| 鳳志ようは、大阪府堺市甲斐町(現在の堺区甲斐町)で老舗和菓子屋「駿河屋」を営む、父・鳳宗七、母・津祢の三女として生まれた。 |
| 実の兄にはのちに電気工学者となる鳳秀太郎がいた。 |
| 9歳で漢学塾に入り、琴・三味線も習った。 |
| 堺女学校(現・大阪府立泉陽高等学校)に入学すると『源氏物語』などを読み始め古典に親しんだ。 |
| また兄の影響を受け、「十二、三のころから、『柵草紙』(後には『めざまし草』)『柵草紙』とその後継誌『めざまし草』は、いずれも森鴎外を中心にした同人誌。 |
| 『文学界』や紅葉、露伴、一葉などの小説を読むのが一番の楽しみ」(『明星』1906年年5月)であった。 |
| 20歳ごろより店番をしつつ和歌を投稿するようになる。 |
| 浪華青年文学会に参加の後、1900年(明治33年)、浜寺公園の旅館で行なわれた歌会で歌人・与謝野鉄幹と不倫の関係になり、鉄幹が創立した新詩社の機関誌『明星』に短歌を発表。 |
| 翌年家を出て東京に移り、女性の官能をおおらかに謳う処女歌集『みだれ髪』を刊行し、浪漫派の歌人としてのスタイルを確立した。 |
| のちに鉄幹と結婚、子供を12人出産している(うち1人は生後2日で亡くなる)。 |
| 1904年9月、『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表。 |
| 1911年には史上初の女性文芸誌『青鞜』創刊号に「山の動く日きたる」で始まる詩を寄稿した。 |
| 1912年、晶子は鉄幹の後を追ってフランスのパリに行くことになった。 |
| 洋行費の工面は、森鴎外が手助けをし鴎外の紹介により、三越の事実上のオーナーである日比翁助から洋行費の補助として千円が贈与された。 |
| 金子(1992)、295頁。 |
| 、また『新訳源氏物語』の序文を書いた鴎外がその校正を代わった。 |
| 同年5月5日、読売新聞が「新しい女」の連載を開始し、第一回に晶子のパリ行きを取り上げ、翌6日には晶子の出発の様子を報じた(平塚らいてうなど総勢500余名が見送った)。 |
| 翌6月の『中央公論』では、晶子の特集が組まれたその中で鴎外は、「僕が特に言わなくてはならない事は無いだらう。 |
| 併し樋口一葉さんが亡くなってから、女流のすぐれた人を推すとなると、どうしても此人であらう。 |
| 晶子さんは何事にも人真似しない。 |
| 個人性がいつも確かに認められる。 |
| (中略)序だが、晶子さんと並べ称することが出来るかと思ふのは、平塚明子さんだ。 |
| (下略)」と評した。 |
| ちなみに、与謝野鉄幹とも親交があった鴎外は、晶子が産んだ双子(七瀬、八峰)の名づけ親になっており、当時、母を亡くして落胆していた晶子に「婿きませひとりは山の八峰越えひとりは川の七瀬わたりて」という歌を送った。 |
| 金子(1992)、288-289頁、299頁。 |
| 5月19日、シベリア鉄道経由でパリに到着した晶子は、9月21日にフランスのマルセイユ港から帰国の途につくまでの4ケ月間、イギリス、ベルギー、ドイツ、オーストリア、オランダなどを訪れた。 |
| また帰国してから2年後、鉄幹との共著『巴里より』で、「(上略)要求すべき正当な第一の権利は教育の自由である。 |
| 」と、女性教育の必要性などを説いた。 |
| 子だくさんだったが、鉄幹の詩の売れ行きは悪くなる一方で、彼が大学教授の職につくまで夫の収入がまったくあてにならず孤軍奮闘した。 |
| 来る仕事はすべて引き受けなければ家計が成り立たず、歌集の原稿料を前払いしてもらっていたという。 |
| 多忙なやりくりの間も、即興短歌の会を女たちとともに開いたりし、残した歌は5万首にも及ぶ。 |
| 『源氏物語』の現代語訳『新新源氏』、詩作、評論活動とエネルギッシュな人生を送り、女性解放思想家としても巨大な足跡を残した。 |
| 墓は多磨霊園にある(外部へのリンク参照)。 |
| 1921年に建築家、西村伊作、画家、石井柏亭そして夫、鉄幹らとともにお茶の水駿河台に文化学院を創設する。 |
| 男女平等教育を唱え、日本で最初の男女共学を成立させる。 |