| 大地主の末っ子として何不自由なく育った。 |
| 香川県立丸亀中学校旧制。 |
| 以下同じで野球にのめり込み、官吏になることを望んだ父親の意向で香川県立高松中学校に転校させられたが、高松中の校長は文武両道を推進しており、野球部入部を条件に転入を認めた。 |
| 高松中では遊撃手として梶原英夫投手(のち東京帝大)らと共に第14回全国中等学校優勝野球大会(夏の甲子園)に出場し、準決勝まで進出したが雨天コールドで敗退した。 |
| 野球部のマネージャーを務めたのが後に日本社会党委員長となった成田知巳だった。 |
| 卒業後、第四高等学校を受験するが、中学の先輩がいた早稲田大学にスカウトされ入学。 |
| 1年生時から二塁手として活躍する。 |
| 特に1931年春季の早慶戦2回戦で、投手・水原茂を相手に敢行した勝ち越しホームスチールは、早慶戦史に名を残している早大時代のホームスチールは6回慶大が2-2の同点とした直後の7回、2死満塁の場面で実行した。 |
| 勝ち越した早大は流れをつかみその後も加点、6-3で対戦成績を1勝1敗とし前年春からの早慶戦の連敗を5で止めた。 |
| この早慶戦は伊達正男が3日連続完投で勝ち点を挙げ「伊達の三連投」としても有名な試合である。 |
| ホームスチールは左打者が打席に入っていたときに企てたものだった。 |
| 打者が左打席に立てば三塁走者の動きは相手捕手から丸見えになるばかりか相手投手は右投げの水原であり、通常ホームスチールが考えられない局面である。 |
| そのため早大初代監督であった飛田穂洲から定石外れの暴挙と痛烈な批判を浴びせられたが、三原は堂々と反論、後の片鱗を見せた。 |
| リーグ通算67試合出場、231打数68安打、打率.294。 |
| しかし1933年、結婚を機に野球部を退部(当時早大野球部では、学生結婚は好ましく思われていなかった)、大学を中退し帰郷してしまう。 |
| 故郷ではぶらぶらしていたが、大学時代の仲間に誘われ大阪へ転居。 |
| 全大阪でプレーをした。 |
| 1934年6月6日に職業野球契約選手第1号として大日本東京野球倶楽部に入団、1936年春季からのリーグ戦には東京巨人軍の選手兼助監督として参加。 |
| 俊足・堅守の選手だったが、応召で脚を負傷したこともあってわずか実働4年で現役引退。 |
| この間、1937年の連盟選手権試合(当時は前後期制で、前期と後期の優勝チームが年度王者をかけて対戦)対大阪タイガース戦の試合終了後に、判定に不満をもった藤本定義監督と共に審判室に抗議に入り、三原がバットを持っていたために連盟から出場停止処分と罰金が課された。 |
| 引退後は、報知新聞で記者として活動したが応召しビルマ戦線で従軍。 |
| 太平洋戦争後は読売新聞(報知新聞から籍が移されていた)に記者として勤務していたが、1947年6月3日、同年シーズン、成績不振に悩まされていた、巨人の監督に就任することを球団側と合意、同6月6日、大学の後輩の中島治康監督に配慮し、助監督、技術顧問に就任した。 |
| 9月には総監督に就任し、実質的に指揮権を握った。 |
| この年巨人は5位。 |
| 翌1948年は全試合で三原が指揮をとり2位。 |
| 1949年に試合中に南海の選手を殴打する事件(三原ポカリ事件)を起こし無期限の出場停止処分に処される。 |
| 後に救済運動があり出場停止100日に減じられ、同年7月23日より復帰(三原が出場停止の間、チームの指揮は監督の中島がとった)。 |
| 三原の離脱があったもののチームは優勝を果たした(巨人の戦後初優勝であり、プロ野球1リーグ制最後の優勝)。 |
| 1949年には水原がシベリア抑留から復帰し、ファンや選手から水原のプレーを期待する声が高まった。 |
| しかし、総監督の三原は水原を起用することはなかった。 |
| だが水原は巨人の功労者であると、チーム内から批判が起きた。 |
| シーズン終了後に、巨人選手たちが三原を排斥して水原を擁立しようとするいわゆる「三原監督排斥騒動」が起きる。 |
| 球団はこれをみて「総監督・三原、監督・水原」の人事を発表し、指揮権は水原が握ることになった。 |
| 監督に就任した水原は、このとき、三原の監督交代には否定的だったが、一方で「三原君は副代表にどうですか。 |
| とにかく僕に監督ということなら、一本でやらせてください。 |
| 」とも球団に提案しているまた、すべての選手が排斥に賛同していたわけではなく、たとえば川上哲治は当時三原派であり、「1年目(1950年)は水原さんとは仲は良くなかった」と語っている。 |
| 総監督になった三原には球団から仕事が与えられることはなく、退屈しのぎに日がな碁を打つ日々をすごしていた。 |
| 同年オフ、西鉄クリッパーズに移籍していた元巨人の川崎徳次の仲介で、西鉄クリッパーズと西日本パイレーツが合併して出来た新生球団・西鉄ライオンズの監督に就任。 |
| この際に、総監督時代の悶々とした気持ちを晴らすため、西鉄を強大なチームに育て上げて、日本シリーズで巨人と対戦して負かそうと誓った。 |
| 三原は、球界屈指のスター大下弘の獲得に成功すると豊田泰光、中西太、稲尾和久ら若手有望選手を相次いで獲得して、大下を軸とするチーム作りを進めた。 |
| 1954年にチーム初のリーグ優勝を果たしたが、セ・リーグは中日ドラゴンズが巨人を抑えてリーグ優勝を果たし、この年の日本シリーズでは巨人との対戦はならなかった。 |
| この両者の戦いはマスコミから「巌流島の決闘」と評されるほどの注目を集め、4勝2敗でついに念願の「巨人を破っての日本一」を成し遂げた。 |
| 以後1958年まで3年連続で巨人と日本シリーズで対戦し、いずれも三原率いる西鉄に軍配が上がる。 |
| 特に1958年の日本シリーズは、西鉄が第1戦から3連敗しいきなり王手をかけられるが、第4戦以降は稲尾和久が連投して好投し、ついに4連勝して逆転日本一を勝ち取った。 |
| 日本シリーズ史上初、ワールドシリーズにも前例がない「3連敗からの4連勝」であり、この年の両者の戦いぶりは日本プロ野球の歴史に残る名勝負と称えられる。 |
| 当時大洋は1954年から59年まで6年連続最下位であり、万年最下位の大洋に名将の誉れ高い三原が監督に就任したことは大きな話題を呼んだ。 |
| 1960年は開幕から6連敗を喫し、エース秋山登もいきなり戦線離脱する苦しい幕開けだったが、すぐさま選手起用が冴え渡り、巨人と優勝争いを繰り広げた。 |
| 前年1959年には0勝に終わった権藤正利をリリーフ専門で起用して復活させる。 |
| 二塁手に新人の近藤昭仁を起用し、遊撃のレギュラーだった麻生実男は代打で重点的に起用し、トレードで近鉄バファローズから鈴木武を獲得して遊撃に起用し、内野の守りを固めた。 |
| 三原はこれらの選手を「超二流選手」と呼び、この「超二流選手」たちを巧く組み合わせる采配を取り、1点差試合を33勝17敗という驚異的な数字を挙げていった。 |
| そして巨人を下して球団史上初のリーグ優勝、巨人監督の水原はまたしても三原に煮え湯を飲まされる結果となり、優勝を逃した責任を取って退任した。 |
| 日本シリーズは「ミサイル打線」との異名を持つ大毎オリオンズとの対戦となった。 |
| その後三原が指揮をとった1962年、1964年と、大洋は阪神タイガースと熾烈な優勝争いを演じた。 |
| 1968年には4年連続最下位だった近鉄バファローズの監督に就任。 |
| 近鉄監督時代には永淵洋三を投手・野手の二刀流で起用した後野手に専念させて首位打者を獲得させたほか、小川亨を指導した。 |
| その後、1971年にヤクルトアトムズ監督。 |
| 1年目最下位、2年目の1972年には4位、3年目の1973年は4位。 |
| 優勝はできなかったが入団したばかりの若松勉の打撃センスを見抜き1年目からレギュラーに抜擢、三原と共にヤクルト入りした中西太打撃コーチとのマンツーマン指導の甲斐もあり翌1972年には早くも首位打者になるなど、後に若松が大打者としてはばたくきっかけを作った。 |
| 1973年11月、日本ハムによる日拓ホームフライヤーズ買収に関与し日本ハムファイターズの球団社長に就任し、娘婿の中西を監督に据えた。 |
| この間チームの体質改善を図り東映時代の主力を次々に放出させ、リーグ優勝時に残っていたのは宇田東植、千藤三樹男、岡持和彦(宇田は1981年オフに阪神タイガースに移籍、千藤は1981年の優勝を経験後引退)だけだった。 |
| 1978年の江川事件では、巨人を除く11球団で最後まで江川卓の巨人入団に反対したが、大勢を変えることはできなかった。 |
| 長女・敏子は中西太の妻であり、三原は中西の義父にあたる。 |