| この育ての父親は電気工事の渡り職人で、三國が生後7ヵ月の時、一家で父親の故郷・静岡県西伊豆に戻った。 |
| その後、三國は旧制豆陽中学を二年で中退するまで土肥町(現在の伊豆市)で育った『三國連太郎・沖浦和光対談上浮世の虚と実』(12-15頁、解放出版社1997年)、ちくま文庫で再刊、2005年。 |
| 『あの日あの時母の顔-私の母語り』212、213頁。 |
| 中学時代は水泳部。 |
| 下田港から密航を企て青島に渡り、その後釜山で弁当売りをし、帰国後は大阪でさまざまな職に就く。 |
| 1943年12月、20歳の三國は大阪で働いていたが、徴兵検査の通知が来て故郷の伊豆に戻り、甲種合格後、大阪に戻った梯久美子『昭和二十年夏、僕は兵士だった』120頁(角川書店、2009年)。 |
| すると「おまえもいろいろ親不孝を重ねたが、これで天子様にご奉公ができる。 |
| とても名誉なことだ」という母の手紙が来た。 |
| 自分に赤紙(召集令状)が来たことを知った三國は、「戦争に行きたくない。 |
| 戦争に行けば殺されるかもしれない。 |
| 何とか逃げよう」と考え、同居していた女性とすぐに郷里の静岡とは反対の西へ向かう貨物列車に潜り込んで逃亡を図った。 |
| 逃亡四日目に無賃乗車で乗り継いで山口県まで来たとき、母に「ぼくは逃げる。 |
| どうしても生きなきゃならんから」と手紙を書いた。 |
| 親や弟、妹に迷惑がかかることを詫び、九州から朝鮮を経て中国大陸へ行くことも書きそえた。 |
| 数日後、佐賀県の唐津呼子で船の段取りをつけていたところで憲兵に捕まり連れ戻された。 |
| しかし処罰は受けず、皆と同様に赤ダスキを掛けさせられて、静岡の連隊に入れられた。 |
| 中国へ出征する前、最後の面会にやってきた母が「きついかもしれんが一家が生きていくためだ。 |
| 涙をのんで、戦争に行ってもらわなきゃいかん」と言ったとき、三國は母親が家のために黙って戦争に行くことを息子に強要し、逃亡先からの手紙を憲兵隊に差し出したことを知る。 |
| 中国大陸の前線へ送られた三國の部隊は総勢千数百人だったが、生きて再び祖国の土を踏めたのは二、三十人にすぎなかった。 |
| 従軍中、三國は身体を壊し、漢口の兵器勤務課に配属されてこの部隊で終戦を迎えた梯久美子『昭和二十年夏、僕は兵士だった』125頁(角川2009)。 |
| 後年、母親が危篤となったとき、三國は仕事もあって帰郷できなかったが、その後、死の報せを受け取った際、自分が未だに母親を許していないことに気がついて慄然としたと語っている。 |
| 敗戦時、三國は収容所に入れられ、独自に作った化粧品などを売って過ごした。 |
| 中国からの復員の際に、妻帯者は早く帰国できるということで、同じ佐藤姓の女性と偽装結婚している。 |
| 佐世保から広島を経て大阪に戻り、多種多様な職業についた梯久美子『昭和二十年夏、僕は兵士だった』130-134頁(角川2009)。 |
| 宮崎交通を経て、1950年に東銀座を歩いていたところ松竹のプロデューサー小出孝にスカウトされ、松竹大船撮影所に演技研究生として入る。 |
| スカウト時には、プロデューサーの「大船のスタジオにカメラテストに来てくれないか」との言葉に、「電車代と飯代を出してくれるなら」と答えたと三國本人が述懐している『週刊ポスト』2008年10月31日号。 |
| 1951年、木下惠介監督『善魔』に、レッドパージで出演取り止めとなった岡田英次の代役としてデビュー、役名の「三國連太郎」を芸名にする。 |
| 翌年、稲垣浩監督『戦国無頼』への出演を希望し、東宝に移籍。 |
| しかし、1954年、稲垣監督『一乗寺の決闘』撮影開始直前に映画製作を再開した日活に走り、「五社協定違反者第1号」となる。 |
| 大船撮影所の門扉に「犬・猫・三國、入るべからず」との看板が取り付けたれたというNHK『こころの遺伝子〜あなたがいたから〜』2010年3月29日放送分。 |
| 『三國連太郎の「あなたがいたから」』(主婦と生活社、2011年2月)で書籍化。 |
| 木下惠介の勧めで3ヵ月ほど俳優座に通った。 |
| 以後、『ビルマの竪琴』(1956年)、『飢餓海峡』(1965年)、『はだしのゲン』(1976年)、『ひかりごけ』(1992年)など社会派作品から、『未完の対局』(1982年)、『三たびの海峡』(1995年)、『大河の一滴』(2001年)など中国を中心にした国際合作、『犬神家の一族』(1976年)、『野性の証明』(1978年)、『マルサの女2』(1988年)などの娯楽大作まで、主演・助演を問わず幅広く出演。 |
| カリスマ的役柄で、圧倒的存在感をスクリーンに残す。 |
| 1984年には紫綬褒章を受章。 |
| 1986年には映画『親鸞・白い道』関連著書に『白い道 法然・親鸞とその時代』(毎日新聞社ほか)、『親鸞』(法蔵館、1987年)、『親鸞に至る道』(光文社知恵の森文庫で再刊、2010年)があるを製作・監督し、カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞。 |
| 1993年には、勲四等旭日小綬章を受章した。 |
| 1968年には自ら映画会社APCを設立。 |
| いわゆる役者バカであり、怪優・奇人とも称される。 |
| 家城巳代治監督『異母兄弟』(1957年)において、老人役の役作りのため上下の歯を10本抜いたエピソードはよく知られている。 |
| これについては、「夫婦役の田中絹代とどう見ても夫婦に見えないことに悩んだ末のことだ」と三國本人が述懐している(腫れた三國の顔を見て「おやまぁ」と田中が一言、その日は撮影しなかったという)。 |
| 特に、粗暴な人物役を抱えた時期の三國はプライベートでも役にハマりこんでしまい、他人が近づきがたい状態になっていることが度々であった。 |
| テレビドラマ『支払い過ぎた縁談』(1965年、関西テレビ)の撮影において、浮浪者の心理を探るため、荒んだ格好でカップルを脅したことがあり、交番に駆け込まれて逮捕されそうになったという。 |
| レイプシーンなどでも、リハーサルから本気で暴行することで知られ、親しい女優でさえおびえたという。 |
| ただしオフの三國は親しい映画関係者の複数の証言によると「言動もおだやかで、酒も飲まず、饅頭など甘いものが好物の、言動も仏様の様な大人しい人物」だという。 |
| 撮影所では役者・スタッフの安全のために釘を拾っていたという逸話もあり、オフの三國の人柄が窺がわれる。 |
| 220px|thumb|left|映画『自分の穴の中で』(ポスター)での三國(左)。 |
| 結婚を4度経験。 |
| 俳優の佐藤浩市は3番目の妻との間にできた息子である。 |
| その他にも太地喜和子、石田えりらとのロマンスが取り沙汰され、奔放な女性関係で知られた。 |
| 太地と出会った時は20歳と41歳という21歳の年の差にも関わらず大恋愛に発展。 |
| 太地の実家に挨拶に行き「10年経ったらせがれが自立できるようになるので、結婚させてほしい」と申し出、そのまま実家で同棲を開始するも3ヶ月目に「疲れた」という置き手紙を残して太地の元を去った。 |
| 別れの10年後、1974年11月の『週刊アサヒ芸能』での太地との誌上対談「いま語る激しく燃えたあなたとの3ヶ月」で、太地の「三國さんはどうしてあのとき、喜和子から逃げ出したんですか。 |
| 」という問いに対し、「10年目にして率直に言うけど…あなたの体にひれ伏すことがイヤだった。 |
| 僕は臆病者ですから、のめり込む危険を絶対に避けたかったんです。 |
| 」と答えている。 |
| また、その後、1981年6月の『週刊読売』のインタビューでは「今までで、惹かれた女優さんは一人だけです。 |
| 太地喜和子さんだけです。 |
| ぼくは、男に影響を与える女の人が好きです。 |
| 『もう一度逢いたい!日本人が愛した女優伝説』テレビ東京2009年12月11日放送。 |
| 最近では『釣りバカ日誌』シリーズ(1988年-2009年)で活躍。 |
| 子どもの頃は全く魚が釣れず、更に餌のミミズに触るのが嫌だったからであり、劇中でも浜崎伝助(西田敏行)の様には釣れていない。 |
| また初期には作品としての『釣りバカ日誌』に対して評価は低く、インタビューなどでしばしば「昔の義理で出演している」と語っていた。 |
| 最終作となった『釣りバカ日誌20ファイナル』の会見では「混迷の映画界の中で暗中模索した冒険のような作品」と語るなど総じて高評価であり、心情の変化が見うけられる。 |
| 映画『美味しんぼ』では、親子の役で息子・佐藤と共演。 |
| その後『笑っていいとも』に出演した際には「佐藤浩市くんの演技がよかったです」とコメントしている。 |
| 沼津市の観光大使(キャンペーン隊)である「燦々ぬまづ大使」に通算6回に渡り選ばれている。 |