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プロフィール
- 万暦帝とは
- 宰相張居正
- 堕落
- 評価
- 后妃
- 子
- 備考
万暦帝(ばんれきてい1563年-1620年在位1572年-1620年)は、明の第14代皇帝。姓は朱。諱は翊鈞(よくきん)。廟号は 神宗。日本では治世時の元号を取って 万暦帝と呼ぶことが一般的。諡は範天合道哲肅敦簡光文章武安仁止孝顕皇帝。
宰相張居正
| 隆慶帝の第3子として生まれ、10歳で即位する。 |
| 即位直後は宰相(主席大学士)張居正の手腕により、両税法にかわる一条鞭法の導入・無駄な官職の撤廃・全国的な検地・無用な公共事業の廃止などにより財政は好転し、マンチュリアの女真も李成梁により一時的に落ち着いた状態となり、内外政で大きな成果を上げた。 |
| また帝自身も幼少年期には聡明利発で、将来の大器と目されていた。 |
堕落
| しかし1582年に張居正が死に、親政を始めると一転して堕落し、寵姫鄭貴妃の偏愛による立太子問題(詳しくは泰昌帝の項を参照)が起きた。 |
| また豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)においては、宗主国として李氏朝鮮を援助し、それ以外にも寧夏のボハイの乱・播州の楊応龍の乱の鎮圧(朝鮮派兵を含めて万暦の三征と呼称)などによって、軍制の腐敗と相まって財政は悪化した。 |
| さらに朝廷の中では、顧憲成が復興した東林書院を中心とする東林派と、魏忠賢ら宦官勢力と結んだ非東林派の争い(党争)が激化して宦官が跋扈するようになり、また満州の女真もヌルハチの下で明の遠征軍を破るなど強大化して国事多難となった。 |
| しかし万暦帝は相変わらず政治に関心を持たず、国家財政を無視して個人の蓄財に走った。 |
| 官僚に欠員が出た場合でも給料を惜しんで、それを補充しないなどということを行い、このために一時期は閣僚が一人しかいない、あるいは地方長官が規定の半数しかいないなどという異常事態となった。 |
| さらに悪化した財政への対策として(あるいは自らの貯蓄を増やすために)、全国に税監と呼ばれる宦官の徴税官を派遣して厳しい搾取を行った。 |
| この搾取に反対する民衆により税監たちが度々殺される事件が起こったが、万暦帝は最後まで廃止しようとはしなかった。 |
| 国家にとって不可欠な出費を惜しむ一方で私的な事柄には凄まじい贅沢をした。 |
| 例えば鄭貴妃の子である福王朱常洵を溺愛し、その結婚式のために30万両という金額を使っている(張居正が政治を執っていた十数年に国庫に積み上げた金額が400万両である)。 |
| このことで民衆の恨みを買い、後に福王は李自成軍に捕らえられた時に残忍な殺され方をしている。 |
| 後半生では25年にわたって後宮にこもり、朝政の場に全く姿を現さなかったという。 |
評価
| 万暦帝の時代は明の退廃と爛熟の時期であった。 |
| この時期に外国産の銀が大量に流入したことにより、経済界は好況に沸き、その影響で文化的に最盛期を迎え、景徳鎮における万暦赤絵などの陶磁器の名品が生まれた。 |
| 万暦帝はこのことに気を良くしていたのだろうが、明の衰退は明らかとなっており、女真の力も増す一方であった。 |
| 『明史』は「明朝は万暦に滅ぶ」と評している。 |
| なお当時、過去の文献の修正を多々含むため毀誉褒貶の激しかった『本草綱目』の献上を受けたときに、これを絶賛して出版への便宜を与えるなど、中国本草学の発展への寄与は大きい。 |
子
| 泰昌帝朱常洛。 |
| 邠哀王朱常溆。 |
| 福恭王朱常洵。 |
| 瑞王朱常浩。 |
| 恵王朱常潤。 |
| 桂端王朱常瀛。 |
| 永思王朱常溥。 |
備考
| 1960年代から始まった中国での文化大革命の最中、旧思想・旧文化破棄を掲げる紅衛兵らにより墳墓が暴かれ、王妃の亡骸とともにガソリンをかけられ焼却されてしまった。 |
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1582年
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張居正が死に、親政を始めると一転して堕落し... |
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