| 世に之を知る人無し」とあるが、大徳寺真珠庵に残る一休の真筆「天の沢東の海を渡り来て後の小松の梢とぞなる」の歌や、『狂雲集』の「憶昔薪園居住時王孫美誉聴相思(憶ふ昔薪園居住の時王孫の美誉聴いて相思ふ)」という句などから、後小松天皇の落胤であることが公認であったことが伺われる。 |
| 『一休和尚行実』『東海一休和尚年譜』などの一休伝記類においても出自を後小松庶子とする。 |
| 『読史余論』が引用する『南朝記』には、称光天皇の後の皇位継承者として一休を還俗させようとした後小松上皇の院宣に対して「常磐木や木寺の梢つみ捨てよよをつぐ竹の園はふしみに」「竹の園」は梁の孝王「修竹園」の故事から皇族のこと。 |
| 「ふしみ」は伏見宮を指すと詠んで持明院統正嫡の伏見宮彦仁親王を推し、皇位を辞退したと伝わる。 |
| 『一休和尚年譜』によると母は藤原氏、南朝の高官の血筋であり、後小松天皇の寵愛を受けていたが、帝の命を狙っていると讒言されて宮中を追われ、民間に入って一休を生んだという。 |
| 母については、日野中納言の娘・照子姫(後に伊予局と称される)とも、藤原顕純の娘・藤侍従とも伝わるが確証はない。 |
| 昭和36年に公開された『橘姓楠家倉氏系図』には、楠木正儀の三女が後小松天皇の官女となったが「仔細アリテ」退官し一休を生み、早世したと記されている。 |
| また、門真市三ツ島には一休の生母のものと伝わる墓があり、一休の母は楠木正儀の子・楠木三郎正澄の三女と説明されている。 |
| これらを考え合わせると、当時無位無冠だった楠木氏の女を後宮に入れるために藤原氏の養女としたという可能性もある。 |
| 南北朝合一後のこととはいえ、まだまだ不穏な動きを見せていた南朝方の女が北朝の後宮で皇子を生むことは難しかったものと考えられる。 |
| 幼名は、後世史料によると千菊丸。 |
| 長じて周建の名で呼ばれ狂雲子、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)などと号した。 |
| 戒名は宗純で、宗順とも書く。 |
| 一休は道号である(戒名と道号については「戒名」の項目を参照のこと)。 |
| 6歳で京都の安国寺かつて京都四条街大宮西に位置した禅寺で、現在は廃寺。 |
| 足利直義によって後醍醐天皇以下、楠木、新田一族ら戦没者の霊を弔うために建てられた。 |
| 京都十刹の一つ。 |
| の像外集鑑(ぞうがいしゅうかん)に入門・受戒し、周建と名付けられる。 |
| 早くから詩才に優れ13歳の時に作った漢詩『長門春草』、15歳の時に作った漢詩『春衣宿花』は洛中の評判となり賞賛された。 |
| 応永17年(1410年)、17歳で謙翁宗為(けんおうそうい)の弟子となり戒名を宗純と改める。 |
| 謙翁は応永21年(1414年)に没した。 |
| この時、一休は師の遷化によるものかは断定できないが、自殺未遂を起こしている。 |
| 応永22年(1415年)に京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子となる。 |
| 「洞山三頓の棒」という公案に対し、「有ろじより無ろじへ帰る一休み雨ふらば降れ風ふかば吹け」と答えたことから華叟より一休の道号を授かる。 |
| なお「有ろじ(有漏路)」とは迷い(煩悩)の世界、「無ろじ(無漏路)」とは悟り(仏)の世界を指す。 |
| 応永27年(1420年)のある夜、カラスの鳴き声を聞いて俄かに大悟する。 |
| 華叟は印可状を与えようとするが、一休は辞退した。 |
| 華叟はばか者と笑いながら送り出したという。 |
| 以後は詩、狂歌、書画と風狂の生活を送った。 |
| 正長元年(1428年)、称光天皇が男子を残さず崩御し伏見宮家より後花園天皇が迎えられて即位した。 |
| 後花園天皇の即位には一休の推挙があったという『東海一休和尚年譜』より。 |
| ただし、今泉淑夫は後花園天皇の即位は幕府の賛成によるもので一休の推挙は無関係だとしている。 |
| 応仁の乱後の文明6年(1474年)、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持(第47代)に任ぜられ、寺には住まなかったが再興に尽力した。 |
| 塔頭の真珠庵は一休を開祖として創建された。 |
| 天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われたという。 |
| 1481年、88歳で酬恩庵においてマラリアにより没した。 |
| 臨終に際し、「死にとうない」と述べたと伝わる。 |
| 酬恩庵は通称「一休寺」と言い、京都府京田辺市の薪地区にある。 |
| 康正2年(1456年)に荒廃していた妙勝寺を一休が再興したものである。 |
| 墓は酬恩庵にあり「慈揚塔」と呼ばれるが宮内庁が御廟所として管理している陵墓である宮内庁では落胤説にもとづいて「後小松天皇皇子宗純王墓」としている。 |
| ため、一般の立ち入りや参拝はできない。 |