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つながりの強いひと
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中井履軒
中井履軒(なかいりけん、享保17年5月26日(1732年6月18日)-文化14年2月15日(1817年4月1日))は江戸時代中・後期の儒学者である。中井甃庵の次男として生... |
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五井蘭洲
師事
五井蘭洲(ごいらんしゅう) [ 日本大百科全書 ( 小学館 ) ] (1697―1762) 江戸中期の 儒者 。名は純禎、字(あざな)は子祥(ししょう)、通称は藤九郎。... |
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松平定信
江戸時代の大名、政治家。陸奥国白河藩第3代藩主。江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫に当たる。定綱系久松松平家第9代当主。 |
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山片蟠桃
江戸時代中期の商人であり学者。名前は、升屋の番頭をしていたことからもじったもので、本名は長谷川芳秀、通称升屋小右衛門。 |
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尾藤二洲
江戸時代後期の儒学者。名は孝肇、字は志尹、通称は良佐、別号は約山。 頼山陽の叔父にあたる。柴野栗山・古賀精里とともに寛政の三博士と呼ばれる。 |
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富永仲基
江戸時代大坂の町人学者。懐徳堂の学風である合理主義・無鬼論の立場に立ち、儒教・仏教・神道を批判した。 |
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荻生徂徠
江戸時代中期の儒学者・思想家・文献学者である。名は双松(なべまつ)、字は茂卿(しげのり)、通称は総右衛門、徂徠と号し(一説では「徂來」が正しいとす... |
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三浦梅園
日本の江戸時代の思想家、自然哲学者、本職は医者。豊後国(大分県国東市安岐町富清)の出身。諱は晋(すすむ)。条理学と言われる独自の学問体系を築いた『... |
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佐藤一斎
美濃国岩村藩出身の著名な儒学者。諱は担。通称は捨蔵。字を大道。号は一斎のほか、愛日楼、老吾軒。 |
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太宰春台
江戸時代中期の儒学者・経世家。「春台」は号で、名は純、字は徳夫、通称は弥右衛門。また、紫芝園とも号した。 |
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頼春水
江戸時代中期・後期の儒学者、詩人。頼山陽の父。幼名は青圭、名は惟完あるいは惟寛、字は千秋、伯栗、春水は大坂で用いた号で江戸では霞崖と称した。別号に... |
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広瀬淡窓
江戸時代の儒学者で、教育者、漢詩人でもあった。豊後国日田の人。淡窓は号。通称は寅之助のちに求馬(よみはモトメ)。諱は建。字は廉卿あるいは子基。別号... |
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林述斎
江戸時代後期の儒学者。林家8代。父は美濃国岩村藩主松平乗薀(まつだいらのりもり)。諱は初め乗衡(のりひら)、後に衡(たいら)。字は熊蔵・叔紞・徳詮。... |
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草間直方
鴻池本店の店務をみたほか、1808年(文化5)以後は自分家業として両替店を開き、肥後 熊本藩 、南部(盛岡)藩など諸藩の経済的顧問として腕を振るい、 藩札 ... |
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加地伸行
加地伸行(かじのぶゆき、1936年4月10日-)は日本の東洋学者、評論家。大阪大学名誉教授。専門は中国哲学史。 |
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大槻玄沢
仙台藩の支藩一関藩(田村氏領)出身の江戸時代後期の蘭学者。名は茂質(しげかた)、字は子煥(しかん)。磐水(ばんすい)と号す。『解体新書』の翻訳で有... |
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中江藤樹
近江国(滋賀県)出身の江戸時代初期の陽明学者。近江聖人と称えられた。諱は原(はじめ)、字は惟命(これなが)、通称は与右衛門、藤樹と号した。 |
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伊藤東涯
江戸時代中期の儒学者。儒学者伊藤仁斎の長男で、その私塾古義堂の2代目。母の嘉那は尾形光琳・乾山の従姉に当たる。名は長胤(ながつぐ)、字は原蔵・源蔵・... |
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上田秋成
江戸時代後期の読本作者、歌人、茶人、国学者、俳人。怪異小説「雨月物語」の作者として特に知られる。 |
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プロフィール
- 中井竹山とは
- 出生と成長
- 師と教え
- 懐徳堂の経営
- 官学化への夢
- 挫折
- 晩年
- 学問
- その他
- 著述
- 参考文献
中井竹山(なかいちくざん、享保15年5月15日(1730年6月29日)-享和4年2月5日(1804年3月16日))は江戸時代中期の儒学者である。大坂の学問所懐徳堂の四代目学主として全盛期を支える。中井甃庵の長男。 中井履軒は実弟。名を善太、元服後に積善と改名。字は子慶。号は竹山、同関子、渫翁、雪翁など。
出生と成長
| 懐徳堂第2代学主中井甃庵の長男として大坂尼崎町の懐徳堂内で生まれる。 |
| 母早は播磨の植村氏出身。 |
| 2歳下に弟の履軒がいる。 |
| 甃庵は厳格であったが愛情深く竹山兄弟を育て薫陶を授けている。 |
師と教え
| 竹山が10歳のころより兄弟ともに、懐徳堂の助講五井蘭洲に師事し勉学に励む。 |
| 蘭洲は和漢の学に通じ、その教えは経学、漢学以外にも文章、詩歌、神道、仏教、史学、経済、兵学などに及んでいた。 |
| 竹山兄弟に与えた蘭洲の影響は大きく、後に「懐徳堂学派」と呼ばれるほど独自の学風が培われた。 |
懐徳堂の経営
| 27歳の時、京都より妻順(革島氏)を娶る。 |
| 宝暦8年(1758年)、甃庵が病没するとその遺志を継いで、29歳の竹山は預人に就任した。 |
| この役職は懐徳堂の校務全般を司り、実質的な経営者として第3代学主となった三宅春楼を支えた。 |
| 天明2年(1782年)に春楼が歿すると53歳にて第4代学主に就任する。 |
官学化への夢
| 懐徳堂は父甃庵の時代に官許学問所となっていたが、竹山はさらに昌平黌が官学化されたように懐徳堂を大坂における官立学問所とすることを夢見た。 |
| 竹山の様々な努力によって懐徳堂は西日本における学問の中心地としての一角を占めるようになっており、諸大名や旗本、学者らとのネットワークの広がりによってその評判は確実なものとなっていた。 |
| そんな折りに竹山にとって願ってもないチャンスが訪れた。 |
| 天明8年6月(1788年)、老中になったばかりの松平定信の来阪である。 |
| わずか3日という短い滞在期間の中で定信は竹山と引見し、政治や経済、学問などについて竹山に諮問した。 |
| 会見は4時間にも及んだという。 |
| この会見に触発されて後に竹山は『草茅危言』を書き、定信に献上した。 |
| この後、竹山の名声は全国に拡がり、来阪する諸大名や旗本らの招きが増え、懐徳堂には諸藩士や学者の訪問が相次いだ。 |
| 大坂城代堀田正順との関係も緊密となり、召し抱えの儒者として城内に自由な出入りが許され、講義をするようになる。 |
| 竹山は宴のときに酒客に「豪商鴻池が弟子となり、力士谷風も出入りしている。 |
| わたしとこの二人、世界は違うが皆天下の第一流である」と豪語したと伝えられる(『続近世叢語』)。 |
| 懐徳堂の絶頂期といえる。 |
挫折
| 寛政4年(1792年)5月16日、大坂大火に見舞われ懐徳堂は全焼する。 |
| とりあえずの仮屋を建築すると竹山は門人らと江戸に向かった。 |
| 再建するに当たりかねてより念願の官学化を幕府に陳情するためである。 |
| ところが老中松平定信に直接会う事は出来ず、願書を奉行所に提出するに留まる。 |
| この後、奉行所から設計図や見積の提示を求められたが、最終的に幕府からの再建補助は300両という金額に抑えられ懐徳堂の官学化どころか、学舎の再建にも窮してしまう。 |
| 門人らの寄贈によって大火から4年後になんとか再建は適ったが、竹山は急激に老いを感じはじめ、寛政9年(1787年)、68歳にてついに隠居し渫翁と名乗る。 |
晩年
| 徳川家の伝記である『逸史』を書き上げ、寛政11年(1789年)幕府に献上する。 |
| 将軍家より褒美を賜り、竹山は非常に喜んだという。 |
| 尾藤二洲から昌平坂学問所の史局総裁として招聘されたが、病気を理由に固辞した。 |
| その後も薩摩藩、加賀藩、熊本藩から招聘されるがすべて固辞。 |
| 肥満体であったために脚を痛めていたが、本心は懐徳堂から離れることを避けたかったのである。 |
| それほど懐徳堂と一体となった人生を歩んだ。 |
| 享和3年(1803年)将来を期待した四男蕉園が37歳の若さで呆気なく病没する。 |
| 七男碩果が跡を継いで預人となったが、悲しみや不安を拭う事は出来なかった。 |
| 心痛と疲労が重なった竹山は翌年2月5日歿する。 |
| 誓願寺(大阪市中央区上本町西4-1-21)に葬られる。 |
| 諡号は文桓とされたが後に履軒によって文恵に改められた。 |
学問
| 竹山は朱子学を信奉し、代表作『非徴』などで徂徠学を厳しく排撃している。 |
| しかし、懐徳堂ではかつてより内々ながら陽明学の講義がなされており、さらに伊藤東涯との付き合いもあり古義学についても排斥する事はなかったので傍目から見るとやや折衷学的な態度に見えたようである。 |
| 親友の頼春水もこの点について不満をもっていたようである。 |
| 「寛政異学の禁」については幕府が文教政策を明確化したことで儒者の社会的地位が向上するとして大いに賛成した。 |
著述
| 『草茅危言』。 |
| 『詩律兆』。 |
| 『社倉私議』。 |
| 『蒙養篇』。 |
参考文献
| 小堀一正 「中井竹山の生涯」『中井竹山・中井履軒』、加地伸行編著、明徳出版社<叢書日本の思想家>第24巻、1980年、46-94頁。 |
| 山中浩之 「竹山を巡る人々」 同上、114-166頁。 |
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1758年
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甃庵が病没するとその遺志を継いで、29歳の竹... |
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1787年
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68歳にてついに隠居し渫翁と名乗る |
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