| 1893年(明治26年)春華族女学校学監を務めていた下田は、常宮・周宮御養育主任佐々木高行から皇女教育のための欧米教育視察を拝命した。 |
| その目的は皇室の伝統を保持しつつ、両内親王を海外賓客と接しても遜色ない、時代に順応した皇女として教育することだった。 |
| 初めての海外渡航にあたり、下田は西洋文化を取捨選択し長所のみを受け入れる態度で臨んだ中村2006、13-14頁。 |
| 大関1994、3頁。 |
| 宮内1973、285頁。 |
| 佐々木は明治天皇と直接折衝し、この欧米教育視察が下田の仕事に対する箔付けを含むことを説明している。 |
| 宮内省や華族女学校でも反対意見があり、視察の前下田は華族女学校学監を辞し教授在任となり、さらに表向きは自ら願い出る形で渡航が許可された。 |
| 明治天皇の下命は出発直前の明治28年8月24日となった。 |
| 同年9月横浜を発ち、ブライトンで英語学校に通った後12月にはロンドンへ。 |
| そこでエリザベス・アンナ・ゴルドンの知遇を得て、ヴィクトリア女王の孫娘が受けている教育と母親たちの生活に触れた森1995、6-9頁。 |
| 中村1989、208-211頁。 |
| 中村2006、11-22頁。 |
| エリザベス・アンナ・ゴルドン(ElizabethAnnaGordon)(1851-1925)はイギリスの比較宗教学者。 |
| ランカシャーに生まれ、スコットランドの名門貴族ジョン・E・ゴルドンと結婚。 |
| 2男3女を育てるかたわらヴィクトリア女王の女官を務めた。 |
| 1886年、35才でオックスフォード大学を卒業。 |
| 大学ではF・M・ミュラーに師事。 |
| 1891年に訪れた日本の自然と文化に魅了され、帰国後日本人留学生を援助。 |
| 英米加の新聞に呼びかけ洋書9万5千冊を蒐集、同門の高楠順次郎を介しそのうち2万5千冊を「日英文庫」として日比谷図書館に寄贈した(戦災により焼失)。 |
| 1907年の再来日を機に日本を拠点に比較宗教学の研究にあたる。 |
| 1916年急遽帰国の際、研究資料や収集品を早稲田大学に寄贈。 |
| 「ゴルドン文庫」として保管されている。 |
| 1925年京都で病没。 |
| 市井の人と親しく交わる女王一家と、王女が主婦として家庭を支える姿に強い印象を受けた下田は、やがて先々で出会う女性たちが豊富な知識、意志の強さ、行動力を持ち、それが教育と生活習慣によって培われたことを知る大関1994、7-8頁。 |
| 13、4才と思われる女王の孫娘女王の第7子アーサーの長女マーガレットか。 |
| 1894年当時12才は家庭教師を伴って女子学校に通い、普通の生徒と変わらない扱いを受けていた。 |
| 女王の末子ベアトリスは慈善会に質素な服装で現れ店主と言葉を交わし買物をしていた。 |
| 次女アリスはジフテリアに罹った末娘を自ら看護した結果若くして亡くなっている。 |
| 1894年(明治27年)12月、下田は皇女教育という目的を超え一般の女学校への視察を始めた城田1992、76-81頁。 |
| 下田は1894年(明治27年)7月6日付の谷干城への書簡で、日清は友好的な関係を保持すべきであるとの見解を表すとともに、視察期間の1年延長の希望とイギリスでの今後の方針について説明している。 |
| 1895年(明治28年)の春にはチェルトナム・レディーズ・カレッジ(CheltenhamLadies'College、以下CLC)で校長ドロシア・ビールと面会大関1994、10-12頁。 |
| ドロシア・ビール(DorotheaBeale)(1831-1906)はイギリスの教育者。 |
| 1858年からCLCの第2代学長を務め、1893年にはオックスフォード大学セント・ヒルダズ・カレッジ(StHilda'sCollege)を創設した。 |
| 1898年に津田うめが学んだのがこのセント・ヒルダズである。 |
| CLCは1895年当時本科生徒数600名、講師70名を有するイギリス屈指の女子高等教育機関で、その学則や運営、試験制度、施設、経営方法は下田が1899年に実践女学校を設立する際影響を与えたとされる。 |
| ビールは高齢で多忙だったにもかかわらず、学校の生徒やその家族と同様に下田を気遣い真摯な態度で接した。 |
| その厚意を下田は「真の親切」と表し、その人格と学問の深さ、教育に対する高い理想に感銘した。 |
| その後下田はケンブリッジ大学の女子学寮ニューナム・カレッジ(NewnhamCollege)と女子教員養成校ケンブリッジ・トレーニング・カレッジ(TheCambridgeTrainingCollegeforWomenTeachers、以下CTC。 |
| 現ヒューズ・ホール(HughesHall))を視察大関1994、13-15頁。 |
| 白井1995、96-100頁。 |
| CTCの初代校長エリザベス・フィリップス・ヒュースはビール校長のもとCLCの教師を務め、その後ニューナム・カレッジに学んだ女子師範教育の先駆者で、CTCはこれら2校をモデルに創られていた。 |
| さらに湖水地方やスコットランド、仏独伊など大陸の女子学校を訪問。 |
| その間1895年(明治28年)5月8日にはヴィクトリア女王との謁見を果たした中村2006、18頁。 |
| 下田の視察期間は当初の1年と、半年の延長申請が2回分認められた。 |
| 渡航先はイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オーストリア、ベルギーの6カ国に及び帰国の際英領カナダとアメリカにもまわっている。 |
| 中村2006、17-18頁。 |
| 前年5月には青木周蔵駐英公使との調整がうまくいかず女王謁見の機会を逃した。 |
| 女官の正装である袿袴での謁見にこだわった下田に対し、日英通商航海条約の調印間際だった青木が欧化主義の観点からこれを排したと中村悦子は推察している。 |
| 日英通商航海条約は1894年(明治27年)7月16日に調印され、その翌年下田は袿袴姿での謁見を実現した。 |
| これらの視察によって下田はキリスト教の信仰が自主独立と慈善博愛の精神を育み、学校教育や生活習慣の基盤となっていることを理解する。 |
| それに加え育児、教育学、衛生、生理、看護法に関する知識は実利主義のもと最新の科学が教授されていた。 |
| キリスト教に対する評価は変えたものの、自らの信条を保ち下田は1895年(明治28年)8月に帰国大関1994、16-18頁。 |
| 1895年(明治28年)10月から11月にかけ下田は佐々木高行の下を度々訪れ宮内大臣土方久元、侍従長徳大寺実則から帰国後何の沙汰もないと訴えたが、逆に徳大寺は佐々木を呼び出し下田が耶蘇教に変心したか問いただした。 |
| これは下田の欧米視察時に在英公使館に勤務していた宮内大臣秘書官長崎省吾が否定し一応決着する。 |
| 変心の噂の出所は宮内省御用掛兼皇后附女官山川操子と佐々木は推察。 |
| 翌年1月から2月には修学年齢に達した常宮の教育を巡って皇后大夫香川敬三、娘の宮内省御用掛兼皇后附女官香川志保子、山川操子と対立が起こる。 |
| 2月2日下田は山川操子の姉で女子高等師範学校生徒取締兼舎監の山川二葉が、妹と香川志保子に代わって常宮の教育を勤めるため女高師に辞表を提出したと佐々木に報告した。 |