| 1951年6月24日に公職追放令が解除されると、三木は鳩山、河野らと共に吉田打倒に動き出した。 |
| 自由党に復帰するが、すでに自由党は吉田直系の「吉田学校」で固まっており、「鳩山復帰後は総裁を譲るという約束」は事実上反故にされ、鳩山、三木、河野らは新党結成を目指した。 |
| しかし、鳩山が脳溢血で倒れ、新党結成は頓挫、三木は自由党内での反吉田闘争に路線を変更する。 |
| 三木は「寝業師」としてあらん限りの智謀を傾け反吉田闘争の先頭に立つ。 |
| これに対して吉田は政治顧問、松野鶴平の助言で1952年8月、抜き打ち解散を実施し、鳩山派を揺さぶった。 |
| また、広川弘禅の入れ知恵で吉田は反党的言動を理由に石橋湛山、河野一郎の両名を自由党から除名した。 |
| 肝心の三木が除名されなかったのは、第1次吉田内閣成立時の三木の働きに吉田が恩義を感じており、三木の除名をしりぞけたためという。 |
| 総選挙の結果、自由党は第一党となり、第4次吉田内閣が成立する。 |
| 鳩山派は党内野党ともいうべき「民主化同盟」(民同)を結成。 |
| 池田勇人通商産業大臣の「中小企業の一つや二つ倒産し、自殺してもやむを得ぬ」との失言に対し野党から池田通産相不信任決議案が提出されると、鳩山民同は本会議を欠席し、不信任案を可決させ、池田は通産相を辞任した。 |
| 12月、鳩山民同は補正予算案通過を背景に吉田執行部に圧力をかける。 |
| 1953年、石橋、河野の自由党除名を取り消させると同時に、吉田側近の林譲治幹事長、益谷秀次総務会長を辞任させ、三木は益谷の後任の総務会長に就任する。 |
| 三木は吉田体制の攪乱を謀り、吉田が後継者として緒方竹虎を念頭に置いていると吹き込み、広川を吉田側から離反させることに成功した。 |
| さらに、ことさら「広川幹事長・三木総務会長」との人事案を吉田陣営に提示し、「吉田が飲めば広川幹事長を通じて党を動かせる」「吉田が飲まなければ広川は吉田を恨み鳩山陣営に近づく」という王手飛車取りの策をみせた。 |
| 結局広川幹事長は実現せず、水面下での広川の吉田からの離反は決定的となった。 |
| 2月28日、吉田首相は、西村栄一の質問に対してバカヤローと発言。 |
| 三木は、右派社会党の浅沼稲次郎と秘密裏に会談し、内閣不信任決議案提出を考えていた浅沼を翻意させ内閣総理大臣の懲罰動機を提出させる。 |
| また戦前派代議士である大麻唯男、松村謙三らに三木武夫を加えこれらに根回しをして、さらに広川派30数名に本会議に欠席させ、懲罰動議を通過させた。 |
| さらに、渋る野党を説得して内閣不信任決議案を提出させ、三木は内閣不信任決議案を取引材料に吉田と会談し、辞職を迫った。 |
| 内閣不信任決議案に賛成投票する。 |
| 3月14日、衆議院は賛成229票、反対218票で吉田内閣不信任決議案を可決した。 |
| さらに広川ら16名も脱党し、分派自由党を結成。 |
| 選挙の結果は、自由党が23名減の199議席だが、依然第一党の地位を確保し、分派自由党は35議席にとどまった。 |
| 三木、河野、松田竹千代、松永東、中村梅吉、山村新治郎、池田正之輔、安藤覚の8人だけは復党を拒絶し、日本自由党を結成した。 |
| このメンバーのことを「七人の侍」をもじって8人の侍という。 |
| 1954年1月、保全経済会事件が発覚。 |
| この事件はさらに造船疑獄へと発展し、自由党の佐藤栄作幹事長、池田勇人政務調査会長に疑惑が持たれる。 |
| この間、自由党、改進党、分派自由党が集まり、統一保守党結成に向け、各党代表者間で話し合いが持たれたが、決裂。 |
| 三木はこの機を逃さず、改進党の大麻唯男、三木武夫、自由党の鳩山一郎、岸信介と結んで、反吉田の新党結成に乗り出す。 |
| 11月に日本民主党が結成、鳩山一郎・総裁、岸信介・幹事長、三木は総務会長に就任した。 |
| 12月、吉田内閣はついに総辞職し、第1次鳩山一郎内閣が成立した。 |
| だが、その後の総選挙の直後に行われた衆議院議長選挙では、日本民主党以外の党が一致して自由党の益谷秀次を統一候補として出したために、慣例では議長に就く筈の与党候補の三木は落選してしまい、宿願のもう半分は幻と消えた。 |