド侵攻が開始され、イギリスとフランスがドイツに宣戦を布告し、第二次世界大戦が勃発した。 |
| ポーランド侵攻は主に陸軍総司令官ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュの陸軍総司令部が中心となって作戦指導しており、カイテルの国防軍最高司令部の役割は二次的な物だった。 |
| しかしポーランド侵攻後、カイテルのもとには親衛隊(SS)のアインザッツグルッペンの虐殺に関する報告書が積み上がった。 |
| 国防軍情報部(アプヴェーア)部長ヴィルヘルム・カナリス提督もカイテルにアインザッツグルッペンに関する苦情を申し立てたが、カイテルは「国防軍がこうした虐殺に関与しなくていいようにするためには親衛隊とゲシュタポが隣にいる事を許可するしかない」と回答したというクノップ、p.138-139。 |
| ヒトラーは1939年冬のうちにも対フランス戦を開始するつもりだったが、カイテルは陸軍総司令官ブラウヒッチュの兵に休息を取らせる必要があるという意見を容れて、1939年冬の軍事行動に反対し、ヒトラーと激しい口論をした。 |
| 結局後になってヒトラーは1939年冬のフランス攻撃を諦めたクノップ、p.141。 |
| 1940年春の北欧侵攻では陸軍・海軍・空軍の共同作戦が重要とされてカイテルの国防軍最高司令部が主導することとなった。 |
| 以降ヨードルはヒトラーの戦略アドバイザーとしての役割を敗戦まで担い続けたクノップ、p.141-142。 |
| 1940年5月からの対フランス戦ではドイツ軍が連戦連勝を重ね、大国フランスをわずか6週間で下したクノップ、p.142-143。 |
| 1940年6月21日から6月22日にかけてパリ郊外のコンピエーニュにおいて列車内(一次大戦のときにドイツが屈辱的な休戦協定を結ばされた時と同じ列車)でドイツとフランスの休戦協定の交渉が行われた阿部、p.464。 |
| カイテルはこの調印式にドイツ軍代表として出席し、フランス軍代表シャルル・オンツィジェール将軍(fr)に対して「この車両においてドイツ民族受難の時が始まった。 |
| 戦場で指揮を執ったわけでもないカイテルが元帥に叙されたことに一部で反対の声も上がったが、大きな戦勝の中で元帥号の連発されるのも許されるムードだったクノップ、p.145-146。 |
| それにもかかわらず1941年末にモスクワ攻略が失敗した際にはカイテルがヒトラーからすさまじい叱責を受け、カイテルが自殺しそうになったとアルフレート・ヨードルは後に証言しているクノップ、p.151。 |
| また1941年10月にはゲリラに対処するための「報復に関する命令」、ソ連の政治将校に対処するための「政治委員に関する命令」(en)に署名し、1942年10月18日には破壊工作員などに対処するための「コマンドに関する指令」(en)に署名したパーシコ、上巻p.126。 |
| ヒトラー総統(中央)、カイテル元帥(ヒトラーの左後方)、空軍総司令官ゲーリング国家元帥(右端)、空軍エースパイロットメルダース大佐(左端)。 |
| 撤退許可を求める者に対してはヒトラーが政治的な理由で却下し、その後ヒトラーは国防軍最高司令部総長カイテル元帥に話を振り、カイテルも「自分の意見を持たない無駄なおしゃべり」(フランツ・ハルダー)をして結局総統と同じ結論を出すのがドイツの作戦本部の日常の姿となっていった。 |
| その後、陰謀に関与した軍人は軍法会議ではなく、反逆罪を裁くローラント・フライスラーの人民法廷にかけるために、先ず、国防軍の名誉法廷(Ehrenhof)にかけられることとなった。 |
| right|thumb|250px|ソ連軍に対する降伏文書に署名するカイテル。 |
| ヒトラーの自殺を知ると、ヒトラーの遺言により大統領兼国防軍総司令官となったカール・デーニッツのフレンスブルク政府の下に参じた。 |
| アイゼンハワー司令部、モントゴメリー元帥の司令部における降伏式に続いて、1945年5月8日、ベルリン市内のカールスホルスト(Karlshorst)の工兵学校においてソ連軍に対する降伏式が行われた。 |
| カイテル元帥は陸軍を代表してソ連との降伏文書の署名を行った(海軍はハンス=ゲオルク・フォン・フリーデブルク提督、空軍はハンス=ユルゲン・シュトゥムプフ上級大将であった)。 |
| 現在、カイテルが降伏文書の署名を行った建物はドイツ・ロシア友好博物館(Deutsch-RussischesMuseumBerlin-Karlshorst)になり、ベルリン攻防戦や降伏式の資料が展示されている。 |
| 同じくここに収容されたヘルマン・ゲーリングやカール・デーニッツ、アルフレート・ヨードルらとともにニュルンベルクに移送された。 |
| この移送の際にバート・モンドルフ、ついでニュルンベルクでも刑務所長を務めるアメリカ軍大佐バートン・アンドラス(:en:BurtonC.Andrus)によって起立させられ、さらに「お前たちはもはや軍人ではない。 |
ニュルンベルク裁判
| カイテルは第1起訴事項「侵略戦争の共同謀議」、第2起訴事項「平和に対する罪」、第3起訴事項「戦争犯罪」、第4起訴事項「人道に対する罪」と全ての訴因において起訴された『ニュルンベルク裁判記録』、p.302。 |
| 被告人達の心理分析官グスタフ・ギルバート大尉が開廷前に被告人全員に対して行ったウェクスラー・ベルビュー成人知能検査によると彼の知能指数は129だったレナード・モズレー著、伊藤哲訳、『第三帝国の演出者ヘルマン・ゲーリング伝下』、1977年、早川書房166頁。 |
処刑
| right|thumb|left|250px|絞首刑執行後のカイテルの遺体。 |
人物
| カイテル自身もこれをコンプレックスに感じるところがあったらしく、ニュルンベルク裁判の弁護士オットー・ネルテに話したところによると、一個師団でもいいから前線で指揮をとらせてほしいとヘルマン・ゲーリングに仲介してもらってヒトラーに嘆願したことがあるというパーシコ、下巻p.8。 |
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1882年
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ブラウンシュヴァイク公国ハルツ山地ヘルムシ... |
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1901年
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ヴォルフェンビュッテル()の第46野戦砲兵隊に... |
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