| 天文21年(1552年)1月、関東管領・上杉憲政は相模国の北条氏康に領国の上野国を攻められ、居城の平井城を棄て、景虎を頼り越後国へ逃亡してきた。 |
| 景虎は憲政を迎え、御館に住まわせる。 |
| これにより氏康と敵対関係となった。 |
| 8月、景虎は平子孫三郎、本庄繁長等を関東に派兵し、上野沼田城を攻める北条軍を撃退、さらに平井城・平井金山城の奪還に成功する。 |
| 北条軍を率いる北条幻庵長綱は上野国から撤退、武蔵松山城へ逃れた。 |
| なおこの年の4月23日、従五位下弾正少弼に叙任される叙任の月日は、上杉家御年譜一・謙信公では4月23日、上杉家文書・上越七三では5月26日(大覚寺義俊の斡旋による)としている。 |
| 尚、歴名土代には記載なし。 |
| 同年、武田晴信(後の武田信玄)の信濃侵攻によって、領国を追われた信濃守護・小笠原長時が景虎に救いを求めてくる。 |
| さらに翌・天文22年(1553年)4月、信濃国埴科郡葛尾城主の村上義清が晴信との抗争に敗れて葛尾城を脱出し、景虎に援軍を要請した。 |
| 義清は景虎に援軍を与えられ村上領を武田軍から奪還するため出陣、同月に武田軍を八幡の戦いで破ると武田軍を村上領から駆逐し、葛尾城も奪還する。 |
| しかし一端兵を引いた晴信軍だったが、7月に再度晴信自ら大軍を率いて村上領へ侵攻すると、義清は再び越後国へ逃亡。 |
| ここに及んで景虎は晴信討伐を決意し、ついに8月、自ら軍を率いて信濃国に出陣。 |
| 30日、布施の戦いで晴信軍の先鋒を圧倒、これを撃破する。 |
| 9月1日には八幡でも武田軍を破り、さらに武田領内へ深く侵攻し荒砥城・青柳城・虚空蔵山城等、武田方の諸城を攻め落とした。 |
| これに対し晴信は本陣を塩田城に置き決戦を避けたため、上洛の予定があった景虎は深追いをせず、9月に越後へ引き上げた(第一次川中島の戦い)。 |
| 天文22年(1553年)9月、初めての上洛を果たし、後奈良天皇および室町幕府第13代将軍・足利義輝に拝謁している。 |
| 京で参内して後奈良天皇に拝謁した折、御剣と天盃を下賜され、敵を討伐せよとの勅命を受けた。 |
| この上洛時に堺を遊覧し、高野山を詣で、京へ戻って前大徳寺住持の徹岫宗九(てつしゅうそうく)のもとに参禅して「宗心」の法名を授けられた。 |
| 天文23年(1554年)、家臣の北条高広(きたじょうたかひろ)が武田と通じて謀反を起こしたが、天文24年(1555年)には自らが出陣して高広の居城・北条城を包囲し、これを鎮圧した(北条城の戦い)。 |
| この間、晴信は善光寺別当栗田鶴寿を味方につけ旭山城を支配下に置いた。 |
| これに対抗するため景虎は同年4月に再び信濃国へ出兵し、晴信と川中島の犀川を挟んで対峙した(第二次川中島の戦い)。 |
| また、裾花川を挟んで旭山城と相対する葛山城を築いて付城とし、旭山城の武田軍を牽制させた。 |
| 景虎は、犀川の渡河を試みるなど攻勢をかけたものの、小競り合いに終始して決着はつかず。 |
| 対陣5ヶ月に及び最終的に晴信が景虎に、駿河国の今川義元の仲介のもとで和睦を願い出る。 |
| 武田方の旭山城を破却し武田が奪った川中島の所領をもとの領主に返すという、景虎側に有利な条件であったため、景虎は和睦を受け入れ軍を引き上げた。 |
| ところが弘治2年(1556年)6月、家臣同士の領土争いの調停で心身が疲れ果てたためか、突然出家することを宣言し、高野山(一説に比叡山)に向かう。 |
| 天室光育、長尾政景らの説得で出家を断念した景虎は越後国へ帰国。 |
| 一端越中へ退き再び越後へ侵入しようとした朝秀を打ち破る(駒帰の戦い)。 |
| 弘治3年(1557年)2月、晴信は盟約を反故にして長尾方の葛山城を攻略、さらに信越国境付近まで進軍し、景虎方の信濃豪族・高梨政頼の居城・飯山城を攻撃した。 |
| 高井郡山田城、福島城を攻め落とし、長沼城と善光寺を奪還。 |
| 一方の長尾軍は背後を脅かされたため、飯山城まで兵を引き、高井郡野沢城・尼巌城(あまかざりじょう)を攻撃する。 |