| プロ1年目のは、毎週日曜日に登板するというローテーションが組まれていたため、サンデー上原と呼ばれた。 |
| 前半戦で新人では37年ぶりの12勝を挙げるなど5月30日から9月21日まで、歴代4位タイとなる15連勝を記録。 |
| 新人投手の記録としては1966年に堀内恒夫が記録した13連勝を33年ぶりに更新する。 |
| 10月5日のヤクルトスワローズとの最終戦では、すでに中日の優勝が決まった後の消化試合であり、専らの注目はタイトル争い。 |
| 各チームに所属する松井秀喜が41本、ロベルト・ペタジーニが42本と、本塁打王を激しく争っていた。 |
| 上原自身も中日の野口茂樹と最多勝を争い、この試合に20勝目がかかっていた。 |
| この年ペタジーニを無安打に押さえ込んでいた上原は、1・2打席目では勝負して打ち取ることに成功する。 |
| しかし、この間松井が一貫して敬遠気味の四球で歩かされ続けたことで、7回裏にペタジーニの3打席目を迎えたところでベンチから敬遠の指令を受ける。 |
| 指示に従いストレートの四球で歩かせたが、勝負できない悔しさからマウンドの土を蹴り上げ、全力で投げ込み、目に浮かんだ涙をユニフォームの袖で拭った。 |
| 9回の4打席目では再び勝負し適時打を浴びたものの、2失点完投勝利で20勝目を挙げた。 |
| 最終的には20勝4敗の好成績を残し、両リーグを通じての木田勇以来19年ぶりの20勝投手となった。 |
| 最多勝利、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率の投手主要4部門を制し、史上10人目、新人としては史上3人目の投手4冠を達成。 |
| また、新人王と沢村賞も受賞する。 |
| 自分自身を雑草に喩えた「雑草魂」という言葉は(鈴木啓示の座右の銘「草魂」より)、松坂大輔の「リベンジ」と共に1999年の流行語大賞に選ばれた。 |
| レギュラーシーズンでは球団史上最多、7度目(7年連続)の開幕投手を務め自身5年ぶりの開幕戦勝利をあげ、8月25日の阪神戦で、ドラフト制以降では松坂大輔と並ぶ最速タイとなる191試合目での100勝を達成。 |
| しかしシーズン全体を通しては調子が上がらず、援護にも恵まれなかったこともあり8勝9敗で2年連続1桁勝利で負け越した。 |
| この年から、巨人の財団法人骨髄移植推進財団への支援開始をきっかけに、自身も骨髄バンクへの登録を呼びかける活動を始める。 |
| 6月に自らも骨髄バンクに登録し、試合前のイベントなどで登録を呼びかける。 |
| また、シーズンオフには東海大学医学部付属病院へ訪問し病気の子供達にクリスマスプレゼントを渡している。 |
| 二軍では小谷正勝コーチなどと調整・投球修正を続けていた。 |
| 7月に五輪代表監督星野仙一の五輪代表招集要望で一軍に緊急復帰しセットアッパーとして登板するも、調子を取り戻すことはできずに終わる。 |
| しかしそれでも星野から「日本代表に最も必要な男」と国際試合での相性・経験を見込まれ、五輪代表に選出。 |
| 1軍でも尾花投手コーチと遠投に取り組むなど、引き続き投球修正を続け、原監督には精神的な部分での問題を指摘され、ビハインドでの救援や、僅差で2アウトからの救援など、段階を上げながら失敗・成功を重ねた。 |
| 前半戦最終戦、五輪代表合宿合流前の最後の試合となった7月29日、8回1点差から登板し1イニング無失点、その後4点差となったことで9回も続投、3三振に抑え、シーズン1軍初セーブを記録した。 |
| 前年に代謝異常の難病を患っていた斉木翔太君と「元気になったら東京ドームでキャッチボールをする」と約束。 |
| 8月28日の東京ドームでの横浜戦の試合前に約束は実現し、斉木君はその試合で始球式を務める。 |
| この様子はその年の24時間テレビで放送された。 |
| この試合では約4ヶ月ぶりの先発復帰を果たし、先発投手として693日ぶりの勝利を上げた。 |
| その後も尻上がりに調子を上げ、北京五輪後は7試合で4勝1敗。 |
| 唯一の敗戦もソロホームランでの1失点のみで防御率2.08という好成績で巨人の逆転優勝に貢献した。 |
| 西武との日本シリーズでは第1戦(11月1日)に先発したが、負け投手となる。 |
| しかし、打線の援護でチームが逆転勝ちしたため、敗戦は免れた。 |
| 11月14日にはFA宣言を行い、正式にメジャーリーグ挑戦を表明。 |
| SFX社のマーク・ピーパーを代理人とし、1月6日にボルチモア・オリオールズと2年契約で基本合意。 |
| 13日に2年1000万ドル(約9億円・出来高最高600万ドル)で正式に契約を交わし、同球団初の日本人選手となった。 |