| 旧制中学卒業後は旧制高校進学を志すが、中学時代にまったく勉強をすることができず内申書を取得できなかったため断念「下村氏にノーベル化学賞 蛍光タンパク質発見」中日新聞2008年10月9日付。 |
| 戦後、長崎市への原子爆弾投下により校舎が破壊されたため諫早市小野の下村の自宅から見える近所に移転してきた旧制長崎医科大学附属薬学専門部(長崎大学薬学部の前身)に進学し「下村氏にノーベル化学賞 蛍光タンパク質発見」中日新聞2008年10月9日付。 |
| 、1951年(昭和26年)卒業。 |
| 旧制中学時代は全く勉強することができず |
| 以前の勤務先のウッズホール海洋生物学]読売新聞。 |
| 、進学した薬学専門部も、終戦直後の中航空機乗員養成所を借りた仮校舎でろくな勉強もできないまま卒業したため、知識を習得したのは名古屋大学での研究生時代以降だという |
| 薬学専門部卒業後、武田薬品工業の研究職を志すが、面接担当者に「あなたは会社員に向きません」との忠告を受け断念 |
| 下村はこのときの経験を、初めから会社員志望でなかったことに加え、面接時に無愛想な態度をとったからと後述している。 |
| 就職試験に落ちた下村は長崎大学薬学部の安永峻五教授のもとで実験実習指導員を4年間務めた。 |
| 安永は下村を研究者として育成し幅広い知識を習得させるため |
| 1955年(昭和30年)春、安永と下村は、名古屋大学を訪れたが、江上は不在。 |
| 代わりに応対した有機化学の平田義正教授は、「私の所にいらっしゃい」と下村に言った。 |
| 下村は、分子生物学も有機化学も当時は知らなかったので、天の指図だと思い平田教授の有機化学研究室に行くことを決めた |
| 下村脩博士」 広報誌『CHOHO』Vol.26、 2009年、 p.2。 |
| 1955年(昭和30年)から平田の有機化学研究室に研究生として所属 |
| 平田から与えられた研究テーマは「ウミホタルのルシフェリンの精製と結晶化」だった。 |
| これは、プリンストン大学のグループが20年以上も前から解決しようとしていた、極めて難しい問題であった。 |
| 下村は、研究に没頭。 |
| 10か月後の1956年(昭和31年)2月に、努力が実を結び「ウミホタルのルシフェリンの結晶化」に成功した |
| 下村脩博士」 広報誌『CHOHO』Vol.26、 2009年、 p.3。 |
| 27才の下村の成し遂げた業績であった |
| その後も実験を続け論文として発表した |
| 1957年(昭和32年)-「CrystallineCypridinaLuciferin」 |
| 1959年(昭和34年)-「海ホタルルシフェリンの構造」 |
| 1959年(昭和34年)-「海ホタルルシフェリンの構造(第2~3報)」 |
| 1960年(昭和35年)-「5-イミダゾロンに関する研究(第1~2報)」 |
| この間、1959年(~1963年)には、長崎大学の助手となる |
| プリンストン大学のフランク・ジョンソン教授は、下村の論文に感銘を受け、プリンストン大学に招聘1959年(昭和34年)、下村は受諾した。 |
| 平田はハーバード大学留学体験から博士の学位により報酬が倍増されることを知っていたため、博士課程の学生ではなかった下村に博士号を与えた |
| 1960年(昭和35年)4月に、「海ホタルルシフェリンの構造(第2~3報)」の論文に対して、名古屋大学から理学博士号が授与された |
| 1960年(昭和35年)8月に、横浜港から氷川丸にて渡米した「氷川丸の最後の航海で太平洋を渡った。 |
| 」2008年12月30日朝日新聞 |
| その後も平田のことは恩師と仰ぎ、2000年(平成12年)に平田が死去した後も、論文を書くたびに平田の自宅に送ったり、来日して同門の研究者と墓参りをしていたという |
| 以前の勤務先のウッズホール海洋生物学]読売新聞。 |
| ノーベル化学賞受賞後の取材では、恩師の平田に一番に受賞の喜びを伝えたいと述べた「家族も総出でクラゲ捕り…ノーベル化学賞・若き日の下村さん」2008年10月8日読売新聞。 |
| 博士号取得後、名古屋大学で従事したウミホタルの研究が評価され、1960年(昭和35年)8月からフルブライト奨学生としてプリンストン大学に博士研究員として留学、フランク・ジョンソン教授に師事し、オワンクラゲを研究する(~1963年8月)「下村氏にノーベル化学賞 蛍光タンパク質発見」中日新聞2008年10月9日付。 |
| 1963年(昭和38年)9月に帰国後、名古屋大学理学部付属水質科学研究施設助教授に就任旧大気水圏化学研究所 |
| しかしアメリカ時代とは異なり思うような研究が出来ず、またこのとき結婚をして長男が誕生していたため生活環境を変えることに迷いがあったが、妻の助言もあり、1965年(昭和40年)にプリンストン大学上席研究員職を得て再び渡米、研究拠点をアメリカに移す。 |
| 下村はこのときの経験を、安定した収入と職場を捨てリスクを伴う海外移住であったが、若さゆえにできたと後述している。 |