| 幼い頃は病弱で腎炎、結核との闘病を経験する。 |
| 腎臓の病はその後も水面下で進行し66歳の時に腎不全を発症。 |
| 以後は週3回の人工透析を受けるようになる。 |
| 血圧はかなり低く、普段でも最高血圧が80mmHgしかなかったという。 |
| 著名な武家の出である。 |
| 秀吉により鳥取城籠城戦「鳥取城渇え殺し」・鳥取城の兵糧攻めにて滅ぼされた城主・吉川経家(きっかわつねいえ)とその三男・吉川家好(いえよし)が先祖。 |
| 家好は後に鳥取藩池田家の家臣となった。 |
| 安政7年に、その末裔=5代圓楽の曽祖父が切腹をした。 |
| 藩翰譜に書いてある(5代圓楽が鳥取に行ったときに、地元図書館長がそれを教えてくれたいう)。 |
| 5代圓楽の曽祖父の切腹=死の瞬間を間近で見ていたのが息子・寛雅=5代圓楽の祖父であった。 |
| 寛雅はわずか7歳であった。 |
| 父の死を眼前で目撃し“侍というものは、かくも悲惨なものか、もう厭だ”と思いつめ、武士を辞めて、徳川所縁の増上寺に入り、僧侶となったという『三遊亭圓楽独演会全集』第二集(EMIミュージックジャパン)本人(5代目)による解説(目黒のさんまの項)。 |
| 明治時代に至って、寛雅は苗字を「吉川」(きっかわ)から「吉河」(よしかわ)に改めた「落語で生かそう法然流 圓楽一代記」1、『浄土宗新聞』1990年(平成2年)5月1日付より。 |
| その息子=5代圓楽の父も僧侶を継ぎ、易行院住職となる。 |
| 当時の同寺は浅草にあった(のち足立区に移転)。 |
| 生まれ育った寺には行僧や使用人など年上の男性が他にも住んでいたため、自分の父親がそのうちのどの人かすら分からなかった。 |
| わかったのは5歳ぐらいで、食事時の無作法をたしなめた人がいて、その人との会話の中で初めてその人こそ父であることが判明した。 |
| 自由民主党の大物政治家で衆議院議長・文部大臣を務めた灘尾弘吉と親戚関係だった(灘尾弘吉の父方のいとこの妻が、圓楽の母の姉にあたる)『女性自身』1981年5月14日・21日合併号。 |
| また三木武夫、福田赳夫といった首相になる政治家との交友もあり、1986年(昭和61年)の参議院選挙の際には出馬を打診されてもいるが、実現はしなかった。 |
| 第二次世界大戦では東京大空襲にあったが5代圓楽の一家は一命をとりとめた。 |
| しかしこの戦争が圓楽の進路に影を落とす。 |
| 終戦後は「これからは食糧難だから農業だ」ということで父親の薦めで、農民になることを決意。 |
| ご先祖が食糧で苦しんだことも関係があったか。 |
| 東京にはなかなか農業を学べるところがなく、隣県でしかも家からかなり遠い埼玉県立杉戸農業高等学校に入り、卒業。 |
| が、上野鈴本演芸場で落語を見た時に「戦争ですべてを奪われ暗い顔をした人々にこうやって笑いを起こさせることができる落語はすごい」と落語家になることを決意する。 |
| 1988年(昭和63年)には、実家の寺院へ自身の墓を生前建立していた(いわゆる「寿陵」)。 |
| 自他共に認めるせっかちな性格もあり、他人の作った墓に入るよりは自身で早く作ってしまおうと考えたため自分の墓を建立したとのこと。 |
| 寺の生まれであるため、その墓石の素材等にもこだわりを持っていたと、6代目圓楽襲名決定記者会見の中で明らかにしている。 |
| 墓石には「円楽之墓」と刻まれている。 |
| また、自らの墓の隣には航空機事故で早世した実妹(後述)の供養観音を建立している |
| 6代目三遊亭圓生に入門する際に「一人前になるまで50年は食えませんよ」と言われたが、圓楽は「30歳までに真打になれなかったら辞めます」と言って入門した。 |
| 実際に圓楽は30歳を迎える約3ヶ月前に真打昇進した。 |
| 落語家になって数年経っても「噺は上手いが圓生の真似だ」と言われ圓楽自身も悩み、ストレスで一時は体重が48kgになったり自殺未遂をしかけるほどだった。 |
| しかし母親から「お前は名人だよ」と言葉をかけられ、自分にはこんなに気遣ってくれる人がいるのだという思いで、なんとかスランプを脱出。 |
| のちに自身の代表演目となる「浜野矩随」(はまののりゆき)と重なるようなストーリーである。 |
| 後にそれをネタにして若き日の自己のキャッチフレーズを「名人圓楽」とするが、師匠などから「二つ目の分際で名人とは生意気でげす」と怒られキャッチフレーズを「星の王子さま」に変更。 |
| 本人は落語家としてやっていくつもりはなく、一時期は事実上テレビ専業の「落語家タレント」であった。 |
| その代わりレギュラーは多くバラエティ、ドラマ何でもこなした。 |
| 圓楽は「落語界・寄席でタブーとされることを全部やってやる」「寄席の価値観の逆をやる」という戦略をとり、瞬く間にスターとなった。 |
| 例えば「キザ」という価値観は寄席では排除されるものだが、圓楽はあえてキザであり続けた。 |
| 前田憲男とプレイボーイズのLP『円楽のプレイボーイ講座12章』がそのあらわれである。 |
| このLPは横山剣(クレイジーケンバンド)により絶賛少年時代にこの曲から現在に通じる音楽観、その影響を大いに受けたと語っている。 |
| され、2001年(平成13年)にCD化(2008年、紙ジャケットCDとして再発。 |
| ジャズの調べに乗せてエスプリたっぷりに女性の口説き方を、独特のキザな語り口で聴かせている。 |
| 師匠圓生に諭されて本格的に落語を精進するまでは、バラエティータレントの一人として数多くのテレビ番組に出演していた。 |
| 圓楽主演のテレビドラマ『笑ってよいしょ』(東映製作・日本テレビ系列)までが制作され、野末陳平と一緒に歌ったドラマタイトルと同じ曲名の主題歌「笑ってよいしょ」を発表する。 |
| 後にソニー・ミュージックで発売されたコミックソングを集めたコンピレーションCD・「SMILE」に収録された。 |
| そのライナーノーツによると「ソニーミュージック最古のコミックソング」と言う。 |
| また、日活の映画『ハレンチ学園』シリーズにも主要なコメディリリーフで出演していた。 |
| 「星の王子さま」時代のキャラについては「テレビに出たら、今まで寄席で自分がタブーとしていたことを全部やってやろうと思って」自らが意図的に演じたキャラだったと『いつみても波瀾万丈』出演時に語っていた。 |
| また、「星の王子様」で売り出した時期より長い間パンアメリカン航空のテレビCMに出演していた。 |
| プロレス団体のFMWのコミッショナーも務めていたことがある。 |
| 師匠の厳命により1977年(昭和52年)に「タレント廃業宣言」をするまで、落語に全力を注ぐことはなかった。 |
| タレント廃業宣言は徹底したもので、『笑点』含む全レギュラー出演から降板した『笑点』で卒業式を行って卒業し、寄席の活動にシフトした。 |
| 1983年に司会者として『笑点』に復帰した後もテレビのレギュラー番組は原則『笑点』とNHK総合『お好み演芸会』『笑点』復帰前の1980年頃から大喜利コーナー「花の落語家五人衆」レギュラー。 |
| 読売ジャイアンツのファンであり、ジャビットの絵が描かれた扇子を持っていた。 |
| 面長(顔が長いこと)で知られ、笑点でもネタにされることが、没後の現在に至っても多々ある。 |
| 加糖練乳を直接食することを好んでおり、地方での仕事の際にイチゴに掛けるために出された練乳を直接飲んで、挙げ句にお代わりまで求めたことを、その場に居合わせた林家木久扇によって後にネタにされている。 |
| 本人が後に語ったところによると、1978年(昭和53年)の落語協会分裂騒動で師匠圓生と行動を共にしたのは「師匠をおいて残れない」という理由から。 |
| 圓生が引退している身であれば脱会はしなかったが(もともと、圓楽は騒動の原因となった真打昇進に関しては圓生と正反対の考え方を持っていた)当時圓生は78歳と高齢ながら現役を退いておらず、師匠に逆らい自分が弟弟子と行動を共にすることなぞできないと悟り、師匠と共に落語三遊協会を立ち上げたというわけである。 |
| 行動を共にした6代目三遊亭圓窓・三遊亭圓彌・三遊亭圓丈等の他の弟弟子は6代目圓生の死後落語協会に復帰している。 |
| 東京都江東区東陽町に自費で寄席「若竹」を設置野島康祐、「三遊亭円楽さん:落語家:肺がんのため10月29日死去・76歳」『毎日新聞』、2009年12月16日、13版、27面。 |
| 「噺家の純粋培養」を企て寄席に出られない圓楽一門の新たな活動場として用意したつもりであったが、弟子たちはその意に反して余興(上方でいう「営業」)等に精を出して肝心の「若竹」の出番を休んでいたりしたため、これに憤った圓楽はついに「若竹」の閉鎖を決意。 |
| 1972年(昭和47年)6月14日に発生した日本航空ニューデリー墜落事故で、客室乗務員だった実妹(当時23歳)を亡くしている。 |
| 愛弟子の三遊亭楽太郎に6代目圓楽を継がせることについても、死んでから誰かわからないものに襲名させるよりは自分が健在であるうちに決めてしまおうというと言う意向から、林家木久扇が子息に2代目木久蔵を襲名させたのに続き、生前の襲名に踏み切ったとのことであった。 |
| なお、生前に「お前が圓楽だ」と(小遊三いわく、あの長い顔で)指名して既に準備をしていたことから、三遊亭小遊三や三遊亭鳳楽などからは「遺言と生前贈与のちがい」、「名跡を継いだものが亡くなってからしばらくたって関係者で話し合うことや、それが元で揉めに揉めることはない」などといわれている。 |